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91 休暇明けの幕間に

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 怒涛の夏季休暇も終わりを告げ、初秋の空気を孕んだ朝焼けの中、私は凡そ四か月ぶりにプティノポローン棟の廊下を医務室目指して歩いていた―――勿論、体調が悪いわけでは無い。

 エビリズ国との忌まわしい事件については、既にご承知の通りだと思うが、その事件を解決に導いた立役者がディートハルト先生だと妃殿下から聞いたことに端は発する。

 王家の間諜としてエビリズ国への渡航を命ぜられた彼が、ブルノン侯爵邸の家宅捜索や人身売買組織の洗い出し、更にはアーデルハイド王家に連なる者という立場まで駆使され、エビリズ王家との協議交渉までさせられて、漸く帰国の途に付けたのはほんの数週間前の事だったそうだ。
 ……幾らなんでも扱き使い過ぎではなかろうか……?

 あまりの劣悪な労働環境に少しぐらい労おうという気持ちを持ったものの、いざ先生に会おうとしても何処に住んでいるのかさえ知らないことに気が付いた。
 流石に王立学術院の職員寮に現在の居住を構えていることぐらいは知っているけれど、こうやって長期休暇の間に会おうとすると王宮に居るのか、それとも市井に別の顔を持っているのかさえ判らない。
 結局、誰に聞く訳にもいかないまま悶々と悩んでいるうちに復学当日を迎えてしまったのだが。

 こうなると一番簡単な方法は、誰も居ない隙に医務室にコッソリお礼の品を忍ばせておくことだろう。
 職員寮に生徒が立ち入ることは原則禁じられているし、教師相手に一生徒が贈り物を手渡している姿を万が一でも見られた場合、どんな噂を立てられるか判らない。狭い貴族社会だからこそ、油断は禁物なのだ。

 そんな理由で、まだひっそりと寝静まっている朝焼けの中を医務室へ赴いているのだが。

 あの日以来、医務室には施錠がされていないという話通り、難なく扉は開いた。
 ギイッと音を立てる扉の軋みにさえビクつきながら室内へ一歩踏み出すと、床に崩れ落ちる人影が視界に入る。その瞬間、身体中の血液が凍り付いたかのようにガタガタと震えて思考が止まる。
 まさか…と、震える指先をその首元に押し当てると、トクリトクリと脈打つ鼓動に一気に緊張が解けた―――刹那、体がグルリと反転する。

 ポカンとしている間に組み敷かれた体と、目の前に広がる天井と黒曜石のような瞳。
 いつもは眼鏡に隠されているその目元には薄っすらと隈が浮かび、瞠目したその人は呆然と口を開いた。

「………こんな早朝に来るから、何処の間者かと思えば。 ……何しに来たんだ?」
「先生に用があって。 ……説明しますから、取り敢えず退いて貰えますか?」

 圧し掛かられていた体が離れると、知らず緊張していた強ばりが取れる。
 衝撃のあまり投げ捨てていた袋を部屋の隅で見つけると、中身が無事だったことにホッと安堵の息が漏れた。

 先ほどまでの緊張感はどこへやら、先生は大欠伸をすると、応接用のソファーへドサリと身を投げ出して寝る体制を整えている。

「……先生が床に倒れているのを見た時は流石に肝が冷えました。年なのに無茶をして遂に過労死したのかと……」
「俺はまだ二十代だ……辛うじて。だから過労死するには早いと思うんだが?」
「いやいや、よく“医者の不養生”と言うじゃないですか。慢性疲労で年齢に関係なく過労死するんですよ。もう無茶が効かない事を自覚しないと」
「…お前はもう少し慇懃無礼の意味を知るべきだな。 ……ところで用件は何だ。昨日もほぼ徹夜だったから大した用件じゃないなら寝たいんだが」

 此処まで疲労婚倍している姿を晒す先生も珍しい。
 見下ろされるのも気分が悪いだろうと、彼の横たわるソファーの真横に跪き手前のテーブルに手土産を置いてから、いつもは触れる事の敵わない漆黒の髪に手を這わせた。

「お疲れなのに邪魔してごめんなさい。先生が随分と無理な任務を熟していたと聞いて、労いたくて伺っただけなんです。市井で評判のパン・デピスと疲労回復効果がある茶葉を買って来ましたから、ひと眠りしたら召し上がって下さいね」

 サラサラの髪に触れ、先生が嫌がらないのを良いことに何度か撫でる。
 すると、思いがけず柔らかな笑みを向けられて鼓動がひとつ撥ねた。

「頭を撫でられるなんて子供の時分以来だが……なんだか安心するな」
「それだけお疲れなんですよ。もう行きますから、ゆっくり休んで下さいね」

 踵を返そうと離した手を掴んで、少し拗ねた顔を見せられれば立ち去りがたくて困ってしまう。

「……眠るより先に、温かなお茶とパン・デピス、それからお前とのお喋りで癒されたい。俺を労わる為に来た生徒の気持ちを無下にするような……情の無い教師だと思われたら心外だからな」

 本当に狡い大人だと思う。教師と勝手に線引きをしておきながら、甘えた表情を見せられれば手練手管を持ち合わせない私には抗う術が無いと知っている癖に。

「先生がそれを望むなら。一生徒として、労ってあげるのも吝かではありません」

 せめてもの抵抗で、唇を尖らせながら仏頂面を向けると、先生は「優しい生徒を持って幸せだ」と声を上げて笑い出した。

 こうして、早朝の医務室では二人きりのお茶会が開催される運びとなったのだった。



 私が持参した茶葉は、温暖な地域で咲くハイビスカスという名の花の原種から作られたドライハーブで、強い酸味が疲労回復に効果覿面だと行商人から勧められた物だ。
 白磁のティーカップに注ぎ入れると、忽ち色鮮やかな赤色と、甘く爽やかな香りに満たされる。評判のガストリエで購入してきたパン・デピスと共にテーブルの上に広げると、タイミング良く先生のお腹の虫がグウと鳴き声を上げた。

「へえ~……初めて見るお茶だな。グリューワインみたいな色と香りだ」

 クンッと鼻を鳴らし、酒精の香りが無い事を確認すると呷ったその口からは「酸っぱ…」と微妙な言葉が漏れる。
 しかし、続けて口に運んだパン・デピスはお気に召したのか、ふわりと表情が解けて、続けざまに放り込んではモグモグと咀嚼していた。

「お茶の酸味が苦手なようでしたら、他の茶葉に変えますか?」
「いや……お前が折角俺の為に選んでくれたんだからこのままで良い。人が食うのを見てばかりいると、食い逸れるぞ?」

 言うが早いか、一切れが私の口元へ差し出される。思わず開けたあわいにねじ込むように大きな一切れを押し込むと悪戯が成功したとばかりにニヤニヤと笑みを浮かべる。

「口いっぱいに頬張っているのを見ていると、小動物や幼子みたいだな」

 その悪態に文句さえ言えない程、口いっぱいに詰め込まれたパン・デピスはライ麦と香辛料が効いていて確かに美味しかった。
 だから、油断していた先生の口にも同じように大きな一切れを無理やり押し込むと、目を白黒させる彼の表情が可笑しくて、声を上げて笑ってしまう。
 つられて笑いだす先生と一頻り笑い終えると、高揚した気持ちのままについ口が滑った。

「フフ……こんな風に一緒に燥いでいると、先生と年の差なんか感じませんね。身近っていうか…。十歳も年上なんて思えないな」
「は………?……ゴホッ?!ゴホ、ゴホッ」

 その反応で失言であったことに気づいたものの、時すでに遅し……先生はしこたま咳き込んだ後で「教師としての威厳が……」とブツブツぼやいている。

「威厳なんか無くてもディートハルト先生は良い教師ですよ。親しみやすし!」

 折角のフォローも先生の心には響かなかったようで、機嫌が治らないままお茶会は終了したのであった。




 片づけを終え、今度こそ辞去しようと腰を浮かせる私を遮り、先生は「俺の沽券にかけて教師の威厳を見せつける」と謎の矜持を発揮してきた……そんな暇があるなら寝て貰った方が安心なのだが。

「そう言えば、シャルル達に令嬢だとバレたらしいな。市井で邂逅した際、またお前が事件に巻き込まれていたとディミトリが憤慨していた」
「正体をバラしたのはディミトリ殿下ですよ。あの日はマリアーナに謝罪する為の手土産を探しに市井へ出掛けたのに」
「なんだ、またマリアーナを怒らせたのか?それで、無事に仲直りは出来たのか」

 またも余計な口が滑ってしまったとは思うが、一先ず仲直りは済んでいるので力強く頷く。
 笑顔で「はい!アウレイア邸を訪った際に一騒動あったんですが、無事仲直り出来ました!」と伝えると、眉を顰められた。

「お前……アウレイア邸でも何かやらかしてきたのか……?」
「言い方に棘を感じるなぁ。別に私が何かやらかした訳じゃありませんよ」

 ―――本当に私自身は何の問題も起こしていない。ただ、受け入れる側のアウレイア家で歓迎されなかっただけの事だ……。

 定石通りに訪問の約束を取り付けてアウレイア邸へ向かうと、微妙な表情をした使用人から「マリアーナ様は本日急用で不在です」と目を逸らされた時点で、歓迎されていない事は感じていた。
 何処へ出掛けたのか尋ねても有耶無耶な答えしか返って来ない上、あからさまに目を逸らされる……でも、私を疎ましく思うにしても今日初めて訪った屋敷の使用人から嫌われる理由が判らないから、余計に困惑する。

 その状況が良くも悪くも――まあ、結果としては悪いのだが――打開したのは使用人の後ろから初対面の美少年が仏頂面を浮かべて登場した時だった。
 海の小波を思わせる碧銀髪を揺らし、アメジストの瞳には嫌悪感を滲ませて目の前に立った少年は私を見下ろすと、唇を歪める。

「大人しく帰れば良いものを。義姉は貴女に会いたくないそうです。ティーセル家の礼儀知らずな友人気取り女は自分に相応しくないからと」

 その一言で、この少年の真意が透けて見える。マリアーナが人伝にそんな台詞を吐くような性格では無い事は理解しているし、私を嫌うのならば直接告げるだけの仲であると自負しているからだ。

「初めまして。私はルイ―セ・ティーセルと申します。態々お伝え頂きましたが、それが彼女の本意とは到底思えません。恰もそれが真意の様に代弁するのはお止めになった方が宜しいのでは?」
「“自称”友人の貴女に義姉の何が判るというのです。どうせ聖女の威光のおこぼれに与るのが目的でしょう?義姉に纏わりついて、高位貴族令息との縁結びでも乞うつもりですか」

 かなり具体的な言い分だが、マリアーナと親しくすることで高位貴族と縁を繋ごうと考えて擦り寄る人物が一定数いた事は窺える。だから群がる有象無象を撃退する為にこの少年が立ちまわっているのだろうが、こうなると今日マリアーナに会わせて貰う事は難しいかもしれない。
 いっその事、贈り物を渡し、謝罪の言葉を託けるか……いや、この調子では捨てられかねない……と悩んでいると、階段をバタバタと急ぎ駆け下りてくる足音が聞こえた。

「ルイ―セ⁈ ……なんで、玄関ホールでギルベルトと揉めているのよ」
「マリアーナ! 訪問の約束が上手く伝わっていなかったみたいなのよ。会えて良かったわ」

 彼の名はギルベルトというらしい。
 マリアーナの姿を見てホッとする私とは対照的に顔を顰めると、ギルベルトは今度はマリアーナに向けて苦言を呈し始めた。

「君は聖女なんだから、もっと相応しい友人や恋人がいるだろう!ティーセル男爵家如きに関わっていては君の品位が損なわれる。……早く目を覚まして欲しい」
「何で貴方に指図されなくちゃいけないのか理解できないわ。為人も知らないくせに貶めるような貴方こそ早く目を覚ました方が良いわ‼」
「どうして判ってくれないんだ!マリアーナ私は―――」
「こんな言い争いは無用の長物よ。私はこれから彼女と約束があるの。……待たせてごめんなさいね、ルイ―セ。部屋へ行きましょう」
  
 にべもなく会話を終えると、マリアーナはサッサと歩き出す。その後を慌てて追いかけ、すれ違いざまにチラリと盗み見たギルベルトの表情は青白く、悲し気な色を湛えていた。




「不愉快な思いをさせたわね。もっと早く気が付けば良かった」

 唇を噛み締めるマリアーナに首を振り、本日の目的でもあった謝罪の言葉と市井で買った薔薇の砂糖漬けを差し出すと弱弱しいながらも漸く彼女に笑みが戻る。

 先程の美少年について尋ねると、彼――ギルベルト・アウレイアは遠縁の三男坊だったが、その優秀さが男爵の目に留まり、アウレイア家の養子として迎え入れられたらしい。
 現在十六歳の彼は本来なら学術院に入学する年齢だが、既に自国で学士の称号を取得している為、免除されているそうだ。

「私が社交デビュタントの年に養子に来たんだけれど、ずっと無視されていて日常会話さえ無かったのよ。それなのに、私が聖女だと知った途端『今後は姉弟ではなく、伴侶として私を見て欲しい』なんて言い出すんだもの……こんな馬鹿にした話ある?しかも、感化された両親まで『聖女が男爵家に嫁ぐなど前代未聞だ。王家に連なるか、ギルベルトと婚姻すべきだ』って……。まさかカール様との仲を反対されると思ってもみなかったから、苛立ちのあまりルイ―セ宛ての手紙に怒りをぶつけて発散していたんだけどね」

 ……どうやらあの手紙には本気で呪詛が込められていたらしい。それは兎も角、そこまで悩んでいたのなら相談の一つもして欲しいのだが。

「私達は友達でしょう? …何で相談してくれなかったのよ……」
「義弟に迫られて困っていますって?……流石にこんな話、表立って出来るわけ無いじゃない。こんな状況になった時点で、アンタは王宮に囲われているし……しかも私を利用して領地へ逃げたくせにいつ話す暇があったのかこっちが聞きたいくらいよ」

 うっ‼………そう言われたら返す言葉もございません。

「まあ、済んだことはもう良いわ。両親から反対されたことを伝えたら、カール様から『確かに今の私ではマリアーナの相手として認めて貰えないかもしれない。でも、どれだけ反対されても絶対に君を諦めるつもりは無いからね』って熱い告白まで受けたし、むしろ愛が深まったもの。このままハッピーエンド目指して邁進あるのみよ‼」

 フンッと鼻息も荒く、意思表明するマリアーナはヒロインと言うより、困難にも負けない主人公と言う方が相応しい。きっとどれだけ反対を受けたところで彼女の意思は変わらないのだろうと思うとその強い信念が少しだけ羨ましくなる。
 きっとマリアーナの芯の強さや直向きなところがギルベルトの心を変えたのだとは思うけれど、それを他人が告げる事こそ余計なお世話だろう。

 その後は如何にカール兄様が素端らしい人物かを惚気られ、惚気に中てられた私は死相を浮かべながらアウレイア家を辞去する事となったのだった。




「成程なぁ……まあ、養子に迎えた当初から男爵はマリアーナとギルベルトを婚姻させる腹づもりだったようだし、聖女に覚醒した娘をティーセル男爵家に取られるのが惜しくなったんじゃないか」

 アウレイア家の出来事を具に語り終えると、ディートハルト先生は事も無げに呟いた。
 まあ、自分の血族に家督を継がせたいという心理は判るし、養子に迎え入れた時点でその腹づもりだったというのなら納得できる話ではある。

「普通の令嬢なら親の言い成りになるかもしれんが、今のマリアーナは聖女として王家の後ろ盾もあるし、後は互いの気持ちで乗り越えるしかない以上お前の出る幕はないな。……ところで、お前自身はディミトリと添い遂げる決心はついたのか?」

 その言葉に、気まずく目を逸らしてしまうのだから私の気持ちなんて先生にはお見通しだろう。
 すると、それまでのふざけた口調から一転、真面目な顔をした先生が不意にジッと見つめて来るから一瞬気圧された。

「自分に“妃華”が刻まれていることは理解していると思うが、それがどれだけ人を引き付けるか考えたことはあるか?」

 質問の意図が判らず怪訝な顔を向けると「恰も微弱毒の様にジワジワと心に浸透し、お前に心酔していく…それが妃華の厄介な効力だ。しかも伴侶が想いを強めるほど、効力が増すから今のお前は魅了を垂れ流している状態なんだよ」と言う。

 だから身辺に異変を感じたら、直ぐに相談しろと先生は続けた。

「形振り構わずお前を手に入れようとする輩が出て来ないとは限らない。いいか、絶対に勝手な行動はするな。俺かディミトリに相談しろよ」

 その言葉に素直に頷くと、先生は心持ち安堵した様子を見せる。
 
 ―――この忠告がどれ程の意味を持って告げられていたのかを知るのは、全てがどうしようもなくなってからだという事を、この時の私は知る由も無かった。
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