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5 ほろ酔いゆらゆら 牛車に揺られて冥府いき
5-3 口にしてはならない
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戻ったふたりはほろ酔いで上機嫌そうだ。
ねえやさんの運んできた冷えた水をよく飲み、状況を説明した八咫とは反対に功巳は気楽そうに手を振った。
「いま大丈夫そうだし、そんなに焦らなくて平気じゃないかなぁ」
「悠長なことをいっていられるのか? こちらで黄泉戸喫を取り続けたら」
空になっている功巳のグラスに、百合は水差しをかたむけた。
功巳と清巳のふたりから、焼酎のにおいが強くしている。
それが漂っているうちは、どんどん水を飲ませたほうがいいだろう。
飲酒した総量よりも、ちょっと多めに水分を取る――そうするとひどい酔い方をしない、とどこかで聞いた覚えがあった。
「如月さんは通勤範囲もお住まいも冥府寄りですが、出社すれば功巳さんやねえやと会うんです。異常があればわかるんじゃないですか? 八咫さん落ち着いてください」
「まあ、食べ続けてました、なんてなったらびっくりはするよねぇ。僕らもちょっと驚いたもん。如月さんは体調どう?」
「とくに異常は……健康診断も問題なかったですが、駄菓子を食べるようになる前に受けたやつですから、あまりあてには……」
八咫の顔色はまだすぐれない。
かたわらで清巳はひたすら水を飲み続けていて、百合としては自分より彼のほうが心配だった。
「清巳さん、大丈夫ですか? どこかで休めないか、ねえやさんに訊いてみましょうか」
首を振る動きもぞんざいで、清巳はグラスの水を飲み干す。百合はそこにも水を足していった。
「……休まなくていいです。水を飲めば――あちらのものを食べ続けていることは気になりますが、行動範囲も問題ないでしょうし、異常があれば誰かしら気がつくでしょうから」
なんの話をしているのだろう――百合は並んだそれぞれの顔を見比べるようにした。
「それで……黄泉戸喫ってなんですか」
「そこからかぁ……ねえや、ちょっと! 手土産用意しておいてくれる? 目上の方用になにかいいやつ」
「かしこまりました」
襖の向こうから功巳に応じるねえやさんの声がし、清巳が一瞬顔を歪めていた。
「こっちとあっちは、別々の場所です。いい? で、こっちとあっちは、ほんとは交わらなくっていい。暮らしてるものも、常識も、食べるものも違うのね。いい?」
「はい、いいです」
テーブルの上で功巳が手をパタパタ動かしている。とくになにかをしめしているわけではなさそうだ。気が散ってくるので、百合は空のグラスを持たせて動かすのを止めてもらった。
「で、こっちの人間があっちにいったりして、なにか食べたりすると、もうこっちには戻れなくなる。いい?」
「……は?」
「それが黄泉戸喫」
「私はあっちにいってないですけど――場所が冥府に近しいんでしたっけ?」
八咫を見れば、眉根を下げている。
「でも食べてても私はここにいて……べつに平気でいられるなら、問題ないってことじゃないんですか?」
「症状が出る前は、幽鬼みたいになっていくっていうけど……そういうのは見られないですね。如月さん、耐性が強いのかもしれないね」
清巳も手元のグラスを空にし、功巳の開いた手に持たせている。
「耐性があってもどうなるかわからないし、こちらに留まり続けた前例を知らない」
「症状って……駄目だった前例はあるんですか?」
「十の前例があったら、その十がみんなあちらに取りこまれてる」
笑ったのは功巳で、ため息をついたのは八咫だ。
百合と見つめ合った清巳は、どこから見ても酔った目つきをしていた。
「取りこまれるってどういう……」
「冥府の住人になるってことです」
「こ……困ります! 急にそんな!」
八咫がわずかにほっとした表情を見せた――やっと百合に通じた、とそう思っている顔つきだった。
「困るっていわれても、如月さん、食べたんでしょう?」
「売ってたから食べたんです! なつかしいから! あそこにあった駄菓子屋で、ちいさいころよく買いものしてたんですよ! 会社でしんどくて……私のまわりがくさくて肩身せまくて、ほんとうに買い食いくらいしてないとやってられなかったんです!」
清巳が唐突に破裂したように笑い出した。
「あれはすごかったですね! 鵺の香料がわだかまって、いや……如月さん辞めちゃうんじゃないかって心配はしてたんですよ」
「笑いごとじゃないです……」
あのころを思い出してしまい、百合は気持ちが暗澹としてきた。
「まあ、針のむしろでしたからねぇ。彼女たちの言動は、どこかで切りよく忘れてやってもらえませんか。とくに小境さんは、においにまつわる暗い思い出がありますから。かわりに功巳さんのことは怒っていていいですから」
功巳が下唇を突き出す。
「小境さんがなんですか?」
「あのひと、昔ちょっと遺体としばらく一緒にいたことがあるんですよ。なので悪臭の類いが駄目らしくて――如月さんに対する態度がひどかったので、さすがに注意はしてましたよ。理由があったところで、駄目なものは駄目ですからね」
聞き流すことのできない言葉が出てきていた。
「と……閉じこめられ……?」
「子供時分に、旅行先で地盤が陥没したそうです。そのまま将棋倒しに観光客が穴に落ちる事故が――けっこう有名な事件なんですが、ご存じですか?」
続けて清巳が地名を口にする。
地名と大きな事故、そのふたつだけで連想されるものがあった。昔のことだというのに、それだけ有名で悲惨な事故だ。
「存じ上げてます……」
崩れた地盤周辺が脆く、重機を入れられず、天候も悪くなり、救助活動に時間がかかった事件だと記憶している。
「小境さん、あそこに……いたんですか」
戻ったふたりはほろ酔いで上機嫌そうだ。
ねえやさんの運んできた冷えた水をよく飲み、状況を説明した八咫とは反対に功巳は気楽そうに手を振った。
「いま大丈夫そうだし、そんなに焦らなくて平気じゃないかなぁ」
「悠長なことをいっていられるのか? こちらで黄泉戸喫を取り続けたら」
空になっている功巳のグラスに、百合は水差しをかたむけた。
功巳と清巳のふたりから、焼酎のにおいが強くしている。
それが漂っているうちは、どんどん水を飲ませたほうがいいだろう。
飲酒した総量よりも、ちょっと多めに水分を取る――そうするとひどい酔い方をしない、とどこかで聞いた覚えがあった。
「如月さんは通勤範囲もお住まいも冥府寄りですが、出社すれば功巳さんやねえやと会うんです。異常があればわかるんじゃないですか? 八咫さん落ち着いてください」
「まあ、食べ続けてました、なんてなったらびっくりはするよねぇ。僕らもちょっと驚いたもん。如月さんは体調どう?」
「とくに異常は……健康診断も問題なかったですが、駄菓子を食べるようになる前に受けたやつですから、あまりあてには……」
八咫の顔色はまだすぐれない。
かたわらで清巳はひたすら水を飲み続けていて、百合としては自分より彼のほうが心配だった。
「清巳さん、大丈夫ですか? どこかで休めないか、ねえやさんに訊いてみましょうか」
首を振る動きもぞんざいで、清巳はグラスの水を飲み干す。百合はそこにも水を足していった。
「……休まなくていいです。水を飲めば――あちらのものを食べ続けていることは気になりますが、行動範囲も問題ないでしょうし、異常があれば誰かしら気がつくでしょうから」
なんの話をしているのだろう――百合は並んだそれぞれの顔を見比べるようにした。
「それで……黄泉戸喫ってなんですか」
「そこからかぁ……ねえや、ちょっと! 手土産用意しておいてくれる? 目上の方用になにかいいやつ」
「かしこまりました」
襖の向こうから功巳に応じるねえやさんの声がし、清巳が一瞬顔を歪めていた。
「こっちとあっちは、別々の場所です。いい? で、こっちとあっちは、ほんとは交わらなくっていい。暮らしてるものも、常識も、食べるものも違うのね。いい?」
「はい、いいです」
テーブルの上で功巳が手をパタパタ動かしている。とくになにかをしめしているわけではなさそうだ。気が散ってくるので、百合は空のグラスを持たせて動かすのを止めてもらった。
「で、こっちの人間があっちにいったりして、なにか食べたりすると、もうこっちには戻れなくなる。いい?」
「……は?」
「それが黄泉戸喫」
「私はあっちにいってないですけど――場所が冥府に近しいんでしたっけ?」
八咫を見れば、眉根を下げている。
「でも食べてても私はここにいて……べつに平気でいられるなら、問題ないってことじゃないんですか?」
「症状が出る前は、幽鬼みたいになっていくっていうけど……そういうのは見られないですね。如月さん、耐性が強いのかもしれないね」
清巳も手元のグラスを空にし、功巳の開いた手に持たせている。
「耐性があってもどうなるかわからないし、こちらに留まり続けた前例を知らない」
「症状って……駄目だった前例はあるんですか?」
「十の前例があったら、その十がみんなあちらに取りこまれてる」
笑ったのは功巳で、ため息をついたのは八咫だ。
百合と見つめ合った清巳は、どこから見ても酔った目つきをしていた。
「取りこまれるってどういう……」
「冥府の住人になるってことです」
「こ……困ります! 急にそんな!」
八咫がわずかにほっとした表情を見せた――やっと百合に通じた、とそう思っている顔つきだった。
「困るっていわれても、如月さん、食べたんでしょう?」
「売ってたから食べたんです! なつかしいから! あそこにあった駄菓子屋で、ちいさいころよく買いものしてたんですよ! 会社でしんどくて……私のまわりがくさくて肩身せまくて、ほんとうに買い食いくらいしてないとやってられなかったんです!」
清巳が唐突に破裂したように笑い出した。
「あれはすごかったですね! 鵺の香料がわだかまって、いや……如月さん辞めちゃうんじゃないかって心配はしてたんですよ」
「笑いごとじゃないです……」
あのころを思い出してしまい、百合は気持ちが暗澹としてきた。
「まあ、針のむしろでしたからねぇ。彼女たちの言動は、どこかで切りよく忘れてやってもらえませんか。とくに小境さんは、においにまつわる暗い思い出がありますから。かわりに功巳さんのことは怒っていていいですから」
功巳が下唇を突き出す。
「小境さんがなんですか?」
「あのひと、昔ちょっと遺体としばらく一緒にいたことがあるんですよ。なので悪臭の類いが駄目らしくて――如月さんに対する態度がひどかったので、さすがに注意はしてましたよ。理由があったところで、駄目なものは駄目ですからね」
聞き流すことのできない言葉が出てきていた。
「と……閉じこめられ……?」
「子供時分に、旅行先で地盤が陥没したそうです。そのまま将棋倒しに観光客が穴に落ちる事故が――けっこう有名な事件なんですが、ご存じですか?」
続けて清巳が地名を口にする。
地名と大きな事故、そのふたつだけで連想されるものがあった。昔のことだというのに、それだけ有名で悲惨な事故だ。
「存じ上げてます……」
崩れた地盤周辺が脆く、重機を入れられず、天候も悪くなり、救助活動に時間がかかった事件だと記憶している。
「小境さん、あそこに……いたんですか」
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