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 夜会の翌日、アーヴィングの生活は一変した。
 継母の指図で、アーヴィングの身の回りの世話などこれまで一度もしたことのない侍女が、今朝は甲斐甲斐しく自分の周りで動き回っていた。
 湯気の立つ、温かいお湯の張られた洗顔用の器。その横に置いてある拭き布も手触りが良い。きっと上質な綿で織られているのだろう。
 いつも自分で水を汲みに行き、ぼろきれのような布で適当に拭くのが日常だったのに。

 「本日のお召し物はこちらになります」

 侍女が用意したのはトルソーに飾られた真新しいコートとウエストコート。
 多色の絹糸で華やかな刺繍が施されている豪奢なそれは、明らかに普段用ではない。
 戸惑うアーヴィングに侍女はおずおずと口を開いた。

 「本日は王宮に行かれると言うことで、旦那様がこちらをと……」

 「父上が……」

 アーヴィングは昨夜我が身に起こった出来事を思い返す。


 *


 『け、結婚……!?』

 『そうよ。でも決めるのはあなたよ。嫌だと思うのなら断ってくれても構わないわ。好みというものもあるだろうし。王族の申し出だから断れるはずがない、なんて考えなくて大丈夫よ。これは私とあなた、二人だけの話だから』

 いきなり現れて結婚を申し込んできたのはこのグランベルの王女アナスタシア。
 波打つ黄金の髪に青い宝玉を埋め込んだような大きな瞳。
 アーヴィングには触れることは疎か、言葉を交わすことすら一生ないと思っていた遠い存在。
 そんな尊い人が自分の頬に触れ、今は手を重ね合わせているのだ。
 アーヴィングは動揺し、激しく打ち付ける鼓動にどうにかなってしまいそうだった。

 『とにかく詳しい話はまた明日にしましょう』

 そう言うとアナスタシアはアーヴィングの手を引いて歩き出した。

 『で、殿下?いったいどちらへ?』

 『あら、会場に戻るのよ。あなたのご両親にも挨拶をしなくてはね』

 (挨拶?あの親とも家族とも呼べないような人たちに?しかも手を、手を繋いで!?)
 アーヴィングの動揺は混乱に変わった。
 ただの戯れにしては度が過ぎている。アナスタシアの悪評など聞いたことはなかったが、もしかしたら彼女は自分を笑いものにでもしようとしているのではないだろうか。
 みすぼらしい妾腹の子をその気にさせて、勘違いするなと大勢の前で突き放すつもりなのかもしれない。
 アナスタシアはそんなアーヴィングの気も知らず、会場へ向かって歩いて行く。
 大広間に足を踏み入れた途端、会場中の視線が一斉に向けられて足がすくむ。

 『お、おいお前!!』

 ヴィンセントが大声を上げてこちらへ駆け寄って来る。
 また殴られるのかと思ったアーヴィングは咄嗟に身構えたが、いつまでたっても拳が飛んでくることはなかった。
 なぜならアナスタシアがアーヴィングを庇うように前へ出たからだ。
 アナスタシアは薄く笑みを浮かべながら、ヴィンセントの顔を見ていた。

 『あ、あの、そいつは』

 『無礼者が』

 ひどく冷たい声が会場に響き渡り、それまでの喧騒が一瞬にして静まり返った。
 本当に今の声はアナスタシアのものだろうか。
 ヴィンセントは自分のなにがアナスタシアの不興を買ったのかわからないようで、助けを求めるように視線を彷徨わせている。

 『ヴィンセント!!』

 会場の奥から騒ぎを聞きつけたのか、継母が血相を変えて飛んできた。
 そしてアナスタシアの後ろにいるアーヴィングを見つけ、憎しみのこもった眼差しを向けてきた。

 『アナスタシア殿下、うちの愚息が無礼なことを……まことに申し訳ございません。あまり大きな声では申せませんが、その子には卑しい血が流れておりまして、何度躾けても言うことを聞きませんの』

 『どうやらそのようね』

 アナスタシアの言葉にアーヴィングは心を抉られたような気分だった。
 継母が言う卑しい血の入った息子は紛れもなく自分のことだ。やはり彼女は自分を貶めるためにここまで連れて来たのだ。
 ヴィンセントは自分が不興を買ったわけではないと思ったのか、口の端を吊り上げ勝ち誇ったような顔をした。
 錆び付いた心の扉が、軋む音を立てながら再び閉じようとしたその時だった。

 『王女である私に向かって挨拶一つできないなんて……いったいどれほど卑しい血が流れているのかしらね、ヴィンセント・ラザフォード!』

 アナスタシアの剣幕に継母もヴィンセントも目を見開き、アーヴィングは自分の耳を疑った。
 (殿下は一体なにを……卑しい血が流れているのは俺の方なのに……)

 『こ、これは失礼をいたしました!』

 納得はしていないのだろうが、アナスタシアの剣幕に、継母とヴィンセントは慌てて膝を折った。

 『これはアナスタシア王女殿下、我が家の者がなにか!?』

 参加者と談笑していたはずの父親も駆け付けたが、頭を下げ続ける妻と長男、そしてアーヴィングの腫れた頬を見るなり狼狽えたような表情に変わった。

 『お久しぶりね、ラザフォード卿。……私も少し気が立っていたの。ごめんなさいね。でも丁度よかったわ』

 『丁度よかった……とは?』

 『明日、卿のご子息を私の茶会に招待したいの。いいかしら』

 瞬時にラザフォード侯爵の目が輝いた。

 『愚息をですか?それはもう!身に余る栄誉でございます!』

 返事を聞くなり、アナスタシアはくるりとアーヴィングの方へ身体の向きを変え、にっこりと微笑んだ。

 『ですって。夜会の翌日で大変だろうけれども、待ってるわ、アーヴィング』

 アナスタシアの口から出たアーヴィングの名に、会場はどよめき、呼ばれるのは自分だと思っていたのだろうヴィンセントは悔しそうに拳を握り締めていた。


 *


 アーヴィングは今まで一度も着たことのない高価な上着に袖を通してみた。
 すると不思議なことに、サイズがアーヴィングにぴったりではないか。
 自分のクローゼットの中はヴィンセントの着古したものしか入っていないし、第一昨日の今日でこんな品を用意できるわけもない。

 嫌な予感がする。

 アーヴィングは重い足取りで、朝食をとるために食堂へと向かったのだった。
 






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