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◆モノクロームと砂糖とミルクと◆

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 火事跡を見に行った翌日、警察から連絡がきた。出火元は旭さんの部屋からでは無かった。その事実に安堵しながらも、旭さんは抜け殻のように動かなくなった。
「いってきます」
 河原は無言の背中に淡々と語りかける。
「冷蔵庫に昼メシ入れてあるので温めて食べてください。鍵はいつものところに置いておくので、外に出る時には戸締りお願いします。では」
 ガチャリとドアを閉めた。あれから一週間、旭さんからの返事がないことにも慣れてきた。
 旭さんは会社に行けなくなった。一日中、窓際のソファにうずくまって過ごしている。たまにテレビをつけている時もあるけれど、ぼんやりと見つめているだけで、その瞳には何も写してないように思えた。
 河原はため息をついて、会社のデスクに腰掛けた。顔を上げてホワイトボードに記入された今日の自分の予定を確認する。
「今日は急ぎの案件が四件か、ルートを調整しよう」
 自分が家を空けている間に旭さんが死んでしまうのではないかと心配になる。あの日以降、旭さんはめっきり食が細くなってしまった。冷蔵庫のご飯にもほとんど口をつけていないようだった。
 腕時計を見る、九時、少し早いけど行こう。早く終わらせて駅前のデパートで何か買って帰ろう。河原はカバンに書類を詰め込み勢いよく席を立った。
 全て終わったのは十八時、そして今は二十時半。河原はイライラと外を見た。時間を巻くためにタクシーに乗ったはいいものの、午前中に起きた事故の影響で未だに規制が張られ、道路は大渋滞だった。
 腕を組み「トントントン」と指で急かす仕種をする河原に、運転手は居た堪れなさそうな顔でソワソワしている。「お客様」と声を掛けられて、河原は自分の無意識の行動にハッとした。スマートフォンでデパートの営業時間を調べると、終了時間まで残り三十分を切ってしまっている。この調子では間に合いそうもない。
 河原は諦めて、座席に深く腰掛け目を閉じた。旭がこんなことになってから、河原も良く眠れない日々が続いていた。夜中、何度も起きてリビングの旭を覗いては、そこに居ることに安心して胸を撫で下ろすのだ。
 目を閉じているうちに、身体がずっしりと重たく感じて、うとうとと眠りに落ちた。ふと気が付くと、窓ガラスに「ぽつぽつぽつ」と雨粒が当たる音が聞こえた。やがて本降りになり、分厚い雲から雷が光るのが見えた。
 河原はスマートフォンを開いた、上部に表示されている時刻は二十一時十一分。すっかり遅くなってしまった。旭さんからの着信は無い、一応こちらからもかけてみるが電源が入っていないのか繋がらなかった。最近使っているのを見かけていないから、充電が切れたままになっているのかもしれない。
「やっと渋滞抜けましたよ」
 運転手がほっとしたような声で河原に伝えた。のろのろ運転だった車が一斉に動き出したのがわかった。
 家の前でタクシーを降りて、旭の待つ部屋を見上げると明かりがついていない。いつものことだろうと思っても不安になり、全速力で階段を駆け上がった。
 慌ただしく鍵を開けて中に飛び込み、靴を脱ぎ捨ててリビングまで走った。
「旭さん?」
 いつもの窓際のソファに旭の姿はなかった。トイレにも、お風呂にも、居る気配はない。河原はわなわなと震えてその場に座り込んだ。頭を抱えて、タクシーなんか使わなければよかったと後悔した。目にじわっと涙が滲むのが分かり、ゴシゴシと乱暴に袖でそれを拭った。
 呆然としながら鼻をすすり、立ち上がってネクタイをゆるめる。
「着替えよう」
 河原は自室として使っていた寝室のドアを開けた。
「・・・あっ」
 暗い部屋の中には、河原のベッドの上で丸まって寝ている旭が居た。安堵のため息をついて駆け寄ると、「すーすー」と規則的な寝息の音が聞こえた。
 河原はしばらくその寝顔を眺めていた。少し大きいサイズの服のせいで、痩せて骨の浮いた鎖骨が余計に目立った。河原はそれを優しく撫でた。
 くすぐったかったのか、もぞもぞと旭が体勢を変える。向こうをむいた旭の背中に身体をくっつけて横になった。胸に手を回して心臓の鼓動を感じ取る、旭の身体がちゃんと温かいことに切ないほど胸が熱くなった。
 翌朝、河原はいつもよりも一時間早く起きた。まだ寝息を立てている旭を起こさないように、するりとベッドから降り寝室から出た。
 リビングに行くとそのままキッチンに立った。鍋を取り出して出汁を取り始める、鰹節と昆布のよい香りがほわほわと湯気に乗ってキッチンを満たした。
 次に河原は冷蔵庫の中身を見て、大根と豆腐、卵を取り出す。
「あっ、先にご飯炊かないと」
 手に持った具材を一度カウンターに置き、米を水で洗って炊飯器にセットする。それが終わってから大根を短冊切りにして、先程取った出汁の中に入れた。
 火が通るのを待つ間に卵焼きを作った、鮭も焼いた。大根に火が通ったら、味噌を溶かして豆腐を切り入れた。もう少し野菜があれば良かったなと思いながら器に盛り付け、テーブルに並べた。
 河原はそっと寝室のドアを覗いた。旭はまだベッドの上に横になっているようだが、顔が見えなくて起きているのか分からない。
「旭さん、おはようございます」
 いつもは返事が無ければそれ以上何も言わないようにしている。河原はちょっと迷ってから、旭の身体を優しく揺さぶった。
「起きてください。朝ご飯作ったんです、一緒に食べませんか?」
 反応は無さそうで河原は小さくため息をつく。やっぱり駄目かと肩を落としてベッドから離れた。ドアの方へ向かおうとすると、ベッドが軋む音がして、旭がベッドから起き上がっていた。顔に表情は読み取れないが、呼びかけに応じてくれたことは大きな進歩だ。
 リビングに戻ると旭はテーブルには座らずに窓際のソファにうずくまった。河原は味噌汁の入った器を手に近寄って、「どうぞ」と差し出した。
「ここに置いておきますね」
 味噌汁をローテーブルに置いて、自分は朝食を並べたテーブルの椅子に座った。「いただきます」と手を合わせて食べ始める。
 黙々と無言のまま河原が三分の二ほど食べ終わったところで、旭がすっと味噌汁に手を伸ばした。両手で器を持ち上げて顔に近づける、くんくんと匂いを嗅いで一口すすった。とてもゆっくり「ごくん」と喉仏が動くのが分かった。そろそろとまた器に口をつけ、一口、時間をかけて飲み込んだ。そしてたっぷり二十分かけて一杯の器を飲み干した。
「偉いです、よく飲めましたね」
 河原が近づくと旭は目を伏せて俯いた。河原は無性に泣きたくなった。世間から隔離されたこの部屋でしか生きられなくなった、目の前の灰のような小さな男を自分は可愛いと思ってしまうことを。自覚する、俺はこの人をきっと愛しているのだ。

 最近知ったことなのだが旭さんは雨が嫌いだ。
 空が陰り始めると、寝室のベッドで布団に包まって座り込んでいる。ベッド脇にも窓があるせいで、雨が降る音は寝室内にも響いている。リビングと変わりないんじゃないかと疑問に思って聞いてみても、もちろん返事は無かった
 その日は予報が雨で河原は早めに帰宅した。その頃にはまだ、手をかざさないと降っているのか判断できないくらいの霧雨だった。けれどたった数分後、風呂に入っている間に土砂降りの叩きつけるような雨に変わっていた。
 「ぎゃー!」と叫び声が聞こえて飛んでいくと、寝室の旭さんはひどく怯えて泣きじゃくっていて、血塗れの手で耳を抑えていた。何をしたのかと聞いても答えずに苦しそうに嗚咽を繰り返すだけ。
 どうやら自分で自分の耳を切りつけたらしく、床に血の付いたカッターナイフが転がっているのを見つけた。
 病院で大袈裟に包帯を巻かれて戻ってきた姿に、心が引きちぎられそうな思いがした。なのに当の本人はなぜか嬉しそうで、その理由を尋ねても、やっぱり何も答えてはくれなかった。
 傷が癒えた後も旭さんは包帯を外すのを嫌がった。なんとか宥めてクルクルとそれを取ると、耳の後ろの付け根に沿うように傷跡が残っている。傷跡を指でなぞると細い線のような皮膚の盛り上がりが感じられた。血生臭くグロテスクな衝動にしては、その線はあまりにも美しい三日月を描いていた。
 河原は立ち上がろうとする旭の手を強く握って引き止め、「どうしてこんな事をしたんですか」と、もう一度静かに問いかけた。
「旭さん‼︎」
 背を向けたまま答えようとしない旭に河原は声を荒げた。いつもとは違う厳しい態度に旭は身体を強張らせる。やがて、閉じられていた唇が微かに動いた。
「・・・鈴が・・鈴が・・鳴ってるんだ」
 久しぶりに聞く声はひどく掠れて、か細いものだった。旭が耳を押さえてしゃがみ込む。
「きっと千歳が俺を責めに来てるんだ・・お前のせいで・・・お前のせいだ・・って」
 途切れ途切れの悲痛な叫びは、しだいにすすり泣きに変わった。河原は足元でうずくまる男を見下ろす。
 なんて哀れな人なんだろう、誰かが支えてあげないと崩れてしまう・・・。
 河原は旭の耳を手で優しく塞いだ。そして、その唇にキスを落とした。口付け合う音だけで旭の脳がいっぱいになるように、数え切れないほどのキスをした。離された唇から驚きとも喜びとも取れる吐息が漏れる。一秒もしない内に今度は旭が河原の口にかぶりついた。ずっとこうされるのを待っていたかのように夢中になって舌を絡める。
 河原は愛しいその耳に低く囁いた。
「旭さんはもう何も考えなくていいですから。これからは俺の声だけを聞いて、俺の事だけを見ててください」
 旭は河原の声に涙を流して頷いた。
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