【完結】『ルカ』

瀬川香夜子

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三章

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「二冊だけで良かったのか?」
「うん。ありがとうハリス」
 腕の中には文庫本が二冊。それを大事に両手で抱えてハリスに微笑む。
 リアが選んだのは詩集だ。色んな作者のものが一つにまとめられた本を二冊。詩なら読むのにそう時間もかからないと思ってのことだが、あまり早すぎても寂しいなという欲から二冊借りてしまった。
 図書館からそう距離もない宿についてさっそくベッドにかけて本を開く。
 数行で終わってしまう短い物から数ページ続くもの。家族や大事な人を詠ったものもあれば風景を細かく連想させるものも抽象的な表現のものまで様々だ。
 作者の名前を見てもリアにはそれが誰なのかはわからない。もしかしたら有名な人なのかもしれない、と思いつつもわからないからこそ詩そのものを深く味わえていると思う。
「あれ……」
 次のページを開いて、つい声が漏れた。向かいで同じように本を読んでいたハリスが顔を上げて「どうした」と問う。
「あ、いえ……一つだけ作者がわからないものがあって……他のは全て書いてあったから珍しいなってつい声が……」
 恥ずかしくなってゴマ火曜に笑みを浮かべながら口元に手を置く。ハリスは考えるように視線を宙に向けてから自分のベッドを降りてリアの隣に腰掛けた。
「どれ」
「この、ページの……」
 覗き込むハリスの赤い髪がすぐ傍で揺れる。いつもよりも近い距離に、勝手に心臓が跳ねる。
「やっぱり……」
「知ってるんですか?」
「作者が分かってないのもそうだけど、結構古い時代の物らしくて有名だよ」
「そうなんですね……」
 開いた本に視線を落として頷く。
 作者、成立年共に不明と書かれた二文字のタイトルから始まる詩。一ページで収まってしまうほどの短いものだが、スッと心に入って来た。
「このタイトル、どう意味なんでしょう……」
 「ルカ」と一つの単語のみで形成されたそのタイトルには、どういう意味が詰まっているのか。聞き馴染みのないその言葉にひどく惹かれた。
「ルカって言うのは光を与える者って意味がある。恋人に対して言ったり、生まれた子供にルカって名づけたり……」
「じゃあ、この詩は大事な誰かのことを詠った物なんですね」
「そうだね……初恋を詠んだんじゃないかって言われてるよ」
(初恋……)
 ハリスの長い指が、最初の一文を示す。乗り出したせいかお互いの肩が触れて、息が詰まる。
「地に堕ちては生まれて初めて……そして、自分の気持ちにわからない様子とか……初恋だって考える人は多いよ」
「そうなんだ……」
 確かにタイトルの意味を知ったあとでは余計にそう思える。中盤に書かれた春から冬にかけて綴られる文を見れば、きっとこれを書いた人の瞳には綺麗な景色が映っていたんだろう。
(きっと俺みたいに……)
 視線だけでハリスを盗み見る。詩に眼を奪われているハリスはリアには気づいていない。暗くなった外の風景につられて部屋にも静かで穏やかな空気が流れる。
 暖色の照明で明るくなった室内に、ハリスの赤い色が浮かぶ。
(きれい……)
 艶を増した少し癖のある髪が揺れて、その隙間から同じ色の瞳が……。
「リア?」
「あ、ああ。うん……何でもない……」
 やだな。見惚れてたなんて言えるわけないのに。
 指の腹で文字をなぞる。紙のざらついた感触に心がゆとりを取り戻していく気がする。
「ねえ、ハリス」
「うん?」
「ハリスには……ルカって呼べるような人はいるの?」
 本を握る指が強くなる。自分の声が震えていないか怖かった。
「ルカ……」
 思案する短い声がすぐ近くで落とされる。ハリスが再び口を開くまで、息をするのも忘れていた。聞いておきながら耳を塞ぎたい衝動に駆られる。しかし、それよりも前にハリスの声が届く。
「俺には、いないかな……」
 赤い瞳が細くなって口にはうっすらと笑みが乗る。作られた笑顔。それだけで、嘘なんだって気づいてしまってふいに眼が熱くなった。
 「そう」なんて相槌を打ちながら顔を隠すように俯く。自分とハリスを隔てるように黒い髪がサラサラと流れてほっと息をついた。
 悲しくて、苦しい。そして、やっぱりなってどこかで笑っている自分がいた。喘ぐように口を開いて、音を載せる。期待なんてしていなかったのに、胸に落ちた重い塊のせいで零れてしまった。意趣返し、とは言わないけれどこっちを気にしたらいいと思った。
「俺にとっては、ハリスがそうかな……」
「え……」
「ソニーさんとの生活は楽しかったけど、自分のことは何もわからなくて、地に足がついてないって言うか……ふわふわした不思議な感じだった……でも、ハリスが見つけてくれたから……」
 息を呑んだ音に、慌てて口を回して言葉を重ねる。
(怖い)
 いつも、言葉にしてから後悔する。
 ソニーは「クロ」と呼んでくれたけれど、それはやっぱり仮名でしかない。ソニーもそのつもりだからこそ適当に付けたのだ。
 ハリスは空っぽで何もなかった自分に「リア」をくれた。赤い瞳が見開かれ、木漏れ日と一緒に煌めいたそれに捉えられた瞬間に、確かにリアはそこに存在していた。
「あの日、俺を見つけてくれてありがとう」
 それには純粋な感謝だけを込めた。さっきまでの黒いわだかまりは消して、すぐ傍であの日のように大きく開かれた赤い瞳を真っ直ぐに見つめながら笑う。
「俺を見つけてくれたのがハリスで良かった」
―――それだけは本心だから。
 照れくささもあって緩んだ頬を指で掻く。ポカンと開いたハリスの間抜けな表情が愉快で喉の奥をクスクスと鳴らす。
 初めて見たハリスの表情に胸が軽くなった。どうしようもなく好きだなと実感して、さっきとは違う意味で泣きそうになる。
 きっとハリスは感謝で隠したリアの心には気づかない。その方がリアとしても助かる。
「リア、俺は……俺は……」
 本の上に置いたリアの手に、ハリスの手が重なって握られた。それだけで、リアの体温は上がって触れ合った箇所から意識が逸らせない。
 ハリスは何か言おうとしているけれど、「俺は」と呟く先は出てこない。リアは急かすこともせずに「うん、うん」と頷きながら待つ。
 結局ハリスは先を言うことはなく口を噤んでしまった。触れた手が離れていくと今度は寂しさが襲う。
 いっそ気づいてくれたなら、こうやって気軽にリアに触れるのも止めてくれるだろうか。身体に触れられる度にこんなにドキドキしていたら体がもちそうにない。しかし、その鼓動さえも愛おしく感じてしまうものだから、リアはやっぱり「好きだ」と実感させられて、そしてどうやったって口には出来そうになかった。


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