かさなる、かさねる

ユウキ カノ

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6.開かない扉

6-②

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「入って」
「……お邪魔します」
 エアコンのない部室棟は、この時間はまだ陽射しが射しこんでいて蒸し暑かった。ドアを開けた瞬間に、外より密度の高い空気に押されるようにして汗が噴き出す。
「そこ座って、治療させて」
 部室にはベンチが置いてある。そこに座るようあごで指したけれど、シュウは座ろうとしなかった。うつむいて、唇を強く噛んでいる。シュウお得意の拒絶だ。
「そんな顔すんなよ。もういいだろ」
 なにがもういいのか、自分でもわからなかった。ただ、シュウがひとりで傷と向き合っているのには、耐えられそうになかった。
 にらめっこみたいだった。どっちが折れるのが先か、校舎の喧騒も聞こえない場所でしていた根比べには、結局シュウのほうが負けた。体重を感じさせない動きで、シュウが腰をおろす。
「袖、まくって」
 そう指示してからも長い時間があった。シュウが迷っているのがわかる。俺は根気強く待った。ここまでシュウはついてきたのだ。こいつは、きっと押しに弱い。
 シュウが左袖のボタンをはずした。唾を飲みこむ音が聞こえたらシュウは手を止めてしまうような気がして、口のなかは額の汗とおなじように洪水状態だった。腕を見つめないように、なにを見ても揺らがないように、とにかく余計な感情を生み出さないために神経をシュウの胸のボタンに集中させる。なにも言わずに袖をまくるシュウは、覚悟を決めたのか思ったよりおだやかな顔をしていた。
 吸いこんだ息の音が、シュウに聞こえないよう抑えるのがやっとだった。身体は細くても、腕は男のそれだ。太くて、筋肉質で。でも肌は異常に白くて、そこにある無数の赤い傷が、いっそきれいに見えてしまうほどだった。
 そう、シュウの腕には、赤くて細い傷が並んでいた。並んでいると言えるほど、まっすぐ一列にはなっていない。縦横無尽、そう言うのが一番適しているだろう。血が流れてはいなかったけれど、さっきつけたのだろう真新しい傷は、周囲の肌が腫れて熱を持っているように見えた。
 美奈子の傷とは、見た目がずいぶんちがった。シュウの傷は、冷静な普段の様子からは想像できないほど乱雑で適当につけられている。ただひとつ共通しているのは、長いあいだ傷つけているのだとわかる古い傷痕があることだった。
 ひざに乗せた自分の腕をじっと見つめているシュウを一瞥して、持ってきたセカンドバッグから救急セットを取り出す。消毒をするとき、きっと沁みるはずなのに、シュウは身じろぎもしなかった。ティッシュで受けとめた消毒液はうっすらと血の色に染まっていて、なぜかすっと冷静になっていく。
 そうしているうちに、部室にシュウを連れ込んでまで治療をしている理由がわかったような気がした。シュウがひとりで傷を抱えていることに耐えられなかったんじゃない、自分たちのせいで傷ついたシュウの傷を癒すことで、罪悪感から解放されたかっただけだ。
 自分勝手だ。自分のことしか考えていない。そのせいで、おおきな絆創膏を貼る指先に変に力がこもってしまった。
「はい、終わり」
「……ありがとう」
 最後に、包帯でくるんだ腕をぽんと軽く叩く。シュウの顔は、そこでもやはり歪まなかった。痛みにはよほど強いらしい。いつもおだやかなやつだけれど、シュウは今まで見たことがないくらいにしずかだった。
 謝らなくてはいけないと思ったのに、なんと言っていいのかわからなかった。無言の気まずさを隠すために、セカンドバッグからランニングシューズを取り出して、溝にはまりこんだ土を落とす。
「ごめん」
 シュウが突然口を開いた。落ち着いた声だった。先に謝られて動揺が指に伝わる。整備していたシューズが、音を立てて床に落ちた。シューズを拾いながら、こっちこそごめん、と口にする。自分でも驚くくらいちいさな声だった。謝罪しているのにシュウの顔を見られない。後ろめたさが、視線をそらせた。
「あの、明のせいじゃないから」
 武本のせいでもない、と重ねてシュウが言う。俺が気づいたことに、シュウはきっと思い当たったのだろう。
「じゃあ、なんで」
 今度は訊かずにはいられなかった。美奈子の顔が一瞬、頭に浮かんでふっと消える。なぜ、と何度も繰り返してきた疑問が、ふたり分あわさって膨れあがる。シュウのほうは見れなかった。スパイクに視線は向いているけれど、そのもっと先を見ているような感覚があった。
 沈黙のなかで、校舎からチャイムの音が聞こえた。授業の遅刻は決定だ。シュウの肩が揺れるかと思ったけれど、視界の端でシュウはなにかの像みたいに動かなくなっていた。
「……ごめん」
 しばらくの沈黙のあと、シュウはもう一度そう言った。ほんとうに俺たちのせいではないと言っているようにも、俺たちのせいであると言うようにも、どちらにも聞こえる声音だった。こういうとき、俺はいつもなら自分に原因はないと考える人間だった。でもいまは、そんなふうに思えない。自分を責めることでシュウが楽になるとも思えなかったけれど、おなじ過ちを、もう二度と繰り返したくないのだ。
「教室戻れば」
 いまはこうしていてもだめなのだと悟った。シュウはまだ、踏ん切りがついていない。それでもいい。シュウは傷を見せてくれたのだから。
「……明は?」
「次の授業から出る」
 わかった、と言ってシュウが袖をもとに戻す。無言で部室を出ていく背中を見送って、座っていたベンチに寝ころんだ。シュウはきっと、俺の言ったとおり教室に戻るだろう。たとえ授業の途中でも、窓際の席に座って、先生の話を聞くために。まっすぐに伸びるシュウの背中を想像する。授業に遅れたことを、あいつが気に病まないといいと思った。
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