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逃奔

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「クラリッサ様、居間へお越しください。奥様が、お呼びです」
 何も考えることなどできず、打ちひしがれて客間の長椅子ソファに沈み込んでいたクラリッサであったが、使用人の声で我に返った。
「……分かりました」
 半ばうわそらで答えたクラリッサは、使用人と共に、カサンドラが待つという居間へと向かった。
 使用人が居間に通じる扉を開けると、長椅子ソファの上に小太りな身体でふんぞり返っている長兄ギュンターの姿があった。クラリッサから見れば、父を同じくする兄ではあるが、彼女が年頃になってからというもの、卑猥な視線を向けてくるようになり、同じ空間にはいたくないと感じる男だ。
 傍らには、亡きレハール子爵の正妻であるカサンドラと、クラリッサの異母姉イルザが座っていた。美人と言えなくもないが、滲み出る底意地の悪さが隠し切れないところは二人に共通している。
「フェアラート伯爵様から話は聞いているでしょうけど」
 クラリッサを立たせたまま、カサンドラが口を開いた。
「お前と伯爵様の婚約が破棄された代わりに、イルザが、あの方のもとへ嫁ぐことになったわ」
 獲物をいたぶる猫を思わせる、いやらしい笑みを浮かべてイルザが続けた。
「あなた如きがめかけの子のくせにダミアン様と婚約していたこと自体が間違いだった訳で、あるべき状態に戻ったのよ」
 ――どうやら、とうの昔に根回しは完了していたようね……お父様が亡くなったことで、カサンドラ様たちのやりたい放題ということか……
 胸の内に重苦しい納得が沈殿するのを感じつつ、クラリッサは着ているドレスの端を握りしめた。
「旦那様が亡くなってギュンターが当主になったのだし、もう、お前を我が家に置いておく理由もないのよ。言っている意味は分かるわね、クラリッサ」
 言って、カサンドラがクラリッサに冷たい目を向けた。
「母上、その女、追い出してしまうのか?」
 不健康そうな顔に、にやにやと不快な笑いを浮かべて、ギュンターが言った。目鼻立ち自体は悪いと言う程でもないが、下品な表情が、その印象を最低なものにしている。
「要らないなら、僕にくれよ。こいつ、見た目はいいからな」
「おやおや、物好きだこと。じゃあ、好きにしなさいな」
 目の前で繰り広げられている母子の会話に、クラリッサは全身が総毛立つ思いだった。
 ギュンターは曲がりなりにも半分は血が繋がっている兄というのもあるが、それを抜きにしたとして、彼に触れられることなど、クラリッサは想像したくもなかった。
 ひとり自室に戻ったクラリッサは、自身の今後について考えた。
 怠惰な異母兄姉を横目に、クラリッサは勉学のみではなく、楽器の演奏や舞踏といった芸事にも励んできた。とはいえ、たった一人、何の後ろ盾もないまま外の世界で生きていけるのかは定かではない。
 しかし、屋敷に閉じ込められたまま、ギュンターの慰み者にされるくらいであれば、追い出される方が百倍――いや億倍ましであると彼女は思った。
 クラリッサが一人で外に逃げ出すなどということはないと高を括っているのだろうか、現在のところは見張りも付けられていない。
 もたもたしていれば、そのうち監禁されるかもしれない――そう思った彼女は、早速行動を起こした。
 幸か不幸か、カサンドラの差し金で「お付きの者」すら排除されている為、クラリッサの周囲には誰もいない。貴族の娘であれば使用人に手伝わせる着替えなども自分一人で行う他ないといった不便を強いられていたが、今の状況なら自由に動けるということでもある。
 できるだけ誰にも見られぬよう、クラリッサは屋敷の中を移動していった。カサンドラの意向で、使用人たちも用がない限りクラリッサを空気の如く扱っていた為、たとえ擦れ違ったとしても、声を掛ける者がいなかったのは幸いだった。
 そして、クラリッサは主に使用人たちが使う勝手口の近くまで辿り着いたが、裏門にも門番がいることを思い出した。
 供の者も連れずに屋敷の外に出ようとしたなら、さすがに怪しまれて、その場に留められてしまうかもしれない。そうなれば脱出の機会は失われてしまうのだ。
 思案していたクラリッサは、ふと勝手口の傍にほろ付きの馬車が停まっているのに気付いた。
 おそらく食材などを運ぶ馬車だろう――彼女は一計を案じ、用心深く周囲を見回しながら馬車に近付くと、空になっている荷台へと潜り込んだ。
 ――運んできた荷物を移動させたなら、おそらく馬車は品物を送ってきた業者のところへ戻る筈……こうして隠れていれば、屋敷から出られる……
 荷台の隅に丸めて置いてあった薄汚れた布を被り、クラリッサは考えていた。
 やがて、馬車が動き出した。荷台はからになっていると思い込んでいるのであろう、御者がクラリッサに気付いた様子はなかった。
 荷台の隅で彼女が息を殺しているうち、馬車は何事もなく裏門をくぐり、街道へと出たらしい。最大の難関は突破できたということだ。
 クラリッサは、一刻も早く馬車が目的地に着くことを祈りながら、荷台に直接伝わってくる、道の凹凸おうとつが生み出す振動に耐えていた。
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