かさなる、かさねる

ユウキ カノ

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10.うまくいったりいかなかったり

10ー③

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 小学生のころ、夏休みが終わるのは八月三一日だったように思う。九月一日に学校に提出しなければいけない宿題に手をつけていなくて、夏休み最終日、泣きながら鉛筆を走らせたものだった。真面目に勉強しないという選択肢なんてないと思っていたのに、中学、高校と年があがるにつれてどんどん手を抜くようになっている。今年の夏休みも、まるでぜんぶを終えたら左腕が腱鞘炎になるのではないかと思うくらの課題が出ているけれど、俺は新学期がはじまってからゆっくりと消化していくつもりだった。先生たちの小言は、聞こえないふりをすればいい。
 いつからだったか、夏休みが終わるのが一週間も早くなった。八月三一日の習慣もいつのまにか思い出になって、過去の彼方へ消えてしまった。それを寂しいと思う余裕もないまま、容赦なく新学期はやってくる。
 新学期なんて、いつまでもはじまらなければいい。そう思っていたのに、今年は終わらない夏休みをじれったく感じていた。けれどそれも今日までだ。やはり終わっていない課題たちと一緒に、俺は田んぼ道を自転車で駆けた。
「おはよ」
「おう、おはよ」
「おはよう」
 朝、教室に入っていくと、そこには見慣れたシュウと武本の姿があった。これまではなんとも思わなかったその光景が、なんだかかけがえのないもののように感じられる。シュウがいて、武本が笑っていて、そこに俺がやってくるというこの場所をうれしく思った。
「明、黒くなったなあ」
「お前こそ」
 武本とは補習以来会っていなかった。夏休みのあいだずっとグラウンドで走りまわっていたのだろう、顔や半袖から伸びる腕は立派に日焼けしている。かくいう俺も休み中は炎天下の屋外にいたせいでおなじように真っ黒だった。シュウはあいかわらず、襟元から覗く首だけで身体中が白いのがわかる。
「俺だけちがう季節をすごしてたみたいだね」
 俺たちふたりを見比べていたシュウが、たのしげに笑って冗談を言う。その様子を見た俺と武本とで、思わず顔を見合わせた。こういうとき、いつもは武本がシュウをからかい、俺が同調し、シュウはただ困ったように笑うだけだったからだ。
「ほんとだよ! 冬じゃねえんだぞ」
 バシバシと武本がシュウの肩を叩く。以前なら身体を引いてしまいそうな場面なのに、シュウはうれしそうに叩かれていた。
 よかった、と心から思う。シュウのなかにあった壁のようなものがなくなっているのを感じて、俺は馬鹿みたいに泣きそうだった。なにがきっかけでもよかった。俺のことばが、なんの重みも持っていなくたって構わない。すくなくともシュウはいまここで、心の底から笑っているのだ。
 始業式だからと言って、学校は俺たちを解放してくれはしない。夏休みが明けて早々、課題テストが待っている。課題に手をつけていないのにテストを受けるなんてばかばかしいと思いながら、まったく解けない問題を前にしても気持ちは軽かった。シュウの手がペンを走らせたり止まったりするのをただ見ているのすらたのしい。
「テストどうだった」
 放課後、シュウの背中をつついて問いかけた。そんなふうに触れることにも話しかけることにも興味はなかったのに、いまはシュウの焦げ茶の瞳がこちらを見るのがうれしくて仕方なかった。
「いつもよりリラックスしてできた気がする」
「なんだそれ」
 真面目な顔でシュウが言うものだからおかしくて笑ってしまった。テストの出来を訊いたのに、心持ちのことを答えられるとは思っていなかったのだ。
「ほんとうなのに」
 笑った俺をうらめしそうに見てシュウがふくれる。今日のシュウは表情がころころ変わっていた。こんな顔をしているところを、見たことがあっただろうか。リラックスしているというのは実際、うそではないのだろう。
 帰りのホームルームも、俺たちの会話も終わった。シュウの乗るバスは一時間ごとに運行しているからそろそろいかないと逃してしまうはずなのに、いつまでも座って横を向いたままじっとしている。
 そんなシュウの様子を察して、なあ、と声をかける。
「今日ひま?」
 あの日、涙を見せたあの日以来、シュウがいったいなにを考えていたか知りたかった。呼んでほしいと言ったのに、顔を合わせるどころかメールのやりとりすらしていない。まるで自分が言ったことばの力を確認するようで気が引けたけれど、なにか話したいことがあるような素振りをシュウが見せているように見えた。
「うん……!」
 そしてその直感はあたったようだった。ほっとしたようなため息をついてシュウが笑う。こうやって見せる表情ひとつひとつがやわらかい。
「まあたお前らはふたりでこそこそと」
 声が降ってきたと思ったら、武本が近寄ってきてあきれたように肩をすくめた。肩には部活用のセカンドバッグをかけている。シュウと目を合わせて、なんでもないというポーズをとって見せると、武本は口を尖らせた。
「その感じだとお前ら残るつもりだろ。俺も部活なければなあ」
「サボればいいんじゃないの」
 武本はそんなことはしないとわかっていて言ったつもりだった。胡散臭そうに俺を見て、武本がやれやれと首を振る。
「ばーか、お前と一緒にするなよ」
 じゃあな、と笑いながら武本は教室を出ていった。いつもどおりだ。こんなこと、いつだって言われてきた。陸上部に所属しているのに決して練習には加わらない俺を、武本は受け入れてくれている。それは変わらない。けれど自分のなかに、武本のことばにひっかかる「なにか」が、生まれているような気がした。
「明?」
 ぼうっとしていたのか、シュウに声をかけられてはっとする。シュウが不安そうな顔をしてこちらを見ていた。こんな表情をさせるために、ここに残ったのではないのだ。なんでもない、と手を振ってシュウに向きなおる。
 教室がからっぽになるのは早かった。部活か、帰宅か、遊びか。いずれにしてもみんないく場所があるのだ。夏休み早々学校に残ろうとするなんて特異だと言われるだろう。
 窓の外には、おだやかな青空が広がっていた。その先に宇宙があるのだと想像させてくれる空に浮かんでいるのはもう入道雲ではなく、筆で描いたような薄い雲だ。吹奏楽部の鳴らす楽器の音も、どこかあっさりとして聞こえた。季節は確実に秋へと移り変わろうとしている。
「……席替えやるって先生言ってたね」
 シュウがつぶやく。一学期をおなじ席順ですごしたのだから、それも当然だった。今日のホームルームで担任は明日の席替えを予告したのだ。
 やっとシュウに近づけたような気がしていた。春から今日まで、この席でシュウを眺めていたのに。さみしいと言ったら、いまさらだと笑われるだろうか。
「なんか、さみしいね」
 シュウがそう言って、思わず口が開いた。
「なに、あっぽん口開けて」
 笑われてはじめて、あごの感覚が自分のなかに戻ってくる。口を閉じてうつむきながら、恥ずかしさから顔が赤くなるのがわかった。
「シュウお前、あっぽん口って」
「あれ、言わない? おばあちゃんによく言われるよ」
 おばあちゃんだなんて、ずいぶんかわいい呼び方をするんだなと頭の片隅で思う。シュウはきっと、子どものころからこんなふうに「いい子」だったのだろう。自分の気持ちを言えずにいたシュウが、こうして俺に思いを伝えてくれていることが、身震いするほどうれしかった。
「……俺も、さみしいよ。やっと仲良くなれたのに」
 口に出して、俺も自分の気持ちを表現するのは得意ではなかったということを思いだす。言ってから、あまりにも素直に感情を表してしまったことを後悔した。
「ほんと?」
 でもシュウがあまりにもうれしそうに目を輝かせるから、後悔した自分をまた後悔した。
「ありがとう」
 こんなとき、自分の思いをただ吐露するのではなく相手への感謝を伝えられるシュウを、俺は純粋に尊敬した。そして同時に、もっと自分本位になってもいいのにと思う。他人のことばかり考えずに、もっと自分を一番にしてもいいはずだ。
「俺、シュウがそんなふうに思ってくれてるの、正直すげえうれしい」
 ことばにしようか迷った。でも、伝えたかった。
「だから、もっと自分の気持ち話してほしい。俺のこと呼んでほしい」
 足りない、と言っているのだとは思われたくなかった。ただ知りたいだけだ。呼んでほしいと言ったのにそれが現実になっていないのは、やはりシュウに遠慮があるからなのだろうか。
 俺の視線をまっすぐ受けとめて、シュウがふっとおだやかに笑う。
「この前、明に言われたこと、うれしかったよ」
 ほんとだよ、と念を押すように言う。続きをうながすように、シュウの瞳をじっと見つめ返す。
「電気を消して、布団に入って、目をつむって……それで、息ができなくなるときがあるんだ。理由なんてわからないけど、空気が質量を持って押し潰してくるような、そんなときが」
 目を伏せて、その瞬間を思いだすようにシュウがぽつりぽつりと話す。俺にも覚えはあった。叫びだしたいのに、のどが詰まって声が出ない夜。ずっとこんなふうになるのは自分だけだと思っていたのに、シュウも経験していることだと知って驚く。
「布団のなかでまるくなって、もう耐えられない、切っちゃおうって思ったときに、明が言ってくれたことを思いだした」
 うつむいていたシュウが、ふっと顔をあげる。澄みきった秋へと移り変わっていく、窓の外の空みたいな表情だった。
「こういうとき、つらいって言っていい相手が俺にはいるんだ、って。それを思いだすと、息をするのが楽になる。机のうえのカッターに意識を向けなくてもよくなる」
 見たこともないシュウの部屋を想像する。きっと、とてもきれいに整頓された、シュウそのものみたいな場所だと思った。
「そうすると、起きてるときも肩が重くない。頭のてっぺんから糸で釣られてるみたいないつもの感覚が、不思議なくらいなくなる」
 ひざのうえでシュウが右のこぶしをやわらかく握り、また開く。
「だから俺、しばらくやってないんだ。いまはもう、生傷はないよ」
 そう言ったシュウの表情があまりにもきれいで、俺は泣きたくなった。よかった、と心から思った。
 そしてほんとうに「よかった」と言った声は、自分でも聞こえないほどちいさくて震えていたのに、シュウはまた、ありがとう、と言って笑った。
「シュウ、腕ここに乗せて」
「なあに」
 首を傾げたシュウが椅子の向きを変えてから座りなおして、両腕を机のうえに差しだす。真っ白なシャツにおおわれた腕を、シュウはなんの躊躇もなく見せてくれた。この信頼を、くすぐったく思う。
「触っていい?」
 俺たちのあいだに流れているこの空気を、なんと表現したらいいだろう。秘密を共有しているときの、息の詰まるような緊張感が呼吸を浅くする。けれどその濃い空気を、心地よく感じた。
 こくりとシュウがうなずく。対角線上にあるシュウの左腕に、そっと触れる。薄い布を一枚隔てて、いつか見た傷だらけの腕がある。縦横無尽に切りつけられた見えないその痕を追いかけるように、できるだけ力をこめないで指を這わせた。
 シュウのことを寒がりだと思っていたこともあった。だからきっとシュウの手は冷たいのだと、そう思っていた。けれどいま触れているこの手は、たしかにあたたかい。生きている、人間の手だ。
「痕、きれいになるといいな」
 俺の行為をしずかに見守っていたシュウは、それを聞いて泣きそうな顔で笑った。
 自分の存在が、シュウの役に立っているのがうれしかった。いつか、美奈子には差し伸べてやれなかった手が、今度はシュウの指先にしっかりと触れた気がした。
 翌日には予告どおり席替えが行われて、俺はこれまでとほとんど変わらない窓際に、シュウは教室中央の一番後ろに移動した。シュウの背中を眺めていた日々が終わったことを心底残念に思ったし、そのせいで授業中は外を見ていることが余計に多くなった。
 あいかわらずメロンパンをひと口ずつじれったくなるようなスピードで食べるシュウの笑顔を見ているのがうれしかった。武本も、シュウの変化を如実に感じとっていたと思う。
 俺は安心しきっていた。これでシュウを救うことができたと、だれにも言わないけれどそう思っていた。毎日のランニングも、澄んだ青空の薄い雲に手が届くんじゃないかと錯覚するほど足が軽く、気分がよかった。調子に乗ってすこし高いシューズを買い、すぐに使いたくてちゃんとソールで調整しないまま走ったら靴擦れを起こしたくらいだ。
 よろこびに浮かれて考えることを忘れれば、ものごとはうまく進もうとしていた足を止めてしまう。
 俺はあまかった。なにも、わかっちゃいなかった。知っていたつもりだったのに、それを、俺は改めて思い知ることになる。
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