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裏路地

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 クラリッサにとって、馬車の荷台に身を潜めている時間は永遠とも思えた。
 そのうち、彼女は、地面から伝わる振動が変化したように感じた。馬車は剥き出しの地面から、石畳の道へ移ったらしい。
 周囲から聞こえる人々のざわめく声に、馬車が市街地に入ったのだとクラリッサは判断した。
 更にしばらく進んだかと思うと、馬車が停止した。御者が離れた気配を感じたクラリッサは、荷台とほろの隙間から周囲をうかがった。
 停車しているのは、どこかの建物の裏口といった場所だ。傾いた陽の光が、景色を橙色に染めている。
 ――無断で馬車に潜り込んできたのが発覚すれば面倒なことに……最悪の場合、実家に送り返されてしまう可能性もある……
 周囲に人影がないのを確かめた後、クラリッサは慎重に荷台から這い出て、傍に伸びた路地へと飛び込んだ。
 しばしの間、クラリッサは薄暗い裏路地を宛てもなく歩いた。人気ひとけのなさに、彼女は却って安心を覚えた。
 どれほど歩いたのか、気付けば陽は落ち、夜のとばりが降りようとしている。
 クラリッサは、今更のように酷く疲れているのを思い出して、足を止めた。
 ――着の身着のまま飛び出してきてしまったけれど、これから、どうするべきかしら。本で読んだところによれば、市民や農民たちは、労働してかてを得ているという……私に、そんなことができるのだろうか……
 これまで衣食住だけは何の心配も要らない生活をしてきた彼女にとって、「労働してかてを得る」などということは、まるで別世界の話だ。
 改めてクラリッサが周囲を見回してみると、ごみごみした暗い裏路地の向こうに明かりがともっている。その光に吸い寄せられる如く、彼女は再び歩き出した。
 近付いてみると、明かりは食堂のような酒場のような店のものだった。
 店に面した通りを時折行き来する者たちを見たクラリッサには、彼らが一様に見窄みすぼらしい身なりをしているように思えた。擦れ違う者たちもまた、彼女の姿を見て怪訝そうな顔をしている。
 周りの視線に、クラリッサも、ここでは自分が場違いな存在なのだと、薄ら感じていた。
 一帯には何かの肉を焼く匂いや香辛料の香りが漂っており、クラリッサは自身が空腹であることも思い出した。
 外で何か物を手に入れるには「かね」が必要だということくらい彼女も理解しているが、先立つものがない以上、今は諦める他ない――と、溜め息をついていたクラリッサの背後から、男の野太い声が聞こえた。
「お嬢ちゃん、一人かい?」
 振り向いたクラリッサの前にいたのは、三人の男だった。整えられていない髭や、どこかだらしない服装が目に付く、いずれもクラリッサが見たことのないような、清潔感に欠ける輩だ。おまけに酒を飲んだ後なのだろうか、不快なにおいを漂わせている。
 ――これが、本で読んだことのある「破落戸ごろつき」というものなのだろうか……
 しかし、「外の世界」のことわりを知らない以上、まずは情報を得るところから始める必要がある――そう思ったクラリッサは、男たちと話してみることにした。
「なぁ兄貴、この女、ずいぶんと上等な服を着てるぜ。俺は、染物屋で働いてたことがあるから分かるんだが、ありゃ、貴族くらいしか買えないような生地だ」
 先に口を開いたのは、三人の男のうちの一人だった。
 クラリッサが着ている服は、彼女にとって、むしろ着古したものであったが、一般市民からすれば上等なものなのだろう。
「へぇ、そんな貴族様が、何で、こんな下品な場所にいるんだい?」
 兄貴と呼ばれた大柄な男が、若干揶揄やゆするような調子で言いつつ、クラリッサを頭から爪先まで舐めるように見た。
「……わ、私は、仕事を探しています。生活するには、労働して『お金』を得る必要があるのでしょう? 自分にできるのは、読み書きや計算、楽器の演奏などですが……」
 男の視線から異母兄に似た何かを感じてはいたものの、クラリッサは答えた。
 三人の男たちが、一瞬たがいに目配せした。
「仕事かぁ。嬢ちゃんみたいな美人に打ってつけの仕事があるから、紹介してやろう」
 あっという間に、男たちはクラリッサを取り囲んだ。
 大柄な男が無遠慮に彼女の肩を抱き寄せる。その手の感触や男の体温そしてにおいに、クラリッサは鳩尾みぞおちの辺りから不快な何かが突き上げてくる感覚を覚えた。
 ――婚約者だったダミアン様にさえ、手を握らせるくらいしかしていないのに……!
「さ、触らないでください!」
 クラリッサは身をよじって逃れようとしたものの、男の力は思いの外強く、その手は更に彼女の細い肩へと食い込んだ。
「簡単な仕事さ……俺たちを楽しませるっていう、な」
 大柄な男が、酒臭い息を吐いてクラリッサに顔を近づけてきた。
 残り二人の男たちも、下卑た笑い声をあげている。
 やはり、こんな男たちなどからは逃げるべきだった……折角、必死で逃げてきたというのに――クラリッサは、激しい後悔と絶望に心臓を絞られるようだった。
 その時、背後から、よく通る男の声が聞こえた。
「そのお嬢さん、嫌がっているようだが? 放してやったらどうだ」
 一同が振り向くと、そこには頭巾付きの黒い袖なし外套マントを身にまとった長身の男が立っていた。
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