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05 諦め

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 小さな頃から通い慣れたジークの部屋は、私には勝手知ったる場所だ。勢い良く扉を開けると、中は薄暗く奥にある大きなベッドの上に蹲ったままのジークが居ることがわかるだけだった。

 これは……絶対に、おかしい。いつもの彼ではない。それだけは、言い切れた。

 だって、長年の婚約者の私にだって、小さな弱みひとつ見せることもなかった彼であれば考えられない状況に、後ろ手で慎重に扉を閉めた。

「ジーク。レティシアです。心配で……部屋に勝手に入ってごめんなさい……ねえ。ジーク……大丈夫? 何かあったの? どうしたの?」

 私が近付きながらそう尋ねると、ベッドの上の彼は上半身を起こして低い声を振り絞るようにして言った。

「もう……良いんだ。どう努力したって、何をしても……もう、ダメだったから……もう、良いんだ」

「え?」

 諦め切った低い声は、まるでジークだとは思えなかった。まるで、私の知らない彼ではない違う人が、そこにいるみたいで……。私はあまりにも良くわからない事態に、思わず足を止めてしまった。

「……もう、俺は君を諦めた。だから、ずっとこれから生きていて欲しい」

「ちょっ……ちょっと……待ってよ。ジーク。ちゃんと、私に何があったか説明して。一体。今何を、言ってるの……?」

 静かに興奮しているような彼を刺激しないように、出来るだけ足音を忍ばせて、ジークの居る部屋の奥にあるベッドへと私は辿り着いた。

 近くにやって来た気配に気がついて、彼は顔を上げてくれた、端麗なジークの顔の頬には、涙が幾筋も流れている。

「え。嘘。ど、どうしたの。ジーク……?」

 私とジークの婚約者としての親密な付き合いは、もう十年以上にも及ぶ。けれど、彼は今の今まで……一度たりとも、一番に格好をつけたかった相手だっただろう婚約者の私の前でなんて、泣いたことなんてなかった。

 だから、これは本当におかしいと、頭の中は大混乱していた。何か、私の平凡な予想なんて、遥かに上回るような非常事態が、ジークの身に起きている。

「良いんだ。もう……僕は、何も望まないから。レティシアが生きていてさえくれるなら……それだけで良いんだ。だから、婚約解消しよう。僕に持てるものであれば、何だって差し出して、贖うから……どうか、お願いだ。レティシア」

 必死な様子を見せているジークは、私を嫌っているから婚約解消したいと言う訳ではなさそうだった。むしろ、逆だ。愛しているからこそ、私を諦めるのだとそう言っているのだ。

 肝心の私の意志なんて、聞くこともなく。

「ねえ。待って……なんで、私はジークの婚約者だと、死んでしまうの? もしかして、誰かにそんなことを言って、脅されたの?」

 ジークの泣いている理由が何もわからない私の率直な疑問は、ジークの暗い光を宿す目の奥に吸い込まれて消えてしまったようだ。

「僕が、レティシアを諦めさえすれば……君は、これからも生きられるだろう。僕さえ、レティシアの側から居なくなれば。だから……もう、それで良いんだ」

 暗い目のまま諦めた様子のジークはそれで良かったとしても、私は絶対にそんな二人の結末は嫌だった。

「ジークが、私を諦めれば私は生きられる……? どう言うことなの。だって、その言い方だと……なんだか、もう……私がこれから、死んでしまうことが確定しているみたいじゃない」

「レティシア……もうすぐ、君は僕を裏切ることになるんだ」

 掠れた声で言ったジークの断定的な言葉に、私は比喩ではなく頭から火が吹きそうになった。
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