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第三十八話 足止め

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 角兵衛と方丈斎が戦闘に移ると同時に、勝郎と太助は方丈斎の前に跳躍一番、八郎の前に立ち塞がった。
「甲賀の八郎、従兄弟村雨に代わり貴様の命申し受ける!」
「あんたたちには無理だよ」
「大した自信だが、いかに才に恵まれようと貴様は伊賀組の本当の恐ろしさを知らぬ」
 村雨が命を賭して八郎を倒そうとして倒せなかったことはわかっている。それでもなお八郎は伊賀組の執念の深さと人の情念の恐ろしさを知らないと太助は断じた。
 なるほど八郎の才は天が与えた領域にあるのかもしれない。だがそのような才を、己より強い相手を倒すためにこそ忍びの技は発展してきたのである。まして経験の浅い若造一人屠れないで忍びを名乗れるはずがなかった。
「そうかな?」
 静かな決意とともに八郎は嗤う。
 角兵衛に鍛え上げられたこの力が、思った以上に強力であったことを八郎は知った。だが強いというだけでは物足りない。そんな飢えのような感情がある。
 竜王山の庵にいたときにはなかった感情であった。負けたくない、もっと強くなりたい。そして負けられないという意志が今、八郎に加わったのである。
 死を決して戦う師の前で、父の前で敗北するなど絶対に許されることではなかった。
「俺には見届けないといけない義務がある。悪いけどあんたらに構ってる暇はないんだ」
「小僧! よくも言った!」
 全く眼中になし、と八郎に宣言された勝郎と太助は静かに激高した。理性を失うような単純な怒り方はしない。いかに激情にかられようとそれが戦闘に影響しないよう制御する術を彼らは身に着けていた。
「ならばその大言、見事成して見せよ!」
 太助が苦無を投擲すると同時に、勝郎は万力鎖を懐から取り出して振り回した。万力鎖は分銅鎖ともいい、鎖と錘で構成された武器である。その歴史は古く伊賀や甲賀でも広く使用され正木流や戸田流に今なお名をとどめて居る。近距離中距離の打撃武器としては非常に応用性の高い武器であり、二人一体となって間合いを制するのが狙いであるらしかった。
 苦無を礫で逸らし、八郎が太助へ攻撃するため間合いを詰めると、そこに鎖と錘が飛んでくる。さすがにこれを礫で逸らすことはできないため身体ごと避けると、そこに再び苦無が飛んできた。よく練られた連携であった。
 だがそれだけなら、八郎の腕をもってすれば、あえて間合いを詰めることも可能であったはずである。それができなかったことに八郎は不審を抱いた。何かがおかしい。
 錘と苦無の同時攻撃を寸前で身体を捻って避けた八郎は異常を確信した。ほんのわずかにではあるが、間合いの目測がずれている。
「――――ほう、気づいたか」
 うれしそうに太助は嗤った。心を落ち着けなくてはならないことはわかっていても、心の底から湧き上がる愉悦に我慢をしきれなかったのである。
 ほんのわずか、八郎でなければ気がつくこともなかったかもしれぬ差であった。しかし実戦の最中には致命的な違和感である。先ほどから回避するためにいつもより大きく避けなくてはならないために間合いを詰め切れずにいるのがその証拠であった。もし八郎でなければその違和感を感じるよりも早く太助の苦無を浴びて息絶えていただろう。
「村雨の毒を全て避け切ったとでも思っていたか? 血のなかに毒が含まれていると気づいたのは見事だが、生憎と伊賀組の術はそれだけでは終わらんのだよ!」
 たとえ相手を死に至らせることができなくとも、後に続く仲間のためにわずかでも敵に戦闘力を削ぐ。この偏執的な執念深さこそが忍びの本領。
 全く自分がしてやられていたことに気づいた八郎は背筋に冷たい氷柱を差し込まれたようにゾッとした。まさかあのときの伊賀忍びが死を賭してそんな布石を打っていたとは。
「村雨が仕込んだ毒だけでは効果を生じない。だがもうひとつの毒を吸い込むことで効果が表れるのだ。だから誰も気づかない――効果が薄いところを見ると……あと三日もあれば毒も抜けて効果がなかったかもしれんな」
 無味無臭で少量の毒であり、しかも毒性が低いことを逆手にとった恐ろしい罠であった。
「ちっ!」
 八郎が選択したのは、自身がもっとも信頼する印字打ちであった。形の違う礫は速度も軌道もひとつひとつが違う。それが計算しつくされたタイミングで殺到すると、さすがの勝郎も太助も本気で回避に専念しなくてはならなかった。
「…………なんと恐ろしい才だ!」
 まだ八郎の視神経異常は回復していないはずだ。長年の修練で身体が覚えているといっても、自ずから限界というものがある。あるはずだ。だが八郎のみせた手際はその限界を軽々と超えているように思われた。少なくとも攻撃力という点においては八郎の力は衰えていない。ならば防御に難を抱えているうちになんとしても倒さなくてはならなかった。
「……ひとつ」
 太助の苦無を礫で迎撃するも、完全に逸らすことができずに八郎は身体を大きくのけぞらせることで避ける。危ういタイミングであった。しかし同時に勝郎の方へも礫を放っていて、そのために万力鎖による追撃が一拍遅れた。
「……ふたつ」
 万力鎖を避けて八郎は今度は太助に礫を投擲する。左右から大きく弧を描いて殺到する礫を全て迎撃することはできない。やむなく太助は前に転がって礫を躱した。
「……三つ」
 次の攻撃は一直線に勝郎と太助両方を目指してきた。先ほどから礫を放つたびに精度が上がっている。太助は心底ぞっとしていた。本来ならば、腕のよい忍びほどわずかな感覚の違いが命とりになるものなのだ。特に距離感というのは忍びにとっては命のようなもので、その感覚を狂わされてまがりなりにも戦えているだけで恐ろしいことであった。
「まあ、こんなところかな」
 よく落ち着いた八郎の声にざわり、と寒々しい戦慄が太助の背筋からうなじを這いあがっていった。
「何がこんなところなのだ?」
「わかってると思うけど、どのくらい感覚が狂ってるかわかった」
 まさか、と思いつつやはり、と太助は予期していた八郎の言葉に頬をひきつらせた。たった三度、礫を放っただけで狂った感覚を調整してしまったというのか。もしそれが本当であるとすれば、この男の才は方丈斎や鵜飼藤助すら上回る。あるいは果心居士や飛び加藤に匹敵するのではないか。
 まさしく伝説の領域を八郎が体現しているという事実を受け入れるには太助と勝郎は年を取りすぎていた。
 戦国の修羅場を経験してもいない若造ごときに、そんな実力の差を見せつけられる屈辱を受け入れるなど到底ありえぬことであった。
「わかったということと、実際戦えることには途轍もない差があるぞ?」
 願望もこめて太助は挑発する。
「同じことさ。少なくとも俺にとっては」
 しかし太助の挑発に飄々として八郎は答えた。もはや焦りの欠片もない。自分の力を心の底から信じ切っている男の顔であった。
「今度はこっちからお返しするよ?」
 その変化は劇的であった。左右に分かれて八郎を挟み撃ちにしようとした勝郎と太助は、直線と曲線を織り交ぜた礫の迎撃を受けた。まずは直線の攻撃を払いのけようとした太助は、長年の経験に養われた第六感に従って這いつくばるように大地に身を伏せた。
 指弾の小さな影が間一髪、太助の頭上を通り過ぎていく。迷わず本能に身を任せたのが太助の身を救ったのである。勝郎のほうは完全に避け切れず頬に傷を負ったが、急所である目への被弾だけは避けることができた。
「影打ちくらいでそんな大げさに躱していたら勝てないよ?」
「おのれ!」
 平静を保たなくてはならないとわかっていても、一回り以上は若そうな八郎から説教されては伊賀組の面目が丸つぶれである。思わず太助が怒鳴るのも無理からぬことであった。まして八郎は太助にとって従兄弟の仇なのだ。
 嘗められたまま人生最後の戦いを終えるなど絶対に認められぬことであった。
「…………化け物め。我ら伊賀組の誇りを思い知れ!」
 太助が勝郎に視線を送ると、無言で勝郎も頷く。どうやら気持ちはお互いに同じであるらしかった。
 忍びの技は外道の技でもある。およそ人倫というものを捨てた親も兄弟もない非道の技も平気で使う。     
 太助は忍び刀を構えると身体を前傾させじりじりと間合いを詰めた。下半身には今にも天に飛びあがりそうなほどの力が溜められ激発の時を待っている。
 おそらくは相討ちをも辞さぬ構えである。さすがにここまで覚悟を決められると八郎も生中な攻撃を行うことはできない。戦いのなかでもっとも無防備な瞬間とは、まさに攻撃が当たった瞬間なのであり、その瞬間を相手が狙っている。しかも老練の戦国の生き残りとなれば八郎も警戒せぬわけにはいかないのだった。
 ゆっくりと間合いが迫る。それでも全く気を揺らさない八郎に、太助は内心舌を巻いた。実は太助の狙いは後の先にあり、経験の差がもっとも出やすい駆け引きに八郎を引きずりこんだつもりであった。
(だが、それならそれで構わん)
 駆け引きで有利になることができなくとも、間合いが詰まれば必殺の技が通じる。
 そのまま這うような速度で間合いは詰まり続け、太助が大きく踏みこめば忍び刀の刃先が届くほどにまで接近した。これはもう近接戦闘の距離である。得物が太刀であれば、すでに一足一刀の間合いを超えている。
 刹那、まさに満を持して太助が大地を蹴った。その勢いは獲物に飛びかかるハヤブサのそれに匹敵した。さらに、太助が視界を遮った後方から、勝郎が渾身の万力鎖を放っている。もし八郎が太助を貫けば万力鎖を避けることができないし、今から間合いを取るには太助と接近しすぎていた。
 もちろん太助と勝郎が同士討ちになる可能性が高いという危険な賭けだ。少なくともその価値があると二人は八郎を認めていたのである。
「その手はもう見たよ」
 しかし八郎にとっては、それは村雨が仕掛けてきた返り血による自爆攻撃の焼き直しのようなものだ。だからこそこの手の禁じ手は初見殺し、というより使ったが最後絶対に相手を殺さなくてはならない。腕のよい相手に二度目の技は通じないからである。
 太助も勝郎も、こうした禁じ手を使わずに生き延びてきたために、その当たり前の前提条件をすっかり忘れてしまっていた。それほどに太平の世が伊賀組の忍びに与えた精神的なゆるみは大きかったのだ。
 とはいえ太助の腕も勝郎の腕も、村雨をわずかに上回る。それが二人がかりとなれば、八郎もそう簡単に対処できるわけではなかった。 
 ここで初めて八郎は攻めに転じた。これまではあくまでも相手の攻めに対応しての反撃、本気で精神を攻めに転じさせたわけではない。心の比重が攻めに大きく割り振られれば攻撃の質は劇的に変わる。
 逆に神速の踏みこみで太助の懐に飛び込むと、忍び刀の刺突をぎりぎりのところで手甲で弾く。完全には逸らせずに脇腹を軽く刃が切り裂くが、獣皮を加工した装束がすんでのところで八郎の肉体を守り切った。
「――――ふんっ!」
 八郎は一見やんわりと太助の胸に手のひらで触れた。するとあろうことか、太助の身体がまるで見えない壁に押されたかのように後方へ吹っ飛ぶではないか。 
 中華にいう寸頸という技である。これを甲賀では神威と呼ぶ。ごく限られた才を持つものだけに許される技であった。
「くそっ!」
 太助を目隠しに、成り行きによっては太助ごと八郎を打撃するつもりであった勝郎は、分銅に向かってふっ飛んでくる太助から必死で軌道を逸らそうと手首を返した。だが、そのために意識の大半が割かれてしまった隙を八郎が見逃すはずがなかった。
もとより想定外の突発時ほど防御力が低下する瞬間はない。その意識が攻撃に向けられていたならばなおのことだ。
「――散華」
 放たれた礫は弧を描いて勝郎の頭上で交差し、柔らかな石は粉々に砕けて目つぶしとなり、またある石は交差することで軌道を変え勝郎へと襲いかかった。それだけではない。後方へ吹き飛んだ太助にも、八郎は含み針を放っている。太助はかろうじてこの針を腕で受け止めたが、勝郎の方は強か頭部に礫を受けてたまらず昏倒してしまった。
「見事だな」
 ため息とともに太助は言った。悔しがることすら馬鹿らしくなるような完敗であった。まさかここまで力量に差があろうとは思いもよらぬことであった。しかも相手はろくに実戦も経験していない若者なのだ。
「――――だが、大人しく感心してばかりでは伊賀組の名が廃る」
 もはや敗北の運命は変えるべくもない。だからといって諦めるなど論外である。そんな簡単に諦められるくらいなら、そもそも太助はこの猪苗代の地まで来ていない。指一本でも動くかぎり、命あるかぎり、戦い続けることを覚悟した。せめて一矢報いるまで死ぬわけにはいかなかった。
「終わらせるよ」
 八郎の第六感が、早く終わらせねばならないと告げていた。早くしなければもう角兵衛と二度と会えなくなるような、そんな嫌な胸騒ぎを八郎は必死に抑え込んだ。
「やってみろ!」
 期せずして二つの影が交差し、そのまま二間ほどの距離を駆け抜けた。
 半瞬ほどの間をおいて、先に崩れ落ちたのは太助のほうであった。その手にはあるはずの忍び刀がなく、肩口から深々と胸を斬り下げられていた。
「まさか……含み針に毒、とはな」
 口から血泡をこぼしつつ太助は苦笑する。
 忍び刀や苦無に毒を塗っておくのはそれほど珍しいことではない。現に太助の忍び刀には毒キノコと毒蛇を精製した伊賀秘伝の毒が塗られている。しかし含み針は別だ。なんとなれば含み針は口咥内に含んでおくものであり、自らその毒にあてられてしまうからである。
 もちろん針の先程度の毒に劇的な効果はないが、生と死のぎりぎりを極めた闘争のなかにあってはごくわずかな違和感も致命傷となる。相討ちを覚悟の太助が、八郎に傷ひとつ負わせられなかったのがその証拠であった。
「――未練だな。今が戦国の世であれば、最後に稀代の術者と渡り合ったことを誉れにしたものを」
 その未練こそが太助を猪苗代へと向かわせ命を失わせた。だがそのことが誇らしくもうれしかった。
「よき死合いであった」
 満足気に微笑んで太助は絶息した。敗北したというのに安らかな死に顔は、方丈斎が八郎に敗れるはずがないという確信があったからこそということを八郎は知らない。
「……だいぶ離されたな」
 太助たちに足止めされているうちに、角兵衛と方丈斎の気配がかなり遠くに離れていた。八郎もまた太助のように角兵衛の勝利を信じていたが、なぜか胸騒ぎが拭えずにいた。
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