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二章 僕は彼女を離さない
31 軽蔑する親、尊敬する親
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マンションのリビングで、僕と母は膝を突き合わせた。
「いきなり部屋に来るなよ! ちゃんとこれで知らせてくれ!」
母にスマホを突き出した。
「マーちゃん、情けないわ。あなたまでお父さんみたいに……」
「今回は、たまたまだよ! 勉強していたら、つい、その……」
今さら言い訳しても仕方ないが、せめてその場のノリということにしておきたい。
「嘘つきなのもお父さんそっくり! 夏休み前から、毎週土曜日、変なことしてるじゃない!」
毎週土曜日? 母は、何を言っているんだ?
「……思い出したくもない。掃除してあげようとここに入ったら……ゴミ箱に、使ったコンドームがたくさん……わかる? あなた、私がどれほど傷ついたかわかる!?」
嘘だろ? こいつは人の部屋に勝手に入って、ゴミ箱を漁ったのか?
「気持ち悪いことするな! 掃除はちゃんとやっている!」
「部屋は片付いていたけど……あなたはすっかり汚れてしまったわね」
自分が汚れている? 冗談じゃない! まるでそれじゃ、あいらが汚れた女みたいじゃないか!
「汚れてなんかいない! 彼女は実験パートナーで、それで……」
『それで』のあとが続かない。続けられない。この場で取り繕うなら『真面目に付き合っている』と答えるしかないが、それは抵抗がある。
「でも、そこそこ正直な子なのは、認めるわ。言っていることに嘘はなかったもの」
先ほどから母は、謎な台詞を発している。
「お母様の職業もちゃんと答えたわね。私だったら恥ずかしくて言えないわ。自分の親が掃除のおばさん、なんて」
こいつは何時代の人間だ! おぞましいほどの職業差別を平然と口にする。
「ふざけんなよ! 掃除の人が、日本のきれいな街を作ってるんじゃないか!」
「マーちゃん、どこまでもあの子を庇うのね。なら、どうしてあの子は、お父様の名前を教えてくれなかったのかしら?」
「彼女のお父さんのことなら知ってるよ! 田舎では数学教師をやってた。勉強を教えてくれて、天の川が見える場所に車で連れてってくれた……本当にいい人だって言ってたんだ」
あいらから何度か聞かされた父親への想い。彼女は僕と違って、心の底から両親を尊敬している。勉強好きではない彼女がこの大学に入ったのは、両親のためだ。貧しいのに進学を応援してくれる両親の期待に応えるためだ。
「なるほどね、そうやって、お父様は娘を手名付けたのね」
「手名付ける? 気持ち悪いこと言うな! 親が子供に勉強を教えてドライブに連れて行くのは、普通だろ!」
残念ながら僕の父親はそうではないが。普通の父親ではないから。
「篠崎さんは、お父様が『いい人』だと言ったの?」
「彼女のお父さんはどこかの父親と違って、立派な人なんだよ」
「マーちゃん、すっかり騙されて。娘が父親を『いい人』なんていうかしら?」
母は何が言いたい? いい人を『いい人』と言って、何がおかしい?
「若い女の子にとって父親なんか、臭くて汚くてうっとおしいから近寄らないで、が当たり前よ。勉強を教えるとかドライブに連れて行く程度で『いい人』って、おかしいと思わないの?」
何もおかしくない……が、僕の頭の中で、母の投げかけた疑問が徐々にはっきりとした形になっていく。
――お父さん、本当にいい人なんだ。
心の底からの尊敬に満ち溢れた、彼女の笑顔。
全ての娘が父親をウザいと切り捨てるわけじゃない。普通に父親が好きな娘だっているだろう。
しかし、娘が父親を「いい人」と表現するだろうか? 素直に「お父さん大好き」と甘えるのではないか?
「いい人」という形容には尊敬の気持ちが込められているが、どこか他人行儀に聞こえる……。
「篠崎さん、嘘はつかなかったわね」
母はバッグから、A4サイズの青いファイルを取り出す。厚紙の表紙には「調査報告書」と印刷されたシールが貼ってあった。
――調査報告書!?
僕はその用語が何を意味するのか考えたが、いつまでもアップデートが終わらないパソコンのようにフリーズするだけだった。
母は僕を構うことなく青い表紙を開き、パラパラと白いページをめくる。
「お父様のお名前は『桑原良彦さん』ですって」
穏やかな声がリビングに響いた。
「いきなり部屋に来るなよ! ちゃんとこれで知らせてくれ!」
母にスマホを突き出した。
「マーちゃん、情けないわ。あなたまでお父さんみたいに……」
「今回は、たまたまだよ! 勉強していたら、つい、その……」
今さら言い訳しても仕方ないが、せめてその場のノリということにしておきたい。
「嘘つきなのもお父さんそっくり! 夏休み前から、毎週土曜日、変なことしてるじゃない!」
毎週土曜日? 母は、何を言っているんだ?
「……思い出したくもない。掃除してあげようとここに入ったら……ゴミ箱に、使ったコンドームがたくさん……わかる? あなた、私がどれほど傷ついたかわかる!?」
嘘だろ? こいつは人の部屋に勝手に入って、ゴミ箱を漁ったのか?
「気持ち悪いことするな! 掃除はちゃんとやっている!」
「部屋は片付いていたけど……あなたはすっかり汚れてしまったわね」
自分が汚れている? 冗談じゃない! まるでそれじゃ、あいらが汚れた女みたいじゃないか!
「汚れてなんかいない! 彼女は実験パートナーで、それで……」
『それで』のあとが続かない。続けられない。この場で取り繕うなら『真面目に付き合っている』と答えるしかないが、それは抵抗がある。
「でも、そこそこ正直な子なのは、認めるわ。言っていることに嘘はなかったもの」
先ほどから母は、謎な台詞を発している。
「お母様の職業もちゃんと答えたわね。私だったら恥ずかしくて言えないわ。自分の親が掃除のおばさん、なんて」
こいつは何時代の人間だ! おぞましいほどの職業差別を平然と口にする。
「ふざけんなよ! 掃除の人が、日本のきれいな街を作ってるんじゃないか!」
「マーちゃん、どこまでもあの子を庇うのね。なら、どうしてあの子は、お父様の名前を教えてくれなかったのかしら?」
「彼女のお父さんのことなら知ってるよ! 田舎では数学教師をやってた。勉強を教えてくれて、天の川が見える場所に車で連れてってくれた……本当にいい人だって言ってたんだ」
あいらから何度か聞かされた父親への想い。彼女は僕と違って、心の底から両親を尊敬している。勉強好きではない彼女がこの大学に入ったのは、両親のためだ。貧しいのに進学を応援してくれる両親の期待に応えるためだ。
「なるほどね、そうやって、お父様は娘を手名付けたのね」
「手名付ける? 気持ち悪いこと言うな! 親が子供に勉強を教えてドライブに連れて行くのは、普通だろ!」
残念ながら僕の父親はそうではないが。普通の父親ではないから。
「篠崎さんは、お父様が『いい人』だと言ったの?」
「彼女のお父さんはどこかの父親と違って、立派な人なんだよ」
「マーちゃん、すっかり騙されて。娘が父親を『いい人』なんていうかしら?」
母は何が言いたい? いい人を『いい人』と言って、何がおかしい?
「若い女の子にとって父親なんか、臭くて汚くてうっとおしいから近寄らないで、が当たり前よ。勉強を教えるとかドライブに連れて行く程度で『いい人』って、おかしいと思わないの?」
何もおかしくない……が、僕の頭の中で、母の投げかけた疑問が徐々にはっきりとした形になっていく。
――お父さん、本当にいい人なんだ。
心の底からの尊敬に満ち溢れた、彼女の笑顔。
全ての娘が父親をウザいと切り捨てるわけじゃない。普通に父親が好きな娘だっているだろう。
しかし、娘が父親を「いい人」と表現するだろうか? 素直に「お父さん大好き」と甘えるのではないか?
「いい人」という形容には尊敬の気持ちが込められているが、どこか他人行儀に聞こえる……。
「篠崎さん、嘘はつかなかったわね」
母はバッグから、A4サイズの青いファイルを取り出す。厚紙の表紙には「調査報告書」と印刷されたシールが貼ってあった。
――調査報告書!?
僕はその用語が何を意味するのか考えたが、いつまでもアップデートが終わらないパソコンのようにフリーズするだけだった。
母は僕を構うことなく青い表紙を開き、パラパラと白いページをめくる。
「お父様のお名前は『桑原良彦さん』ですって」
穏やかな声がリビングに響いた。
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