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◆エンジェルフィッシュ◆

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「うわ!」
 自分の家の天井でも外でもない景色に飛び起きた。昨晩どうやって帰宅したのか記憶が無い。ということは路上で寝てしまったのでは、と思ったのにそれも違う。
「おはよう旭」
 その声に驚いてベッドから転げ落ち、うっと呻いて腰をさする。呆れ顔の千鶴が床にひっくり返った旭を見下ろしていた。
 旭は状況が理解出来ずに顔を引き攣らせた。出来ることならば、昨晩の自分に問いただしたい気分だ。よく見ると、千鶴の目元が泣いた後のように赤く腫れていて、心なしか表情が冷たい気がする。
「・・何かあったの・・かな?」
 千鶴は無言でベッドから降りると、思いっきり旭の頬を平手打ちした。頬に痛みの余韻が残る。以前栗下あずさに叩かれた時とは全然違う、「ずしん」と重みのある痛みがした。旭は頬を押さえて千鶴を見つめた。
「何に俺が怒ってるかわかってる?きみは道にふらふら飛び出して、危うく死にかけたの!」
 千鶴は険しい顔をして旭を怒鳴った。
「どうしてそんなになるまで飲んだの?死んじゃってたら、俺たちもう会えなくなってたんだよ!」
 旭は返す言葉が何も見つからなかった。「ごめんなさい」と小さく呟いてうつむいた。
「・・どこまでは覚えてるの?」
 旭は記憶をたどった。途切れ途切れの場面のなかに、衝動的な強い苛立ちと恐怖だけが色濃く頭に残っていた。
「飲み会の途中から無い・・けど、すごい恐怖感に襲われたのは覚えてる」
 千鶴の固い表情が微かに和らぐ。
「それはどんな?」
「目が怖かったんだ」
「目?」
「うん、皆んなが俺を馬鹿にしてるように見えて、とにかく怖くて」
 話をしていると、またその時の恐怖が蘇りそうになる。旭は身体が震え出すのを必死に堪えた。すると千鶴はいつもの優しい口調で、「叩いてごめん」と旭の頬に手を伸ばした。頬に優しく触れた千鶴の手も小刻みに震えている。千鶴がぱっと背を向けて涙を拭った。
「俺も怖かったんだから、旭が死んじゃってたらって・・」
 千鶴は嗚咽混じりに言葉を詰まらせる。
 自分のために涙を流し、小さく身体を震わせている千鶴の姿。旭はたまらずに目の前の男を引き寄せた。ビクッと一度だけ肩が跳ねたが、そのあとは身を委ねられる。
 旭の胸は高鳴っていた、千鶴もそうであってほしいと思った。強く抱き締めたまま額と額を合わせ、「ふふ」と千鶴が笑う。二人は見つめ合った。

「なぁ」
「なに?」
「好きだ」
「・・うん」

 抱き締めた腕のなかで、千鶴が嬉しそうに顔を赤らめる。千鶴の髪を撫でると、短く柔らかい髪が旭の手にサワサワと当たり、ふわりといつものシャンプーの香りがした。
 その匂いだけでどうしようもなく興奮する。はやくその肌に触れて乱れさせたい、自らの浅ましい欲望に目の前がチカチカとした。だが。
「・・もう帰らないと」
 そろそろ帰らないと会社に間に合わない。
「うん・・夜待ってるから来て。だから頑張って」
 優しい千鶴の誘いに、旭は頷いた。
「よしよし、偉いぞー!」
 千鶴はぐしゃぐしゃと旭の頭を掻き回して笑う。
「あっ、ちょっと!」
「ははは、いってらっしゃい」
「うん、いってきます」
 アパートの前の道路に出ると、窓から千鶴が手を振るのが見えた。こんな日が来るなんて夢みたいだ。旭も微笑んで手を振り返した。

 旭は定時に仕事を終えるとすぐに会社を出た。千鶴が待っている、そう思うだけで、腫れ物に触るような周囲の態度もそんなに気にならなかった。会社の近くにいつか花を買ったフラワーショップがある。店先に飾ってある花が目につき、立ち止まった。
「いらっしゃいませ。以前もいらして下さいましたよね。こちらのお花またお包みしましょうか?」
「そうだな。頼むよ」
 出来上がった花束を受け取り、旭は走った。早くこれを渡したい、浮き足立つ気持ちが旭の背中をさらに急かした。
 呼吸を整えてインターホンを押すと、ガチャリと開けられたドアから千鶴の顔が覗く。千鶴の視線が外に向けられるのと同時に、目の前に腕いっぱいに抱えた黄色の百合の花を差し出した。
 途端に感嘆の声を上げ、千鶴の顔がぱあっと華やいだ。
「何これ、すごっー!どうしたの?」
「出会った時をやり直したくて。最初にあげた時は覚えてなかったし」
「別にいいのに、でも嬉しいもんだね。ふふふ、女のコになった気分」
 千鶴は束の中から一本抜き取り、自分の顔の横に添えるようにして持った。輝く黄色の花びらが、いつも弾けるみたいに笑う千鶴によく似合っていた。
「どう似合う?」
「この花は千鶴みたいだな。明るくて、綺麗で」
「へへ、そう?でもこれでも一応男なんだから綺麗よりもかっこいいって言ってほしいんだけど」
 見える世界が変わるとは、まさにこのことを言うのかもしれないなと思った。窮屈で息苦しいだけだった世界に、嘘みたいにキラキラと輝く、太陽のような存在を見つけた。
「ね!枯れないうちに写真撮ってもいい?」
 千鶴は腕いっぱいの百合の花を部屋の中へ運び込み、ベッドの上に並べた。
「旭も入って」
 千鶴が手招きする。
「え、俺はいいよ。撮ってあげるから」
「だめー、自撮りできる棒があるの知らないの?記念に一緒に入ってよ。ほら来て」
 旭は渋りながらも隣に座った。画面に収まるために千鶴がぎゅっと旭に近づいて、今更ながら胸が煩く鳴った。照れ隠しに少し俯いた瞬間、「カシャ」とシャッターが切られた。
「あー、下向いてる。まっいいか。写真苦手そうだもんね」
 千鶴が画面をこちらに向けて、悪戯に笑った。
「旭?」
「・・・・」
 旭は千鶴を見つめた。吸い込まれそうな瞳から目が離せない。
「いい?」
 淡く小さい唇を親指でそっと撫でる。見つめ合ったまま千鶴は頷いた。顔が近づくにつれ瞼はゆっくりと閉じられ、長い睫毛がとても綺麗だと思った。
 触れる、離れて、また触れる。初めてでもないのに、柔らかくて気持ちがよくて唇が震えた。壊さないように優しく、時には味わい尽くすように激しく、何度も口付けた。
 甘い吐息を漏らし、ピクンッと反応する千鶴が愛おしくて、抱き締める腕に力がこもる。ベッドの上の百合の花が甘美な香りを放ち、汗ばんだ千鶴の肌にかぶりつきたくなるほどの情欲が湧き立った。
 熱く腰を打ちつけるたびに千鶴は仰け反って喘いだ。うっとりと旭を見つめて「愛してる」と呟く。旭は込み上げてくる快感に、千鶴を強く抱き締めて欲を注ぎ込んだ。
 旭は愛しい男の髪を優しく撫でた。
「愛してる、千鶴」
「ふふふ、嬉しい」
 千鶴は優しく微笑んだ。
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