上 下
29 / 53
3章 動きはじめた運命

10 

しおりを挟む

「う……うわあぁーんっ! 吉乃お姉ちゃんが怒ったぁ!」
「なんでぇ? 怖いよぉっ。うぅっ……」

 いつになく感情を荒げた吉乃の姿にショックを受けた小さな子どもたちが、泣き出す。
 慌ててそばに駆け寄り、抱きしめながら必死になだめながら、一体自分はどうこの場をおさめたら良いのか途方に暮れていた。

 飛び出していった吉乃を追いかけたい気持ちと、この子たちを放ってもおけない気持ち。傷ついたであろう美琴になんと言葉をかけたらいいのか。
 そしてもうひとつ。吉乃の話を聞くのが怖い、という気持ちとで、椿は混乱していた。

「美琴様。吉乃は……きっと何か抱えているものがあって、あんなことを。普段は、あんなことを言うような子では決してないんです。ですからどうか……」

 美琴は吉乃の去った方をじっと心配そうな顔で見つめていたが、今自分が追いかけてはかえって刺激するに違いないと判断したらしかった。

 今日の吉乃は明らかにいつもと違っていた。
 もしかしたら何か明之とのことで気にかかっていることでもあるのかもしれない。ちゃんと後で話を聞いて、吉乃と美琴との間にある誤解を解きたかった。

 けれど今は――。

「私のことはお気遣いなく。考えなしだったのは確かですもの。今日は私、このままお暇しますわ。私がいてはきっと子どもたちも落ち着かないでしょうし。……ごめんなさい。椿様。何のお力にもなれないどころかこんな騒ぎになって……」

 美琴のなんとか明るい表情を取り繕おうとするその様子に、胸が痛んだ。
 朝は当矢から預かった手紙に、あんなに嬉しそうに声を弾ませていたのに。初めての子どもたちとの対面に、緊張しつつもとても張り切っていたのに。

「それと私、しばらく子どもたちの元へは行かないほうがいいかもしれないわ。でももしご迷惑じゃなかったら、教材作りなんかはお手伝いさせてほしいの。直接会いに行かなくてもできることは他にもたくさんあるはずだから」
「美琴様……。今日は本当にごめんなさい。吉乃と話をしてみますわ……。本当になんてお詫びしたらいいのか……」

 椿は美琴にも申し訳なく、かといって吉乃が悪いわけではない。
 吉乃はしっかり者ではあるけれど、まだ十二才なのだ。あの小さな体で、心でどれだけの暗く寂しい思いを抱えて毎日生きているのか、それは椿にもよく分かっている。

 きっと自分の知らないところで何か、あの子の心を痛めるような何かがあったに違いない。

 吉乃の言った言葉が、脳裏によみがえる。

『自分はあたたかい屋敷に住んで家族もいて、毎日お腹いっぱいにごはんが食べられて、そんな恵まれた場所から私たちを見下ろしていい気分になってるのよ。そんなのただの自己満足じゃない! それとも罪悪感? 自分だけが恵まれていて、私たちはかわいそうとか?』

 あの言葉は、椿の心にぐっさりと突き刺さった。

 あれは私だ。あたたかい贅沢な屋敷で、この上なく優しい家族に愛されて、何の苦しみもひもじさを感じることもなく。遠山の皆に守られて、時折こうして孤児院にやってきては勉強を教えればきっと子どもたちの未来につながる、などと耳障りの良いことを言って。

 でも果たしてそれは、本当にあの子たちのためにしていることなんだろうか。
 自分自身の満足のため? それとも、胸の奥底に沈み込んだずっと私を支配し続けているこの罪悪感をごまかすため?

 椿は、足元がガラガラと音を立てて崩れていくような気がしていた。
 自分のしてきたことは、ただの自己満足だったのかもしれない。
 恩返しも、誰かの役に立ちたいという思いも、してきたことすべて――。

 けれどその日、ついに吉乃は誰の前にも姿を見せなかった。頑なに一人押し入れに閉じこもったまま、誰とも口をきかず心を閉ざし続けた。
 吉乃がなぜあんな言葉を放ったのか分からないまま、椿は孤児院を後にするしかなかった。




 その日の夜、椿は夢を見た。
 孤児院にいた頃の幼い日の夢を。

 誰も自分を必要とせず、他の子どもたちが次々とどこかへ嬉しそうに迎えられていく中自分一人だけが取り残されている。孤独と寂しさと、誰からも求められない悲しさでうずくまる。
 けれどふと目を開けると、そこはよく見慣れた遠山家のあたたかい居間で。

『お父様……お母様……。和真……!』

 暖炉にはあたたかい火が燃え、きれいな着物をまとい、テーブルにはずらりと手の込んだおいしいあたたかな食事が並んでいる。
 幸せな、幸せなあたたかい居場所。

 そしてふと気づく。
 そこにいたのは自分ではなく、あの男の子だった。自分の姿なんて、そのあたたかい光景のどこにもいなかった。


 ここにいるべきは、私ではない。ここにいるはずだったのは、あの子だ。あの日、遠山の両親に迎えられるはずだった男の子の居場所なのだ。
 それを奪い取ってしまった。あの子から永遠に取り上げてしまった。

 私は償わないといけない。この罪滅ぼしをしなければ、きっと許されない。

 私は選ばれないはずの子だったのだから――。

 椿は自分の中に、浅ましい思いがあるのをその日知った。
 自分のしてきたことは、ただの欺瞞だと。誰かを助けるものでも、恩を返すなどという心地の良いものでもなく。ただ自分の中にある後ろ暗い気持ちを打ち消して見ないようにしていただけ。

 そんな後ろ暗い気持ちが、消えるはずなかったのに。



 だから早くここを出て行かなくちゃ。
 いただいた恩を一日も早く返して、この居場所をあの子に返してあげなくちゃ。私がここにいる資格は、初めからなかったのだから――。

 眠っている椿の目から、涙がつうっと滑り落ち、枕に染みを作った。

 

 ゴダルドとその娘エレーヌとの会食の日時が正式に決まったという知らせが届いたのは、その翌朝のことだった。



しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

あなたは知らなくていいのです

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:71,398pt お気に入り:3,981

噂の悪女が妻になりました

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:18,581pt お気に入り:1,818

妹が私の婚約者も立場も欲しいらしいので、全てあげようと思います

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:2,960pt お気に入り:3,921

異世界の赤髪騎士殿は、じゃじゃ馬な妻を追いかける

恋愛 / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:55

もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:222,948pt お気に入り:4,530

処理中です...