調べ、かき鳴らせ

笹目いく子

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大火 (一)

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 炎の海が渦を巻いて押し寄せながら、人と、町と、悲鳴とを飲み込んで、見渡す限りの地を焼き、空を焦がしていた。
 もう夜明けが近いはずだ。しかし、空は墨を流したような黒煙に覆われて曙光しょこうの気配すらなく、炎の禍々しい赤だけが南の空を凄惨な血の色に染め上げていた。
 焦土と化した神田の町に、ぼた雪のような灰が音もなく降りしきる。焦げ臭く乾ききった空気は熱を帯び、さらに時折、息が詰まるような熱風が四方から吹き付けた。
 目も肌も喉もたちまち干上がっていくのを感じながら、久弥ひさやは余燼がくすぶる浜町川左岸を足早にさかのぼっていた。
 総髪を頭の後ろで束ね、墨黒の小袖にたすきを掛け、同じ墨色の袴の腰には大小を差している。長身の腰をやや落として足を運ぶ身ごなしは、無駄がなく滑らかだった。  
 文政十二年三月二十一日午前、神田佐久間町二丁目の材木小屋から出火した炎は、強い北西風により瞬く間に燃え広がって付近を焼き尽くした。その後火は神田川を飛び越えて、両国橋西詰広小路から浜町、日本橋一帯を飲み込み、京橋・新橋までを灰燼かいじんに帰したと伝え聞いた。それでも火勢は衰えを見せず、猛火は夜の間に日本橋川をもまたいで、八丁堀や築地、さらに佃島へと襲いかかっているらしかった。
 払暁に久弥が大川を渡って上陸した時には、焼失を免れている川沿いの大名屋敷が確認できたが、浜町川沿いの屋敷の多くは燃え落ちて無残な姿を晒していた。
 殿舎や長屋がまだ燻っているのか、あちらこちらで火の粉や黒煙が立ち昇っている。人々はとうに避難し、あらかたの屋敷は無人となり、炎のぜる不穏な音ばかりが耳に届いた。
 やがて煙と灰を透かし、下総しもうさ小槇こまき山辺やまべ家の上屋敷表門が立ち現れてきた。

(……まだか)
 
 久弥はさらに足を早めながら、邸内の気配に鋭く耳を澄ました。
 浜町河岸に面した白い海鼠壁は黒く煤け、入母屋いりもや屋根の表門も炎に炙られ黒焦げになっているが、どうにか焼け落ちることなく原型を留めている。幾筋もの白や黒の煙が狼煙のように上がっている邸内は、死んだように静まり返っていた。
 ふと、久弥の鋭敏な耳が、広大な屋敷の奥から響く潮騒のようなざわめきを捉えた。
 うねるように高まるそれがどよめきに変わり、無数の怒号と刃音が聞き分けられるほどに迫ってきた次の瞬間、地鳴りのごときときの声が邸内に轟いた。
 表門が騒々しく開け放たれ、白刃を手にした侍が数十名ばらばらと転がり出てきた。間を置かずに、抜き身をひっさげた黒衣の一団が叢雲のように現れ、侍たちに追いすがり行く手を阻む。たちまち両者の斬り合いがはじまった。
 刹那、久弥は灰の積もった道を飛ぶように疾走していた。
 剣戟の鏘然しょうぜんとした音が迫り、無数の刃がちかちかと薄闇の中に閃く。久弥は黒衣の男の背後に走り寄るなり体を沈め、すさまじい勢いで抜刀した。
 瞬速の抜き打ちが、男の背を真っ二つに斬り上げる。
 あっ、と周囲で斬り結んでいた男たちが息を飲んだ。久弥は返す刀で隣にいた黒装束の肩口を深々と斬り下げ、脇から殺到してきた敵を、下段から撥ね上げた剣で逆袈裟に斬り倒した。そのままの勢いで老侍と切り結んでいた男に駆け寄ると、すれ違いざまの鋭い一閃で首根を斬り裂いた。
 血煙が巻き上がり、瞬く間に四人がたおれた。黒衣の男たちが唖然として死体を見下ろし、次いで殺気を漲らせた目を一斉に久弥へ向ける。一方の藩士たちも、突如躍り込んできた若い浪人の修羅のごとき技に顔を強張らせ、喜ぶべきか恐れるべきか戸惑っている。
 その時、喘ぎながら顔を上げた老侍が「おお、かたじけない!」と喜色を滲ませた声で叫んだ。

「──お味方ぞ!者ども怯むな!」

 藩士たちを見回して腹から声を発すると、侍たちの間に、おお、という安堵と興奮の入り混じった歓声が広がっていく。

「……久弥様、ご助勢まことに恐縮至極」

 白髪混じりの鬢を乱し、汗だくになった老侍が、久弥にぐっと身を寄せて囁いた。

頼母たのも、舟か?」

 青眼に構えて目の前の男たちを牽制しながら低く応じると、江戸家老の諏訪頼母すわたのもは血走った目を見開いて頷いた。

──やはり。舟で脱出するつもりなのだ。

 まともに剣を扱える藩士は四十名ばかりと少ない上に、実戦の経験など皆無に等しいはずだ。対する黒衣の男たちはざっと倍以上はおり、数の上でも腕においても圧倒しているのが見て取れた。追撃を振り切るには、舟を使って浜町川から大川に逃れる他にないのだ。

「小川橋が燃え落ち川を塞いでおります。牧野豊前守様の下屋敷まで下らねばなりませぬ!」

 諏訪の声を背中で聞きながら、久弥は地を蹴って目の前の男と斬り結んでいた。
 男たちは顔までも黒い布で覆い隠し、覗いている目だけが爛々らんらんと光っている。侍らしき身ごなしの者もいれば、やくざ者かごろつきのように雄叫びを上げ、長ドスを振り回している者もちらほらと見えた。
 久弥は切り結んだ刀を擦り上げるようにして相手の懐に飛び込むと、一瞬で額を割った。

各々おのおの方! 止まってはなりません!」

 斬り合いに慣れていない藩士らの引き攣った顔に向かって叫びながら、次の相手の放ってきた逆胴をかわし様、上段から一気に首根に斬り下ろす。
 門前から大川へ向かう浜町河岸に、次々と敵味方の骸が転がった。死体のまわりの血だまりが、無数の草履に踏みしだかれてあっという間に土を赤黒く汚して行く。むせ返るような血の臭いが鼻を麻痺させ、焼け焦げた臭気すら感じなくなっている。耳をろうするような叫声と剣戟、そして乱れた足音が、生きるものの姿の絶えた神田の町にこだましていた。
 執拗に追いすがる敵を斬り伏せ、苦戦する藩士を見れば助太刀に走る。斬って捨て、また斬り結ぶ間に、何人斃したかもわからなくなっていた。

「逆賊どもが! 下がらぬか!」

 諏訪家老の吼える声が、熱を帯びた大気をふるわせる。
 侍の輪の中心に一瞬視線を向けると、煤けた空気を透かして上背のある人影がちらと見えた。見覚えのある鋭い横顔に、藩主の山辺伊豆守彰久やまべいずのかみあきひさだとすぐに知れた。藩主を守ろうと側で獅子奮迅しているのは、側用人の浜野と本間、それに神谷であろう。

「御前をお乗せせよ!」
「早う!」

 桟橋に降りて舟に至った手勢が叫び交わすのを聞き、黒衣の男たちが色めき立った。焦りと怒気を膨れ上がらせ、狂気のごとく斬り込んでくる。
 はげしい戦闘に消耗し、藩士の動きが鈍っていた。視界の隅で、藩士が打ち下ろされた剣を受けきれずにぐらりと膝を崩すのが見えた。腕が上がらずきっさきが落ちる。久弥は旋風のように走り寄るなり、侍の脳天を拝み打ちにしようとしている男の両腕を一刀の下に叩き斬った。
 わっと叫ぶ男には目もくれず身を翻し、肩を斬られて倒れた侍にとどめを刺そうとしている男に食らいつく。片手突きで相手の脇腹を鍔元まで貫いた次の瞬間、ぱっと柄から手を離して体を開くと、新手の斬撃が鼻先をかすめた。
 素早く左手を伸ばして相手の腕をむずと捉え、右手で脇差を抜きながら一瞬で喉笛を掻き斬る。ばっと吹き上がった血が雨のように降り注ぎ、灰色の道を真紅のまだらに染めた。返り血を浴びながら腰を落とし、脇差を中段に構えると、男たちが気魄に飲まれたように後退った。
 猪牙ちょき舟が水を蹴立てて進む音が背後に起こり、速やかに遠ざかって行く。

「御前はご無事じゃぞ。ようやった!」

 側用人の神谷の太い声が響き渡り、藩士たちに活気が戻った。満身創痍になりながらも、気力を奮い起こして黒衣の男たちに相対し、両者は降りかかる火の粉と灰を透かして睨み合った。
 やがて、黒衣の集団は忌々しげにじりじりと後退すると、申し合わせたように無言で身を翻し、次々に薄闇の中へと走り去って行った。

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