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大火 (二)
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上屋敷の内に敵味方の怪我人や遺骸を運び入れるのを手伝い、井戸端を借りて刀を清め、手や顔を洗うと、久弥はようやく襷を解いた。
邸内を改めて見回せば、火災の大半は消し止められてはいたものの、半壊してぶすぶすと燻っている長屋や殿舎が目につき、猛火の甚だしさがうかがえた。屋敷に次々火が燃え移り、焼け落ちる最中も互いに睨み合いをしていたのだから、双方の執念たるや鬼気迫るものがある。久弥は筵に覆われて庭に横たえられた遺骸を見渡し、負傷者の呻き声を聞きながら、暗澹たる気持ちに襲われた。
「……おお!これは、先ほどの……」
門へ向かう久弥の脇を過ぎようとした若い男が、不意に明るい声をかけてきた。
「お探ししておりました。貴公の見事なお手並み、感服致し申した。ぜひご尊名を伺えませぬか」
「ーーあっ、こちらにおいででしたか」
晒木綿を巻いた肩を庇いながら、痛そうに歩いていた別の侍が振り向いて、同じように声を上げる。
「先刻は危うい所を救っていただいた。いや、鬼神のごときお強さでしたな。上屋敷でも中屋敷でもお見かけせなんだが、国元よりおいでで?」
死闘の興奮が冷めやらぬ様子で、他の者も次々集まってくる。
「おや、そのお顔、見覚えがあるような……」
久弥の顔をしげしげと見て、幾人かが首を傾げた。
彫ったような目鼻立ちと鋭く締まった顎は、端正だが厳しさを感じさせる。しかし、穏やかな口元となだらかな眉は思いがけずやわらかく、研ぎ澄まされた面の印象を和らげている。長身の体は無駄がなく引き締まり、静かな佇まいには隙がない。その一方で、流れるような立ち居振る舞いには、どこか侍というにはそぐわない華があった。
「私は皆様の助太刀に雇われただけの浪人です。名乗るほどの者でもありませぬ。これにて……」
久弥は視線を避けるように会釈すると、頻りに引き止めようとする侍たちを置いてその場を離れた。
からからに渇き、焦げ臭かった空気が澄んできていた。
目を上げると、南東の空を染めていた炎の色が薄まり、どろどろと渦巻いていた黒雲が切れはじめていた。ところどころにぽっかりと青空が覗き、清閑な朝日が焼け野原を慰撫するように降り注いでいる。暁光に浮かび上がった焼け焦げた広大な屋敷と、そこに音もなく降り頻る白い灰に目を戻すと、白昼夢を見ているような錯覚を覚えた。
久弥は藩士たちの間を目立たぬようにすり抜け、表門の潜戸を出て歩き出した。
浜町川を挟んだ旧吉原一帯は焼け野原と化していた。灰が舞い、ゆらゆらとそこかしこから白い煙が細く立ち昇るのが見える他に、動くものの姿はない。人々が持ち出そうとして叶わずに捨て置いた家財や、打ち壊された町家の残骸が、焼け焦げたまま蹲る光景が広がるばかりだ。神田の町と人とを焼き払い、破壊の限りを尽くした炎が、ようやく満足して気怠い眠りに着いたかのようだった。
「……久弥様、しばし」
いくらもせぬ内に、背後から足音が近づいてきた。
江戸家老の諏訪が息せき切って現れたかと思うと、深々と腰を折った。
「ご加勢、まことにかたじけのうございます。脱出するなら今をおいてないと決断はしたものの、手勢は少なく、皆討ち死にする覚悟でございました。あなた様のご助勢がなくば、それがしも今頃骸のひとつとなっていたに相違ありませぬ。御前が下野守様のお屋敷にお入りになられるまでは安心はできませぬが、この大火の最中であれば、まず追手はかかりますまい」
上屋敷を逃れた彰久は、縁戚である丹波篠山藩主・青山下野守忠裕を頼って、火災を免れた筋違御門前の青山家上屋敷に保護を求める手筈だという。
老中首座である下野守の保護下にあれば、彰久の身の安全は当面確保されるだろうが、諏訪の表情は晴れなかった。
「しかし……よもや、番士が反逆に及ぼうとは……」
赤く充血した諏訪の目が、ぐっと細められた。
定府大名である若年寄・下総小槇藩主の山辺彰久胤春が、次席家老の手勢によってこの上屋敷に軟禁されて約十日が経っていた。
原因は跡目争いである。
支藩からの養子である宗靖と、彰久と正室の実子である彰則のどちらを世子とするかを巡り、この数年家中を二分する泥沼の政争が続いていた。
国許の四名の国家老の内、実子を支持する筆頭家老と、養子の宗靖を支持する次席家老が対立し、残り二名の家老をそれぞれが取り込もうと派閥争いは激化する一方だった。手練を抱える次席家老の家木陣右衛門は、最近に至っては公然と政敵の暗殺に手を染め、筆頭家老の饗庭外記は登城も避けて自邸で息を潜め、身を守っている状態であるという。
これを受けて、藩主彰久は実子である彰則を世子とすることを決断し、国内の混乱を平定するべく上意書を認めた。
……しかし、上意書を携えた使者は江戸を発つことが叶わなかった。
家木の画策により、百余名の番士が突如反旗を翻し、上屋敷を占拠したのである。公儀に対しても病と偽り、藩主彰久の登城を差し止める強引さだった。
その上で「上意を撤回なさらぬ限り包囲を続け、御前は藩政を混乱に陥れる張本人であるとして公儀に訴え、強制隠居のご裁許をいただく」として藩主を恫喝したのだった。
不行跡を理由に家臣が主君を監禁し、退位を迫ることを『押込』あるいは『主君押込』と呼ぶが、これは通常、家老衆の合意の元に実行される武力政変である。家木の行為は家老衆の総意を得ぬ独断により行われた反逆であり、内乱が勃発したに等しかった。
次席家老の手勢の主力は、上屋敷と中屋敷に詰める番士の多くと、若党や中間ら奉公人の一部だった。対する藩主側は家臣団の武力蜂起など想定しておらず、隙を突かれて味方の番士を多数討ち取られていた。上・中・下屋敷に常時詰める人員は千五百人を越えるが、大半は文官の役方や中間・小者などの武家奉公人で、武官である番方を押さえられてしまえば、まともに戦える者は多くない。そうでなくとも武家の私闘はご法度である。公儀に知れれば、藩主の切腹はもとより、改易処分さえ下りかねないのだ。
藩主と家臣団は上屋敷に押し込められたまま、身動きを取ることが出来なかった。
「こう申すのは憚られまするが、この大火は僥倖にございました。お陰でごろつきの奉公人どもは早々に逃げ出した上、人目を避けて包囲を破ることが叶いました。このまま膠着状態が続けば、ご世子の指名はもとより、御前のご退位も家木の思惑通りに運んだことでございましょう」
血と煤で汚れた顔にぎろりと目を光らせ、諏訪が苦々しく唸った。
久弥は眉をひそめたまま沈黙した。政道に口を差し挟む立場にもないし、そうしたいわけでもない。まして、後嗣争いになどに巻き込まれるのはまっぴらだった。だからつい先日、久弥の一刀流の腕を頼って諏訪が助太刀を乞うてきた時も、即答を躊躇った。
しかし、小槇とは因縁がある。
藩主の危機とあらば、力を貸さぬわけにはいかなかった。
昨夜、火災に乗じ、夜明けと共に包囲を突破すると内密に知らせがあった時、久弥は腹を括った。そして今日の未明、深川側の新大橋の袂から猪牙を雇い、火の粉混じりの熱風が吹きすさぶ大川を渡り、密かに対岸の菖蒲河岸に上がったのだった。
「ーー体を厭え、爺よ」
それだけ言って踵を返すと、久弥は灰の雨の中を歩き出した。
諏訪が何か言いたげに息を吸うのが聞こえたが、それきり、もう追いかけてくる気配はなかった。
重い足を励ましながら大川に向かって進んでいた久弥は、ふと目を凝らした。
浜町川に架かる組合橋の上に、ぽつんと佇む子供がいる。
灰色の景色の中に忽然と現れた子供の姿は、どこか現のものとは思われず、幻でも見ているのかと一瞬我が目を疑った。
十か十一ほどになろうかという少年だった。いつからそこに立っているのか、髪や肩に灰の花びらを積もらせ、少年は近づいてきた久弥を見上げた。
こぼれそうに大きな目だ。煤に汚れて憔悴した顔に、熱風に晒され真っ赤になった双眸だけが無防備に光って見える。
「……こんなところで、どうした? お父ちゃんかおっかさんは一緒じゃないのか」
屈み込んで尋ねるが、少年は無言のまま久弥の目を見返すばかりで答えない。
「家族とはぐれたか。家はどこだ?」
重ねて尋ねても、やはり答えようとしない。煙で喉を痛めでもしたのかと首を捻ったが、唇を動かす素振りすらない。焼け出された衝撃で口もきけないのか。それにしては落ち着き払った様子が不可解に思える。
(……弱ったな)
自身番屋や木戸番屋へ連れて行くといっても、すっかり焼け落ちて影も形も残っていない。焼け跡に人が戻るのにはまだ時がかかるだろう。半壊している上に、遺骸と負傷者で溢れ、殺気立っている上屋敷に連れて行くわけにもいかない。
久弥は疲労で鈍った頭で暫時考えると、子供の顔を覗き込んだ。
「家を探してやりたいが、今すぐには難しいようだ。とりあえず私の家にくるか。落ち着いたら一緒に探すとしよう」
赤子でもないのだから、この辺りに戻ってくれば見知った隣人や友達が気付くだろう。親が無事なら、きっと血眼になって方々を探し回るはずだ。
少年が警戒するように着物を握り締めるのを見て、久弥は努めて声を和らげた。
「……別に取って食いやしないよ。私は岡安久弥という。本所で三味線を教えている三味線弾きだ」
少年は久弥の顔にしばし見入り、次いで視線を動かして久弥の身なりを見回した。
黒目勝ちの大きな両目が、心の内まで見透かしてくるかのようだ。体から滲み出す殺気の名残りと、返り血を浴びた着物に気付くだろうかとひやりとする。すると少年は久弥を一頻り眺めると、納得したのかしないのか、生気に乏しい顔を俯けて小さく頷いた。
「……では、行くとしようか」
妙な道行きになったな、と思いながらゆっくりと歩き出した。
大川に近づくにつれ、延焼を免れた武家屋敷が増えてくる。灰色一色であった景色に色彩が加わり、黄泉から戻ったかのような錯覚に襲われた。
後ろをついてくる少年は、ただ足元を見下ろし黙々と歩いている。
大川から吹く湿り気を帯びた涼しい風が額を撫で、しぶとくまとわりつく熱気を払いはじめるのを感じると、久弥はようやくほっと息を吐いた。
邸内を改めて見回せば、火災の大半は消し止められてはいたものの、半壊してぶすぶすと燻っている長屋や殿舎が目につき、猛火の甚だしさがうかがえた。屋敷に次々火が燃え移り、焼け落ちる最中も互いに睨み合いをしていたのだから、双方の執念たるや鬼気迫るものがある。久弥は筵に覆われて庭に横たえられた遺骸を見渡し、負傷者の呻き声を聞きながら、暗澹たる気持ちに襲われた。
「……おお!これは、先ほどの……」
門へ向かう久弥の脇を過ぎようとした若い男が、不意に明るい声をかけてきた。
「お探ししておりました。貴公の見事なお手並み、感服致し申した。ぜひご尊名を伺えませぬか」
「ーーあっ、こちらにおいででしたか」
晒木綿を巻いた肩を庇いながら、痛そうに歩いていた別の侍が振り向いて、同じように声を上げる。
「先刻は危うい所を救っていただいた。いや、鬼神のごときお強さでしたな。上屋敷でも中屋敷でもお見かけせなんだが、国元よりおいでで?」
死闘の興奮が冷めやらぬ様子で、他の者も次々集まってくる。
「おや、そのお顔、見覚えがあるような……」
久弥の顔をしげしげと見て、幾人かが首を傾げた。
彫ったような目鼻立ちと鋭く締まった顎は、端正だが厳しさを感じさせる。しかし、穏やかな口元となだらかな眉は思いがけずやわらかく、研ぎ澄まされた面の印象を和らげている。長身の体は無駄がなく引き締まり、静かな佇まいには隙がない。その一方で、流れるような立ち居振る舞いには、どこか侍というにはそぐわない華があった。
「私は皆様の助太刀に雇われただけの浪人です。名乗るほどの者でもありませぬ。これにて……」
久弥は視線を避けるように会釈すると、頻りに引き止めようとする侍たちを置いてその場を離れた。
からからに渇き、焦げ臭かった空気が澄んできていた。
目を上げると、南東の空を染めていた炎の色が薄まり、どろどろと渦巻いていた黒雲が切れはじめていた。ところどころにぽっかりと青空が覗き、清閑な朝日が焼け野原を慰撫するように降り注いでいる。暁光に浮かび上がった焼け焦げた広大な屋敷と、そこに音もなく降り頻る白い灰に目を戻すと、白昼夢を見ているような錯覚を覚えた。
久弥は藩士たちの間を目立たぬようにすり抜け、表門の潜戸を出て歩き出した。
浜町川を挟んだ旧吉原一帯は焼け野原と化していた。灰が舞い、ゆらゆらとそこかしこから白い煙が細く立ち昇るのが見える他に、動くものの姿はない。人々が持ち出そうとして叶わずに捨て置いた家財や、打ち壊された町家の残骸が、焼け焦げたまま蹲る光景が広がるばかりだ。神田の町と人とを焼き払い、破壊の限りを尽くした炎が、ようやく満足して気怠い眠りに着いたかのようだった。
「……久弥様、しばし」
いくらもせぬ内に、背後から足音が近づいてきた。
江戸家老の諏訪が息せき切って現れたかと思うと、深々と腰を折った。
「ご加勢、まことにかたじけのうございます。脱出するなら今をおいてないと決断はしたものの、手勢は少なく、皆討ち死にする覚悟でございました。あなた様のご助勢がなくば、それがしも今頃骸のひとつとなっていたに相違ありませぬ。御前が下野守様のお屋敷にお入りになられるまでは安心はできませぬが、この大火の最中であれば、まず追手はかかりますまい」
上屋敷を逃れた彰久は、縁戚である丹波篠山藩主・青山下野守忠裕を頼って、火災を免れた筋違御門前の青山家上屋敷に保護を求める手筈だという。
老中首座である下野守の保護下にあれば、彰久の身の安全は当面確保されるだろうが、諏訪の表情は晴れなかった。
「しかし……よもや、番士が反逆に及ぼうとは……」
赤く充血した諏訪の目が、ぐっと細められた。
定府大名である若年寄・下総小槇藩主の山辺彰久胤春が、次席家老の手勢によってこの上屋敷に軟禁されて約十日が経っていた。
原因は跡目争いである。
支藩からの養子である宗靖と、彰久と正室の実子である彰則のどちらを世子とするかを巡り、この数年家中を二分する泥沼の政争が続いていた。
国許の四名の国家老の内、実子を支持する筆頭家老と、養子の宗靖を支持する次席家老が対立し、残り二名の家老をそれぞれが取り込もうと派閥争いは激化する一方だった。手練を抱える次席家老の家木陣右衛門は、最近に至っては公然と政敵の暗殺に手を染め、筆頭家老の饗庭外記は登城も避けて自邸で息を潜め、身を守っている状態であるという。
これを受けて、藩主彰久は実子である彰則を世子とすることを決断し、国内の混乱を平定するべく上意書を認めた。
……しかし、上意書を携えた使者は江戸を発つことが叶わなかった。
家木の画策により、百余名の番士が突如反旗を翻し、上屋敷を占拠したのである。公儀に対しても病と偽り、藩主彰久の登城を差し止める強引さだった。
その上で「上意を撤回なさらぬ限り包囲を続け、御前は藩政を混乱に陥れる張本人であるとして公儀に訴え、強制隠居のご裁許をいただく」として藩主を恫喝したのだった。
不行跡を理由に家臣が主君を監禁し、退位を迫ることを『押込』あるいは『主君押込』と呼ぶが、これは通常、家老衆の合意の元に実行される武力政変である。家木の行為は家老衆の総意を得ぬ独断により行われた反逆であり、内乱が勃発したに等しかった。
次席家老の手勢の主力は、上屋敷と中屋敷に詰める番士の多くと、若党や中間ら奉公人の一部だった。対する藩主側は家臣団の武力蜂起など想定しておらず、隙を突かれて味方の番士を多数討ち取られていた。上・中・下屋敷に常時詰める人員は千五百人を越えるが、大半は文官の役方や中間・小者などの武家奉公人で、武官である番方を押さえられてしまえば、まともに戦える者は多くない。そうでなくとも武家の私闘はご法度である。公儀に知れれば、藩主の切腹はもとより、改易処分さえ下りかねないのだ。
藩主と家臣団は上屋敷に押し込められたまま、身動きを取ることが出来なかった。
「こう申すのは憚られまするが、この大火は僥倖にございました。お陰でごろつきの奉公人どもは早々に逃げ出した上、人目を避けて包囲を破ることが叶いました。このまま膠着状態が続けば、ご世子の指名はもとより、御前のご退位も家木の思惑通りに運んだことでございましょう」
血と煤で汚れた顔にぎろりと目を光らせ、諏訪が苦々しく唸った。
久弥は眉をひそめたまま沈黙した。政道に口を差し挟む立場にもないし、そうしたいわけでもない。まして、後嗣争いになどに巻き込まれるのはまっぴらだった。だからつい先日、久弥の一刀流の腕を頼って諏訪が助太刀を乞うてきた時も、即答を躊躇った。
しかし、小槇とは因縁がある。
藩主の危機とあらば、力を貸さぬわけにはいかなかった。
昨夜、火災に乗じ、夜明けと共に包囲を突破すると内密に知らせがあった時、久弥は腹を括った。そして今日の未明、深川側の新大橋の袂から猪牙を雇い、火の粉混じりの熱風が吹きすさぶ大川を渡り、密かに対岸の菖蒲河岸に上がったのだった。
「ーー体を厭え、爺よ」
それだけ言って踵を返すと、久弥は灰の雨の中を歩き出した。
諏訪が何か言いたげに息を吸うのが聞こえたが、それきり、もう追いかけてくる気配はなかった。
重い足を励ましながら大川に向かって進んでいた久弥は、ふと目を凝らした。
浜町川に架かる組合橋の上に、ぽつんと佇む子供がいる。
灰色の景色の中に忽然と現れた子供の姿は、どこか現のものとは思われず、幻でも見ているのかと一瞬我が目を疑った。
十か十一ほどになろうかという少年だった。いつからそこに立っているのか、髪や肩に灰の花びらを積もらせ、少年は近づいてきた久弥を見上げた。
こぼれそうに大きな目だ。煤に汚れて憔悴した顔に、熱風に晒され真っ赤になった双眸だけが無防備に光って見える。
「……こんなところで、どうした? お父ちゃんかおっかさんは一緒じゃないのか」
屈み込んで尋ねるが、少年は無言のまま久弥の目を見返すばかりで答えない。
「家族とはぐれたか。家はどこだ?」
重ねて尋ねても、やはり答えようとしない。煙で喉を痛めでもしたのかと首を捻ったが、唇を動かす素振りすらない。焼け出された衝撃で口もきけないのか。それにしては落ち着き払った様子が不可解に思える。
(……弱ったな)
自身番屋や木戸番屋へ連れて行くといっても、すっかり焼け落ちて影も形も残っていない。焼け跡に人が戻るのにはまだ時がかかるだろう。半壊している上に、遺骸と負傷者で溢れ、殺気立っている上屋敷に連れて行くわけにもいかない。
久弥は疲労で鈍った頭で暫時考えると、子供の顔を覗き込んだ。
「家を探してやりたいが、今すぐには難しいようだ。とりあえず私の家にくるか。落ち着いたら一緒に探すとしよう」
赤子でもないのだから、この辺りに戻ってくれば見知った隣人や友達が気付くだろう。親が無事なら、きっと血眼になって方々を探し回るはずだ。
少年が警戒するように着物を握り締めるのを見て、久弥は努めて声を和らげた。
「……別に取って食いやしないよ。私は岡安久弥という。本所で三味線を教えている三味線弾きだ」
少年は久弥の顔にしばし見入り、次いで視線を動かして久弥の身なりを見回した。
黒目勝ちの大きな両目が、心の内まで見透かしてくるかのようだ。体から滲み出す殺気の名残りと、返り血を浴びた着物に気付くだろうかとひやりとする。すると少年は久弥を一頻り眺めると、納得したのかしないのか、生気に乏しい顔を俯けて小さく頷いた。
「……では、行くとしようか」
妙な道行きになったな、と思いながらゆっくりと歩き出した。
大川に近づくにつれ、延焼を免れた武家屋敷が増えてくる。灰色一色であった景色に色彩が加わり、黄泉から戻ったかのような錯覚に襲われた。
後ろをついてくる少年は、ただ足元を見下ろし黙々と歩いている。
大川から吹く湿り気を帯びた涼しい風が額を撫で、しぶとくまとわりつく熱気を払いはじめるのを感じると、久弥はようやくほっと息を吐いた。
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