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 目が覚めた時、夜はとっくに明けていた。あくびをしながら、シャワーでも浴びようとベッドから起き上がろうとしたが、何かが上に乗っていて動かなかった。金縛りか!?と焦ったが、真っ黒な黒髪には見覚えがあった。

「……オ、オリバー?」

 良かった。ちゃんと横文字の名前は覚えていたようだ。柔らかそうな髪の毛が、俺の胸の上でふわふわと揺れている。昨晩しこたま抱いたはずの夢魔は規則正しい寝息を立てながら、俺の身体の上で眠りに落ちていた。胸に伝わる体温と鼓動で、悪魔も生きているんだなと妙に実感した。後頭部を撫でてやると、手のひらにすり寄ってきた。まるで猫みたいだ。真っ黒だし、黒猫だな。なんてことを考えていると、オリバーのまぶたがゆっくりと開いていった。

「おはよぉ、ヒラサカさん」
「なんでまだいるんだ、おまえは」
「ええ~ひどくない?」

 くすくす、と散々聞き慣れた笑い声をあげて、オリバーは顔をこちらへ向けた。寝起きですら美しいな、この悪魔は。

「うーん、俺も分かんない。本当なら一番最初に精気を取り込んだ時に契約完了になるはずなんだけど、ヒラサカさんが絶倫だったからタイミング失ったのかも」

 うっ。抱き潰したことを指摘されると、謝るしかない。いくら童貞だからって休憩なしに朝まで励むのは流石にまずかったか。俺だって良心の呵責を覚えることもある。しかし不思議なことに、眠気はあるが体力は損なわれている様子はなかった。これがインキュバスの為せる技か。

「わ、悪かったって」
「んふふ♡いっぱいセックスできたね♡どうだった?」
「良かったよ」
「……それだけ?」
「他になんて言うんだ」

 童貞だった人間に厳しいことを聞くな。感想なんて、良かったと悪かった以外何を言えばいいんだ。実際悪くても、「良くなかった」なんて言えるはずもないのだが。

 正直な話、期待以上だった。若いオネーチャンの予定がオニーチャンに変わったのは期待外れだったが、それを鑑みても貴重でとても良い体験だった。自分で思ったより復活が早いのも分かったし、非常に助かった。今後に活かせそうだ。でもよく考えれば生でハメたせいで感覚が麻痺していたし、そもそも穴が違うので前提で失敗しているのでは?という疑問はなかったことにしておこう。これだって俺の寿命を削っているのだ。わざわざ供物を用意して悪魔を呼び出すまでしておいて失敗しました、とは悲しくて思いたくない。成功だ。俺は満足したんだ。そうなんだ。

「――とにかく俺は満足したから、早く帰ってくれ。今日も仕事なんだ。早く準備しないと」
「ん~。やっぱり契約終了してないんだよねえ。なんでだろ。ちょっと聞いてみるから待ってて」

 聞いてみる?どういうことだ?と思ってそのまま見守っていると、耳の後ろに手を当てて、神経を研ぎ澄ませて何かを聞いているようだった。

「……*×?◯△▲×△×◎◇、×*◇◎▼?」

 突如、理解が及ばない言語でオリバーが喋りだした。フランス語とドイツ語と中国語とロシア語が混ざったような言葉に、頭の中が疑問符だらけになった。まあ、その言葉のどれも俺は理解できないのだが。

「◇▲!?◇*△*◇◎×▼!?◯◇*◎▲△×◇*▼……◇◯?」

 会話がヒートアップしている。俺の部屋で、俺の分からない言葉で喧嘩をしないでくれ。やがて大きなため息を吐いて、オリバーがこちらを振り向く。終わったのか?目でそう訴えると、また大きなため息を吐かれた。

「な、なんだなんだ」
「ヒラサカさんさぁ、こどもほしいの?」
「……はあ?」

 またいつもの過剰なリップサービスか?と身構えるが、オリバーは真剣な目をしている。反応した俺が馬鹿みたいじゃないか。

「昔は欲しいと思ってたけど、今は別に」
「本当に?」
「そりゃ、俺も自分の子孫が欲しいとは思うよ。叶うことならだけど。でも無理だって分かってるんだから、弁えてんの俺は」
「本当に?」
「おまえさっきからそれしか言ってないな。疑り深い奴め」
「……さっき、召喚システムの管理局に確認したんだ。俺が帰還出来ないのはシステムのバグか取り違えじゃないんですかって」

 システムを管理する機関があるのか。最近の悪魔界っていうのはハイテクだな。他の人にバラしたとしても、信じて貰えそうにない。俺だって目の前にオリバーがいなかったら、こんな話、真面目に聞いてもいなかっただろう。

「それで?」
「管理局が言うには、俺がヒラサカさんの子供を身籠るまで帰れないんだって」
「だから、なんでなんだよ。身籠るとか意味がわからん」
「ヒラサカさん、俺を呼び出す時にお願いしたんじゃないの?こどもがほしいって」
「そんなこと思ってな……あ?……もしかして……」

 むね肉に手を伸ばした時、スーパーで会った親子のことを思い出していた。仲が良さそうな二人に、「いいなあ」と好意的な感情を持ったのは覚えている。まさか、一瞬思っただけの、たったそれだけのことが、そんなに如実にシステムに影響してしまうというのか。

「ああ……」
「心当たりあるんだね。弁えてるとか言ってさ」
「うう」

 たった今オリバーに言ったばかりの言葉が、俺の心をザクザクと傷つけていく。でも、そんな、「一生のお願いです」と神様に願ったとか、そんな大したことではなかったのに。ただちょっと「いいな」って思っただけで、こどもが欲しいと解釈されてしまうなんて。悪魔契約のシステムって、実は結構いい加減なのではないだろうか。そんなガバガバなつくりなら、完遂も難しくないのかもしれない。ちょいちょいっといじって、オリバーを妊娠した悪魔ということにして貰えたらそれでいいのでは?

「あの、一応聞くけど」
「ん?」
「おまえって、妊娠出来る悪魔?」
「……ははっ、何を言うのかと思えば。だったら良かったんだけどねぇ、あはは」

 オリバーは豪快に笑ったかと思えば俺の背中をバシバシと叩く。笑いすぎて泣いてしまってる。……そんなに笑うことか?

「残念ながら俺はふつーの夢魔だから妊娠できないよ」
「え?ていうことは、……え?おまえ、帰れないじゃん」
「さっきからそう言ってるんだけど」
「ええ?」

 俺はてっきり、間違いでしたすんませんつって契約書を書き換えてもらうか、なんか管理局のアレな力でこの悪魔を妊娠したことにして、それじゃバイバイって感じになると思っていたのに。自分でもふわっとした考えだと思うが、四十年近くこの国で生まれ育った人間なので、そんな簡単にファンタジーな対応はできない。え?でも、本当に待ってくれよ。じゃあオリバーは向こうの世界に帰すんだ?

「ヒラサカさん」
「は、はい」
「昨夜も言ったけど、契約不履行はできないよ。ほら、あんたが用意した五芒星が描かれただけの簡易的な魔法陣。あれは、あんたの署名にすぎないから。その代わり、頭の中で考えたことや口に出したことが契約の内容になるんだ。これを覆すことは不可能なんだよ。だから、俺は帰れないの。ずっとここにいるしかない」

 オリバーがすごい勢いで丁寧に説明してくれてるけど、全然頭に入って来なかった。だって、それは俺がどうしようもないことであって、じゃあ具体的に何をすればいいのか全く検討もつかないからだ。

「……帰れない?」
「うん」
「ずっと?」
「うん」
「……俺が、死んだら?」

 オリバーは口の端を吊り上げてニヤリと妖艶に笑ったかと思えば、

「察しがいいね、ヒラサカさん」

 今度はこどものように無邪気に笑っている。怖い。いったいいくつ笑顔のレパートリーがあるんだ。

「契約を履行せずに完了する方法っていうのが、実はいくつかあるんだ。もちろんやむを得ない事態だから、今までそんなことになったのは数えるくらいだって昔聞いたことがある。一つは、サモナーが第三者の関与によって事故や事件、もしくは病気で亡くなったりすること。一つは、サモナーの魂をその場で頂くこと。あとは、……えーと、ああ、そうだ。別の人間にまるっと契約を移行する、だったかな?」
「……あの、オリバーさん。最後の身代わり契約は置いといて、他の二つは」
「サモナーが死んだらってことだね」
「ですよね」

 さすが悪魔。さらっととんでもないことを言ってのける。つまり、俺が死ぬまでこの契約は破棄されることはないのだ。……え?死ぬまで?

「俺が一生面倒見てあげるね♡」

 上機嫌に笑っている顔は天使のようでいて、紛れもない悪魔の笑顔だった。

「え、い、い、い、一生?それはちょっと重くないか?せめて十年くらいで……」
「ええ~?だって人間の一生なんてたった百年くらいでしょ?大丈夫大丈夫!俺八十年亀飼ってたことあるし!」
「人間と亀を同列で語るんじゃありません!」

 えへん、とまたこどものように誇らしげに語るオリバーの頭をぺちんと叩く。八十年も亀を飼育してたなんて、渋すぎるし人間だって無理だろそんなの。

 ……八十年?

 八十年って言ったか?八十歳の亀の間違いじゃなくて?だとしたらそれもすごいんだけど。
 『八十年』の意味を理解した時、なんとも言えない感覚が全身を襲った。そういえば、俺はオリバーの年齢を聞いていない。なんとなく二十歳前後だと思っていたが、こいつは悪魔だった。見た目の年齢と実年齢は違う可能性が高いだろう。オリバーは人間の一生をたった百年だと言った。百年は人間には遠すぎる時間だ。けれど悪魔にとってみれば、近所の子がいつの間にか大人になったなぁ~くらいのことでしかないのだろうか。

「オリバー」
「うん?」
「おまえの年齢を聞いてもいいか?」

 オリバーは一瞬考えて、俺の目の前に三つの指を立てた。まさか三十歳か?意外と若……いや老けて……いや若い……ええい、悪魔の年齢はわからん!

「三百歳とちょっと」
「さ、さ、さんびゃく?」
「あ、意外と若いと思った?夢魔の中ではそうかも」
「いやいや」

 いやいやいやいや。三百歳って。百年が三回訪れたってことか?規模がでかすぎてまったく分からない。あと「三百歳とちょっと」ってなんだよ。ちょっとって、一歳や二歳程度じゃないのは分かるが。

「だから、俺なら一生側にいてあげられるよ、ヒラサカさん」
「……一生って」
「すぐだよ」
「そうかぁ?」

 そうか?――そうかもなぁ。

 昨日までの俺なら、絶対に無理だと拒否していただろう。極限状態の精神だったとしても、こんな非科学的な現象はありえないと断言していたし、むね肉と魔法陣を用意したのだって、本当に悪魔が呼び出せると思ってやった訳じゃなかった。今にして思えば、ただの現実逃避だったのかもしれない。でも、俺は知ってしまった。オリバーという存在を。

「ヒラサカさんはさぁ」
「なんだ」
「こどもは弁えてるらしいけど、伴侶は欲しかったんじゃない?一生大事にしてくれる人をさ」

 どっと汗が出て、一瞬、心臓が止まったかと思った。指摘されて初めて気づいたのだが、その通りだったのだ。

 今更家庭が欲しいとか、そんなことは望んでいなかった。こどもは可愛いけれど、自分の子となれば話は別だ。自分のことすらままならないのに、理想の父親になれるとは到底思えなかった。きっとそんなに肩肘を張らなくてもいいのだろう。難しく考える必要はない。分かっているのに、『他人』の介入を許すことができなかった。
 そんな臆病な俺ですら、お互いを大事に思って生きる誰かが側にいて欲しかった。なんて虫の良い話だろう。ありのままの俺を好きだと言ってくれたなら、それはなんて嬉しいことか。でも、そんな俺にだけ都合のいい存在がいるとも思わなかった。だからこれは、俺の無意識の願いでしかない。口に出さず、誰にも知られず、俺ですら認識していないほどの身勝手な願いは、このまま表に出ることなく、生涯を終えるのだろうと思っていた。

「俺がいるじゃん」
「……オリバー」
「良かったね」

 へへ、と笑いながらオリバーが全裸のまま俺の腰に抱きついた。――きっと俺が童貞でなければ、精神がイカれてなければ、伴侶がほしいと願わなければ、出会うこともなかっただろう。オリバーは俺が願い、望んで、呼び出した。俺が欲しかったのは、オリバーだったのだ。

 急に愛しさが溢れて止まらなくなった。痩躯を抱えあげ、腕の中に閉じ込める。猫のように頬ずりを繰り返す愛しい悪魔に、優しく口づけた。

「オリバー」
「ん、なに……?」
「俺が死ぬまで絶対妊娠するなよ」
「んふ、だからしないって……え?」

 一生俺の側から離れるな。言葉の意味に気づいたオリバーは、みるみるうちに顔を真っ赤にさせていった。


END...
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