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2 妖精姫、森で迷子の青年に遭遇する

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「ほらアビゲイル、マスク」
「あ! そういえばしてなかった……。ありがとお父さん」

 最寄りの駅まで王都の人混みを親子二人で歩き始めて早々、アビゲイルは父親からマスクを受け取るや素早く装着した。
 彼女は近所でも街中などの人混みに行く際でも念のためマスクをしていく。どこでどんなアクシデントに遭うかわからないのでしておいて損はないからだ。普段からマスクをして出歩く社会ではないので時々周囲から浮いてしまうが、そんな時はゴホゴホと風邪引きの振りをして不自然に思われないようやり過ごしていた。近所では最早彼女のマスクは当たり前の光景なので特に誰ももう何も言ってこない。そこは素直にありがたかった。

「全くお前は緊張感が足りないぞ。こんなごみごみした街中まで来ておいて大事なマスクを忘れているなんてな。……全部あの野郎のせいだが」
「お父さん、彼をそんな風に言わないでっ」

 最愛の娘から睨まれて、アビゲイルの父親オーガスト・リリーは切ない顔になる。しかし常日頃からの陽気さでどうにか気を取り直した。

「ま、まあ以後は気を付けるんだぞ。もしもうっかり躓いてお父さんと事故ちゅーしちゃったらどうするんだ」
「もーお父さん何そのたとえ? そんなの死んだ方がマシだよおー」
「ガビーン! そこまで嫌か!?」
「変な事言うからでしょ」

 相当なショックを受けているトンチンカンな父親に阿保らしくなったアビゲイルは、けれど憎めないそんな父親の隣を歩きながら悟っていた。

 今日チャペルへと赴いた悲しい覚悟とは全く逆の結末になってしまったのはこの上なく嬉しいが、仮にこの先もしも彼から逃げたくなってももう逃げられない、優しくも甘い蜘蛛の糸に自分から引っ掛かってしまったのだと。

 きっと抗っても蜘蛛が獲物を内から溶かすように、その気が溶かされるように身も心も強烈に甘やかされてしまうだろうとも。駄目人間になってしまいそうだが彼にならそうされても構わないと彼女は少しの愚かな期待さえ抱いてしまいながらも危ぶむ。

(それにしても、ロバートがこんな風に色恋のために策を巡らせる狡い男……ううん情熱家だとは思わなかった。お父さんの一番嫌いなタイプじゃない。男同士仲良くしてほしいのに、どうしよう……)

 それに正直なところ、恋人にはなって付き合っていたものの、お互いに好きでもアビゲイルは自分だけがとても好きなのだと思っていた。

 それがまさかこんな状況になるなどとは、彼と出会った当初は全く微塵も毛ほども彼女は想像していなかった。
 彼と初めて会ったのはもう二年も前になる。十六歳の頃だ。
 あの日は、色々と印象深かったのを覚えている。




 この世界には魔法があり、そして妖精がいる。

 妖精の大きさは小指の爪のように小さいものから象のように或いはそれ以上に大きいものまでと様々いるが、人間とほとんど似たような姿と大きさの妖精は得てして人間との恋に陥りやすい。
 恋愛事をしなくても人間を装って人間社会に紛れて暮らしているケースもあるようだ。

 前者だと、時に子が生まれる。

 ――淡いピンクの髪をした少女、アビゲイル・リリーのような混血ミックスが。

 ただ、半分人間半分妖精なのでどちら側と断言はできないが、現在彼女は対外的には普通の人間の娘として王都郊外に広がる妖精の森入口に暮らしている。
 人間である彼女の父親がこさえたささやかなログハウスに。

 そこで妖精の母親も人間を装って一緒に生活しているが、母親は度々深遠で広大な妖精の森に帰っては人間世界での疲労を癒す必要があった。
 生粋の妖精は人間の中ではずっとは暮らせない。人の生み出す穢れとでも言えようかそのようなものが害になるので定期的に浄化しなければ薄命になるからだ。
 だからこそ父親は母親のために森の入口にわざわざ家を建てそこに永住を決めたのだろう。同時に職も樵に変えたという。そこがたまたま王都郊外だっただけで、もしももっともっと僻地だったとしても家族でそちらに住んだだろう。

 アビゲイルは半分人間だからか、生まれてこの方十六年、その浄化の必要を今まで感じた事はなかったが、妖精の森に入るのは何故かとても好きだった。

 そこはやはり流れる妖精の血ゆえなのか居心地が良くてついつい無駄に長居してうたた寝なんてもしてしまう。
 学校のある日は主に放課後に、用事のない休日には丸一日森で過ごす事もあった。

 その日は休日で、それまでの日々のように彼女はこっそり一人でやって来て、馴染みの太い樹木の根元に腰を下ろして休んでいるうちにうとうととして眠ってしまった。

「んんー……?」

 どのくらい経ったのか、ふと何かの気配を感じてまだ眠い瞼を持ち上げれば、一人の若い男が視界に入った。

「…………」

 一瞬息が詰まった。
 一方、金の髪をした彼はしゃがみ込んでその灰紫色の瞳でアビゲイルを興味深そうな目で見つめていたが、急に目を開けた彼女に驚いたのか「わっ」と声を上げて尻餅をついた。
 心底びっくりして眠気が吹き飛んだアビゲイルの方も空色の瞳を見開いて呆然としていたが、直後彼女はハッとして反射的に両手で口元を覆った。
 どうせいつものように誰にも会わないだろうとすっかり油断していて今日はマスクを着けていなかったのだ。

(うわーんあたしのバカバカバカー! どうしてマスク着けてないどころか持ってきてすらいないのよーっ!)

 内心頭を抱える彼女は自身の迂闊さに泣きたいのを必死に堪えた。妖精の血を引く彼女にはキスはとても大事な大事な意味を持つ。
 愛してもくれない不埒な男に知らずに三度と唇を奪われて生涯報われない悲しい思いをした妖精の娘の話は少なくない。彼女達と同じ末路を辿るのだけは真っ平御免だとアビゲイルは小さい頃からそう思っていた。

「な、な、何も変な事してないでしょうね!?」
「変な事……?」

 思わず失礼な台詞を叫んでしまってから彼女はハッとして青くなった。第一声が喧嘩腰で痴漢紛いな言われようでは相手によっては逆上されかねない。
 しかも一人で妖精の森にいる娘など普通ではない。
 乱暴な扱いを受ける可能性さえあるのだ。この辺りでは若い娘を一人で森に来させる親などいない。若い娘は悪い妖精の男にたぶらかされて連れ去られてしまうぞと、ある種の恐れ或いは教訓として語られているのだ。生い茂った木々で薄暗い場所も多く獣も出るというので、近隣住民は普通は気味悪がって樵や狩人、薬草摘みなどの仕事でもない限りは用がなければ入らない。女子供など特に近付かない。

 故に、場合によってはアビゲイルが呑気にも一人で森にいるのは妖精に連なるからでは、と感付かれ万一血筋の秘密を知られる恐れもある、そうなっては大変だった。

 連れ帰るためにとりあえず惚れさせて逃げないようにと無理やりキスをされてはかなわない。

(とは言え、妖精のキスの重大な秘密を知る人間はほとんどいないって話だけど)

 巷の妖精ハンター達は競合相手の利益になる情報は流さないし、その妖精を真に愛する伴侶などは当然広めるわけもない。
 まだ若い男だしキスの誓約は知らないだろうと判断したアビゲイルがここはさっさと謝って無難に逃げるべきかと目まぐるしく考えていると、相手の青年は「ごめんごめん、驚かせちゃったね」とからりと苦笑した。
 怒鳴られるよりはマシで、彼の軽やかな雰囲気にアビゲイルも幾分落ち着きを取り戻した。

「こっこちらこそ失礼な態度取ってごめんなさい。あ、ええとあたしはキノコ採りに来てて! 勿論一人でも大丈夫なようにこの鞄に超強力護身アイテムを持ってきましたよ。あなたの方は薬草採りか何かです?」

 肩掛け鞄をポンと軽く叩き、慌ててキノコ採りだと主張したのは彼が疑いを抱く前にそれっぽい理由を印象付けたかったからだ。装備をしっかり整えてこの森に入る女性もいなくはないので怪しまれないためにそう告げた。ただそういう者はほぼ既婚の年配女性だが。たまに探検家がいるくらいか。

(あといるような人って言えば、おそらくは――……)

 無論アビゲイルのはハッタリなので一切護身アイテムなど持参してはなかったが、鞄の中身を確認させろなどとは言われないだろう。因みに言われたら土地勘を活かして即逃げる腹積もりだ。

(一応美味しそうな木の実を見つけた時のために、籠を持ってきといて良かったあ~。彼の方はキノコ採りには見えなかったから敢えて薬草採りなんて訊ねたけど、本音を言えば薬草採りにも見えないわ。気を引き締めてかからないと)

 青年を改めて観察すると、服装は前を留めたマントを背に流した旅装風なのだが、彼の手にある杖は山歩き用の杖ではなく魔法石の嵌め込まれた魔法杖だ。

 彼はどう見ても魔法使いだった。

 腰には剣も帯びているようなのでそちらも使うのだろう。仮に使わなくても帯剣しているのを認識させる事で山賊などの敵に攻撃を躊躇わせる理由の一つにはなるだろう。
 そうは言ってもこの森にはその手の輩はいないが。
 清廉を好む妖精の森だからか、魔族や魔物は当然として邪悪な人間も何か不思議な森の作用によって三日と居られない。排除されるのだ。或いは別人になったように改心する。

(魔法使いには妖精ハンターをしている人も多いんだよね。おおーこわっ。一層注意しないと!)

「あ、ええと何を採りに来ているのであれ、おっお邪魔してごめんなさい~。そそっそれじゃあごゆっくりどうぞ~!」

 アビゲイルは愛想笑いでそそくさと立ち上がると立ち去ろうとした。

(え――百合と剣の紋章!?)

 その際に見えたのは、彼のマントに刺繍された――王国軍の紋章だった。

 ならば目の前の男は単なる市井の魔法使いではなく、魔法のエキスパートが集うと言われる王国魔法使いではなかろうか。

 アビゲイルは震え出しそうなのを必死に堪えた。

 王国軍は妖精の研究をしている。

 その主な中心として動くのが王国魔法使い達なのだ。

 彼らは妖精狩りのために定期的にこの森に入ってくる。それを知っているアビゲイルにも当事者である妖精達にも、近隣の住人達にも彼らを阻止はできない。この森の所有権は王家にあり、王家も承認している狩りだからだ。
 下手に邪魔をすれば公務執行妨害で牢獄行きすらあり得る。

 これはこの国の者なら誰でも知っている事実。

 噂では捕まえた妖精に実験体として酷い事をして、果ては魔法具作りに利用したり切り刻んで殺すのだそうだ。その死体は防腐処理の後いくつものガラスの容器に部位ごとに分けて入れられ保存されるのだとも囁かれる。
 一般人には王国魔法使いの研究施設たる魔法塔――通称タワーの内情は極秘なので事実かどうかはわからないが、とにかく恐るべきそんな噂があるのは確かだった。

(この人って、この人って……っ、あたしみたいなのが絶対にお近付きになっちゃいけない相手No.1じゃないのーっ!)

 バレたらモルモットにされるとそう思えば余計に嫌な汗が吹き出した。心拍数が跳ね上がって逆に手指は冷えてくる。
 どうか逃げられますようにどうか逃げられますようにーっと念じて敢えて後ろを見ずに知らず早足になっていると、自分のもの以外の足音が付いてきているのを悟って嫌~な予感がした。

(ききき気のせいよね気のせい、うん!)

 しかしガサガサと草を踏む音は自分の他に確実にもう一人分ある。ガサガササクサク、ガサガササクサク、ガサガサ……。

(ああああ~~っもう無理っ、もうヤダ!)

 アビゲイルはゾンビに追い立てられる恐怖にも似た心地でとうとう振り返った。

 目が合って「あ、やっと気付いてくれた」とにこりとされる。

(――――)

 何と、予想通り、男が付いて来ていた。

 アビゲイルはくるりと前を向き直るや凸凹して足場の悪い森の中を今度は猛ダッシュ。

「待って待って何で急に逃げるの!?」

 しかし、敵もさる者……なのかはわからないが「待ってよ~っ」と執拗に付いて来る。

(ヤダーッ何で撒けないの~っ!?)

 折角見つけた実験体を逃がすものかーっと死に物狂いで追って来られている気がして、人はそれを強迫観念と呼ぶのかもしれないが、戦慄したアビゲイルの方こそ死ぬ気でひた走った。

「ねえ待ってくれ! 頼むから話を聞いて!」
「嫌ですよーっ何で待たないと駄目なんですかーっ、そもそも何で付いてくるんですかーっ、あたしお金なんて持ってないですからーっ」
「なっ、僕は追い剥ぎじゃないよ! ただっ僕はっ、――道に迷ったから森の出口を教えてほしいだけなんだーっ!!」
「へっ?」

 たたらを踏むようにして足を止めて振り返る。
 彼も少し向こうで走るのをやめた。両手を上げて無害さをアピールさえする。

「道に、迷った……んですか嘘ですよね? そのマントとか杖から察するに王国の魔法使いの方ですよね。エリート軍人ですよね? そんな凄い魔法使いが道に迷うんですか? 空飛んで森を抜ければいいのでは?」

 半信半疑よりも信じる方に傾いたからこそ止まったのだが、念のため警戒して相手の動きを逐一チェック。

「いやー、そのー……森の獣と戦ってたら魔力尽きちゃって……。魔力回復アイテムもなくて……てへへ」
「あー……なるほど。この森の獣は気性が荒くて強いの多いですからね。普通はまあ、消耗、しますよね」

 しかし不思議と妖精には手を出さないのがここの獣達の間の暗黙のルールだ。
 アビゲイルが半分しか妖精の血を引かずとも攻撃してこない。だからこそ一人でも森に入れているし、父親からの許可ももらえたのだ。近所の住人には妖精の血筋は秘密なので強力な獣除け魔法具を携帯しているからと誤魔化しているが。

「ああ、面目ないけどね。そこそこまで魔力が自然回復するにも丸一日は必要だし、だから魔法無しで対処するほかなくてさ。で、しかもこの森には初めて来た上に話に聞いていたよりも複雑で地図も無用の長物同然だし、コンパスも利かないでしょ」
「あー、それはもう初心者は迷うしかないですよね」
「でしょー」
「でも、初めてなのにたったの一人で来たんですか? 同僚の方と一緒に来た方が無難でしょうに」
「いやそれが内緒でこっそり来たからさ」

 そう言えば今の時期は王国魔法使い達が定期的に妖精狩りに入る時期とは違うのだとアビゲイルは思い至る。

「僕は王都出身じゃあなかったし、だから王都での友人も少なくて頼みづらかったんだよね。長年魔法使いとしての籍はあったけどタワーじゃ新米も同じ扱いだしさ」
「あー、どこの組織でも苦労はあるんですね」
「そうなんだよー」

 疲れた顔で肩を落とした様子は演技ではなさそうだった。愚痴はともかく迷子になって体力を消耗したのだろう。この妖精の森では道に慣れた地元の樵達でも迷う。その反面、この森では一度も迷った経験のないアビゲイルは人助けだと思えば慎重さはそのままに彼へと近寄っていた。

「わかりました。これも何かの縁ですし、森の出口まで案内しましょう」
「ありがとう助かった~」

 彼は心底からだろう安堵に破顔一笑した。
 そうしてアビゲイルは、森の中を先導……ではなく彼の後ろを歩き急っ突くようにして歩かせた。

「あ、そこを左に。次はあの太い木の所まで行ったらまた左に」

 見ず知らずの若い男に後ろに立たれるよりは、自分が背後を取って進ませる方が身の危険は少ないだろうと判断してだ。彼の方もアビゲイルの警戒心をひしひしと感じているのだろう、抗議も反論もなく従ってくれた。それか無駄な衝突なく早く森を出たかったのかもしれない。
 アビゲイルはどうせなら近道をと思い道なき道を暫く歩いた。

「あ、向こうにやっと開けた原っぱが見えた。森の出口だ! ありがとう!」

 森の端に出てはしゃいだように明るい声で振り返る少し歳上だろう青年の姿に、アビゲイルは恐ろしく厳しく怪しい印象しかなかった王国魔法使いと正反対過ぎると可笑しくなってしまった。
 ふふっと吹き出してしまってから取り繕ったが、遅かったのか王国魔法使いの青年はじっと彼女を見つめてきた。

「あ、あの別に悪意があって笑ったわけじゃなくて!」

 不愉快にさせたら後が怖いと大慌てで言い訳をぶつければ、彼はどこか気まずそうに苦笑した。

「大丈夫、見ればわかるよ。今の君の笑みは嘲笑や失笑とは違うもの」

 ここで彼は何故か茶目っ気たっぷりに微笑んだ。

「僕を好ましいと思って浮かべたんだよね?」
「はいい!?」
「あはは、そんなに大きく驚かないでよ。とにかく、助けてくれてどうもありがとう。僕はロバート。ロバート・ロザリオ。見ての通り王国魔法使いさ。今日はこれから急ぎの用事があって帰るけど、次の時には是非お礼させてほしい」

 それは明らかにこの先にアビゲイルとの関わりを希望する意思表示。しかし彼女に王国魔法使いと縁を繋ぎたい気持ちはない。敢えて何かを望むとすれば気を付けて帰ってもらうくらいか。
 本心ではできればもう会いたくないがそんな事をダイレクトに口にはできない。後が怖い。

「あ、お気遣いなく。よく迷った人を出口まで案内するんです。えーと、散歩のついでみたいなものなのでお礼は本当に必要ないですから。そんな風にされたらかえって心苦しいですー、ではさようなら道中お気を付けて~っ!」

 彼は少し残念そうにしていたが、本人が要らないと言うものを無理に押し付けられないと思ってだろう、それ以上は主張して来なかった。
 また感謝の言葉を口にして手を振った彼が道の先に消えるまでを見送って、アビゲイルはふうーと息を吐き出した。

「そういえば、あの人ロザリオって名乗ってたわね。ロザリオ家、か。……どこかで聞いたような気もするけど、どこでだっけ?」

 貴族かもしれないが、アビゲイルのように日々の生活に追われる庶民には王都やその周辺を拠点とする貴族の名前以外は必要ないからと覚えていない者がほとんどだ。それが王都からかなり離れた大公領ならたとえ大公家といえども認知度は低い。
 まあ何はともあれ分別のある男で良かったと本心から思ったアビゲイルだ。
 だがしかし、それは激しく間違っていた。

「――ああっ君はこの前の! 奇遇だね……って言うかいい所に来てくれた! また魔力が底をついた挙句に道に迷ってしまって! …………それで、てへへへ、助けてほしいなあ~、なんて?」
「…………あのー、あなたこれで三度目ですよね。もう一人でこの森に来るのやめた方がいいですよ。いつか本当に遭難死しますって」

 ここ一月、彼は懲りずに妖精の森を訪れ、これでトータル三度アビゲイルと顔を合わせていた。

「いやー、ちょっと探し物があって」

 彼は魔法使いだから切羽詰まったら切羽詰まったで魔法で食べ物なり水なりを生み出せるのか、呑気にも危機感無さそうに金の髪の毛を掻き上げる。
 こんな所での王国魔法使いの探し物。しかも一人で密かに来ているのは同僚達にも知られたくないからだろう。周囲にあっと言わせるような何らかの功績を挙げたいとの功名心が彼をそうさせるのかもしれない。アビゲイルが小さい頃から見てきた王国魔法使い達は皆そんなようだった。

「もしかして……レアな妖精を捕まえようとしてるんですか?」

 マスク越しに表情を暗くしたアビゲイルが慎重に問いかけると彼は灰紫の瞳をパチパチと瞬いた。

「いや、妖精に捕まろうかなと」
「はい……?」

 全く完全なる予想外の返答だった。王国魔法使いの口から出るには意味不明過ぎる。
 アビゲイルが眉を寄せて怪訝にすると彼はポリポリと頬を指で掻く。

「この妖精の森の奥には妖精の国があると言われているよね。僕はどうしてもそこに行きたかったんだ。だから妖精サークルを探して歩いてた。妖精国の入口の傍には必ず妖精サークルがあると聞いていたからさ」
「ああ――」

 確かにその通り、と言おうとしたアビゲイルだったが寸でで言葉を呑み込んだ。危うく妖精事情に詳しい娘だと自分からバラすようなヘマをするところだった。

「とっ時々その手の人に遭遇しますね、あはは、でも妖精達も馬鹿じゃないですし、痕跡を隠すんじゃないですか。中々見つからないみたいですよー? そもそも眉唾なのでは?」

 基本的に別次元にある妖精国は人間を嫌う。

 アビゲイルの母親も決して父親を連れては行かない場所だった。
 半分人間のアビゲイルも数える程しか行った経験はない。

「そっか、そりゃあ簡単にはいかないよね」
「……ところで、もし妖精国に行けたら何をするつもりなんですか? やっぱり研究材料として捕獲しに?」
「まさか、僕は妖精研究には興味ないから捕まえたりはしないよ。ケルピーやドワーフとかと普通に話はしてみたいけどね」

 アビゲイルは意外に思った。

「興味がない? ええとあなたは王国魔法使いなんですよね? 妖精の研究や実験をするのが至福とか名誉なのでは?」
「そこは人によるよ」
「なら、何をしに? ああ、差し支えなければでいいんですが」

 彼は濁りなくにこりとした。

「――塵一つなく浄化されるかなと思って」
「え?」

 どういう意味なのかアビゲイルにはよくわからなかった。眉と目元から器用にもそんな心を読み取ったように彼は疑問の答えを口にする。

「僕の穢れの話だよ」

 と。

「穢れ、ですか?」

 アビゲイルは失礼かとは思ったが暫しじーっと彼を見つめてから小首を傾げた。

「あなたはとても雰囲気なんかも澄んでいて綺麗だと思いますけど……?」
「え――」

 アビゲイルには彼から嫌な気配は感じられなかった。どこが穢れているのか皆目わからない。彼女にはその妖精の血の特性なのか邪悪な気配に敏感で、そのような相手へは強弱はあれ不快感を覚えるのだ。

 彼からは一切それがない。

 なので、彼女は自信を持って頷いてやった。

「あなたがそう思う理由は知りませんが、うん、大丈夫、あなたは素敵なくらいに綺麗です! だから別に妖精国に行く必要はないと思いますよ」
「…………」

(まあそもそも行けないだろうしね)

 驚いたようにアビゲイルを見つめる眼差し。何度も瞬きを繰り返した彼は「ありがとう。じゃあ行かなくてもいいかも」とやけに嬉しげにはにかんだ。

(ふうん、こんな風に笑うと少し幼く見えるんだ)

 アビゲイルが前よりも彼への親しみを覚えていると、彼は穏やかな顔をしてところでと軽やかに話題を変えた。

「森の出口まで案内頼める……かな?」
「ええ、ええ、いいですよ。これも人助けですしね」

 てへへと調子のいい青年へとはあと溜息をつくアビゲイルは内心じゃ学習しろと密かに拳を握って怒鳴りたいのを堪えた。道中はやっぱり前を歩かせた。

「何度もどうもありがとう。今度こそ何かお礼をしたいんだけど……?」

 さすがに三度目ともなると森の出口での別れ際、彼は気まずげにした。

「本当にお礼は要らないですよ。ところで、アビゲイルです」
「ん? 何が?」
「あたしの名前が。アビゲイル・リリーです」
「えっ、僕はロバートです!」
「知ってますよ。前に聞きましたもの。ロバート・ロザリオさん」
「あ……だよね。覚えててくれたんだ」

 彼はアビゲイルの急な名乗りに慌てたのか間抜けな失態を犯して少し頬を赤くすると肩を竦めた。上流階級出身の多い王国魔法使いらしくないあたふたしている姿にアビゲイルは和んでしまってついついくすりと笑う。それを見て彼もまた照れたようにはにかんだ。

「あの、アビゲイル・リリー嬢」
「あたしは貴族のお嬢様じゃないですし、アビゲイルでいいですよ。友人達は皆そう呼びます」
「友人、と思ってくれるんだ?」
「え……あーまあ、三度目ですし、顔見知りー……な薄ーい友人ですかね。堅苦しいのは好きじゃないので気楽に接してもらえた方が助かります」
「そうか、わかったよ、アビゲイル。僕の方もロバートでいいよ。あと敬語も要らないから」
「わかりました、うん、いえ、わかったわ。それじゃあロバート、道中気を付けてね」
「うん、ありがとう」

 彼が名残惜しげにしながらも歩き去っていく。

 道の先の姿が豆粒くらいになった頃、森のすぐ傍にあるログハウスから中年の男性が出てきてアビゲイルの横に並んだ。

 彼の真っ赤な髪の色の半分をアビゲイルは受け継いでいる。

 もう半分は銀色とも白色ともつかない母親の髪の色を受け継いでいて、だから単純に自分の髪の毛はピンク色なのだとアビゲイルは小さい頃から納得していた。
 瞳の色も然りで父親の濃い青と母親の透き通るように薄い水色との中間くらいだから空色なのだと。

「彼のあの服装は王国魔法使いだな」

 アビゲイルはちらりと横を見やる。

「お父さん、彼は……鶏頭なのかも。それと方向音痴」
「んん?」
「毎日森に入ってる樵のおじさんが迷うのは三年に一度あるかないかなのに、一月で三度目だし。魔法に優れると他の部分がちょっと抜けるのかしら」

 一人がこうも頻繁に迷うのは珍しい。遭難防止のためにある程度の森奥までの詳しい地図やら山道、道案内の立て札だって作られているのにだ。

「ロバート、ああええとロザリオさんは地図だって持ってたのになあ……」
「ロザリオ? 本当に彼はロザリオと?」

 何故か急に父オーガストが顔付きを真面目なものにしたので、アビゲイルは首を傾げた。

「知ってる名前? あたしもどこかで聞いたようには思ってるんだけど」
「ま、王都ではロザリオ家の認知度は低いからな。軍にでも入ってなけりゃ関わる事もないだろうし。だが覚えておいて損はない。ロザリオとは大公家の名前だ。しかも、王国魔法使いで若い男でロザリオと言えば、先日地位を継いだというロザリオ大公しか該当しない」
「大公って確かすごく地位の高い人じゃないっ、王都のワンダー公爵よりも偉いんじゃなかったっけ? よりにもよってあの人が!? うっそおっ!」

 枯葉を頭にくっ付けた優しそうというか頼りなさそうな青年ロバート・ロザリオの心底意外な正体にアビゲイルはもう目を丸くするしかない。
 大公だなどと、超VIPではないか。王家を支える重鎮も重鎮だ。道理でどこか聞き覚えがあったはずだ。しかしすんなりとは信じられなかった。

「もし本当にそうなら、あれで領地を統治できるのかしら……? 山歩きするくらいだからそこそこ体力はありそうだけど、結構天然そうだし正直なところ心配になるわ」
「天然……?」

 オーガストは何故か神妙に考え込み始めた。
 ロザリオ大公家は家柄の高さだけではなく、国境地帯における魔族魔物討伐の功労者として代々歴史に名を連ねている一族だと彼は知っている。
 ここから遥か遠いとは言え、彼らの領地が魔族のそれと接していて、散発的に起きる魔族の侵攻を退けてくれているおかげでこの国は平和なのだ。当主ともなればドラゴンさえ屠る破格な実力の持ち主でなければ務まらないとも言われる。故に後継者争いは血で血を洗うように苛烈を極めると聞く。

 とりわけ新たに家を継いだ当代大公の戦闘時の容赦のなさは魔族に劣らず、悪魔のようで比類ない事実から「悪魔大公」との異名すら持つ。

 だがしかし、アビゲイルの証言とは合致しない。

「まあどんな男であれ、アビゲイル、外部から来たような男には見かけてももう関わるな。それが上流の連中なら尚更だ。お前のためと、そして母さんのためでもある。妖精の血を引く娘だと絶対に明かしちゃあならないぞ」

 でないと大変な目に遭いかねない、と父親の言葉はそう暗に告げている。

「万一トラブルが起きたらすぐに父さんを呼ぶんだぞ」
「うん、わかってる」

 自分だけならもしも嫌な目に遭っても自業自得だとまだ納得できるとして、母親にまで危険が及んだら後悔しても仕切れない。アビゲイルはしかと両手を握って自身にか父親にか頷いた。

「今度からは見かけても、上手く隠れてやり過ごすわ」
「その意気だ」

 彼女は心にそう固く誓い、彼へ芽生えた好奇心はせっせと埋め戻した。

 しかし人生自分が気を付けていても相手が突っ込んで来るなんて場面は往々にしてある。不可抗力とも言えるだろう。

 父オーガストと約束して間もない一週間後。妖精の森。地図にはない地図よりももっと深い森の奥。

「ぁぁぁあああああああああーーーーっ、――あ? ……や、やあアビゲイル奇遇だねえ?」
「…………そう、ですねー」

 この日、森の浅い所で彼を見かけたので見つからないように森の奥まで来ていたアビゲイルだったが、どういうわけかロバート・ロザリオという男はいきなり枝葉を撒き散らしながら彼女の目の前に降ってきたのだった。
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