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迷い子(二)
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空気を揺らすかすかな気配を感じて瞼を開くと、稽古部屋はもう薄暗かった。
ぐっと部屋の空気が冷たくなったのを感じながら体を起こし、耳を澄ました。
少年が眠っているはずの寝間に、物音が立つ。縁側をぺたりと歩く足音がした。庭を眺めているのだろうか。
夜に家の中で、己以外の気配を感じるのは久しぶりだ。十八の時に母が死んでかれこれ六年になるが、門人やわずかな友人が出入りする以外、女中も下男も置かなかった。久弥は青く染まった障子に顔を向け、じっと小さな気配に聞き入っていた。
やがて静かに立ち上がると、部屋の隅の立箱から三味線と撥を取り上げた。
障子を引いて庭を向いて座ると、隣室の縁側にいる少年が、ぎくりとしてこちらを向いた。それに構わず三味線を膝に乗せ、左手で糸巻を調整しながら三下りに合わせる。
すっと背筋を伸ばして息を吸うと、瞼を閉じ、撥を翻した。
チャン、と鮮やかな糸の音が冴え渡り、少年が息を飲む。力強く艶のある声で空気をふるわせながら、久弥は唄い出した。
黒髪の結ぼうれたる思いには
解けて寝た夜の枕とて、ひとり寝る夜の仇枕
袖はかたしくつまじゃと云うて、愚痴な女子の心と知らず
しんと更けたる鐘の声、夕べの夢の今朝覚めて
ゆかし懐かしやるせなや
積るとしらで積る白雪
群青に沈んで行く庭に、哀調に満ちた唄と旋律が切々と染みていく。
長唄のメリヤス、『黒髪』である。天明四年十一月に中村座で初演された『大商蛭小島』の中で、頼朝と政子への嫉妬に苛まれる辰姫の髪梳きの場面で使われたのが最初とされる。メリヤスは唄方一人に三味線一挺で合わせる短い下座音楽をいい、ゆったりとした曲調に手も単純だが、それでいて胸に迫るような叙情がある。侘しく湿った余韻を引く糸の音が、唄を追って溶けるように消えていくのに耳を傾け、久弥はゆっくりと瞼を開いた。
少年が息を詰めてこちらを見ている。
白々としていた顔に血が上り、大きな双眸が好奇心を抑えきれぬように久弥と三味線とを凝視していた。
「……母が三味線の師匠をしていたものでね、子供の時分から三味線ばかり弾いてきた。幸い才があったようで、こうして芸で身を立てている」
撥と三味線を膝の脇に置くと、久弥は少年に向き直って静かに両手を膝に置いた。
「お前、帰りたい家はあるのか。会いたい人がいるのなら、探してやろう」
子供の肉の薄い頬が強張る。ようやく充血の和らいだ目が焦点を失い、すっと表情を凍らせて動かなくなった。
「お前はどうやら、散々に難儀な思いをしてきたようだな。まだ十かそこらだろうに、そんな傷を負ってよくあの大火事の中を逃げ延びたものだ。行きたい場所がないのならここにいても構わないから、お前の好きにするといい。
……ただ、私は子供を預かるのにふさわしい人間ではないんだよ」
そう語りかけると、子供が表情を動かして、訝しげに久弥の目を見返した。
「……私は庶子の生まれでな。母はたいそう美しい人だったが、武家の父の屋敷に三味線を教えに通う内に、父が手をつけたそうだ。お陰で父の身内から恨みを買って、色々と厄介事を抱えているんだよ。お前には、もっと安心して暮らせる家が必要だと思う。町役人の世話になる方がよければ、そうしてやろう」
少年の目が呆気に取られたように見開かれた。子供に聞かせる身の上話でもなかろうとは思ったが、久弥がどういう事情を抱えた人間なのか、おおよそは知らせておくべきだと考えた。
どうする、と顔を覗き込むと、少年はにわかに頬を赤らめ、口をぱくぱくとさせて、言葉を探しあぐねるように喘いでいた。
「……三味線」
不意に、掠れた細い声が口から漏れた。
「あの……三味線を、習いたいです」
声の出し方を忘れていたかのようにぎこちないが、思いがけずしっかりとした言葉遣いだった。久弥は驚きに目を瞠った後、ゆっくりと頬を緩めた。
「稽古をすれば、弾けるように、なりますか。お師匠さんみたいに、教えたりできるように、なるでしょうか」
つんのめるようにして、切れ切れに言葉が飛び出す。
「か、帰るところはないので、自分で、暮らせるようになりたいです。必死にやります。教えて下さい。お願い、します」
「さて……才があるかは稽古してみないことにはわからない。だが、弾きたいのなら教えよう。生涯に渡って精進するのが芸の道だ。今からそんなに気負わないことだ」
苦笑しながらも、少年の必死な気持ちは痛いほどよくわかった。一人で身を立て、生きていく術を渇望している。頼れる人は誰もいない。一人きりで生きていかねばならない。闇の中を手探りで進むような足元の覚束なさと、放り出された世間の途方もない広さに、押し潰されそうになっている。灯りが欲しいのだ。進む方角がわからなければ、歩き出すことさえできない。
「……ひとつ尋ねるが、お前を探しにきそうな人はいないか。心底お前を案じている相手であれば問題はないが、面倒を起こしそうな相手であれば、手を打っておかないといけないと思う」
そう尋ねると、少年はしばし沈黙し、突然がばと細い両手をついて頭を下げた。
「……相すみません。勝手なことばかり言いました。あの……」
のろのろと半分ほど頭を上げ、言葉を探しているのが感じられた。縁側についた両手が青白く薄闇に浮かんでいる。手が届く程の場所に座っていても、表情が朧げにしか見えないくらいに、闇が降りてきていた。
「探しにくる人は、いないと思います。きっと、死んでいると思っているだろうし……いなくなって喜んでいるかも。火が近付いてきた時、逃げるなら今だと、思ったんです」
一度たどたどしく話しはじめると、少年の喉に詰まっていたものが抜けたかのように、次々言葉が溢れ出した。
自分は室町二丁目の呉服屋『春日』の内儀が、若い手代と密通して出来た子で、十になるのだという。
「名前は、あるのかないのか、よくわかりません。呼ばれたことがないので……」
おい、とか、小僧、とか、与三郎、だとか、そういう風に呼ばれるのが常だった。与三郎が自分の名前かとも思ったが違うらしい、と少年が言った。
久弥は無言で唇を歪めた。『与話情浮名横櫛』の、切られ与三郎か。やくざの親分、赤間源左衛門の妾のお富と惚れあって、源左衛門に三十四カ所もなます斬りにされ、体中傷だらけになった若旦那のことだ。そんな渾名で子を呼ぶなど悪趣味にもほどがある。
春日の内儀と手代の不義はすぐに店主に知れたが、内儀は先代店主の娘で、亭主である店主は店の番頭から婿養子となったため、妻には強く出られない。夫婦には既に長男と次男があり、これ以上子は必要なかったし、内儀自身子を望んでいたわけでもない。かといって間引くのも寝覚めが悪いという理由から、産むには産んだが乳を与える他には育てもせず、届け出もしなかったらしい。
内儀は美しい女だったが、勝気で気位が高く、店主は何かと鬱屈を溜めていたそうだ。
そこに、妻が奉公人と不義を働いた上に身籠もったのだから、店主の怨念がすさまじかったのも当然の成り行きだった。
店主の命で、手代は下働きの女中を無理やり娶らされ、少年が生まれると面倒を見ろと押し付けられた。そうは言っても二人とも住み込みの奉公人であったから、家族として生活したわけではなかった。赤子の間のみ女中が最低限の世話をしただけで、少年は下働きの小僧同然に使われて育った。いや、それだけなら良かったものの、内儀への憎悪を腹に溜めた店主と、歪な夫婦にされた上に子を押し付けられた手代と女中は、ことあるごとに子供に陰惨な折檻を加えた。それも、人の目に触れないように用心を重ねて、着物から見える範囲を巧妙に避けながら。
母である内儀は、それを知っても無関心を通した。少年が目の前にいても、いないものとして扱った。十以上も年の離れた長男と次男はというと、気が荒れると唐突な暴力を加えることが珍しくなかった。
食事を抜かれることは日常茶飯事であったし、寝るのは布団部屋の床の上だった。他の奉公人のように湯屋へ行かせてもらえず、真冬でも井戸端で行水して身を清めた。一人、通いの女中にやさしい女がいて、こっそり飯を食べさせたり、傷の手当てをしてくれたりしたが、やがて店主に知れて暇を出されたという。
だが、逃げるという考えが頭に浮かぶことはなかった。
「間引かれなかっただけ果報だと、みんな言いました。自分でも、そうなんだろうと思っていました」
生まれた時から罵倒や折檻が日常であったため、服従以外の生き方があるとは想像したことすらなかった。不義の子であるにもかかわらず生かされ、店に置いてもらえるだけでもありがたいのだと、店主や、手代や女中、奉公人らから呪詛のように聞かされて育った。
木刀を持ち出したのは店主だ。ここ数年酒癖が悪くなっていた店主は、折檻が度を越すことが多くなっていた。腰や腿を手酷く打たれて、翌日足を引きずって過ごすこともあった。昨年末に背中を打ち据えられた後は、肋骨にひびでも入ったのか、しばらく呼吸するのにも難儀したという。
「腕を打たれた時はすごく腫れたのでびっくりして、次に殴られたら死ぬのかな、と思いました。次の日の朝に、火事が起きたんです。昼頃には半鐘が鳴って、真っ黒い煙がどんどん近づくのが見えました。みんな逃げる準備に追われていて、俺のことなんて誰も気にしちゃいなくて。それで……」
唐突に、まったく突然に、逃げよう、と思った。
そう思った途端、重い足枷が外れたかのように、体が軽くなった。
混乱した店と屋敷を忍び出て、庭の木戸から外へ出た。戸に手を掛けた瞬間、誰かが飛んできて殴りつけるかと思ったが、誰にも咎められることなく、あっさりと戸は開いた。
店の敷地の外へ出たのは初めてのことで、何だか気持ちがふわふわとした。
隣近所の店でも慌しく避難をはじめている様子で、近火を知らせる擦り半鐘に混じって喧騒が聞こえてくるのが物珍しく、胸がどきどきと高鳴り、手のひらには汗が滲んだ。店主や手代たちに見つかったら、きっとひどく叱られる。ただの折檻ではすまないかもしれない。
けれど、木戸を出た裏道は静かで、誰も追ってくる気配はなかった。
誰も己がここにいることに気付かない。咎めないし、止めない。
切羽詰まった半鐘の音が狂ったように鳴り響き、遠くの悲鳴を乗せたきな臭い風が顔を撫でる。
恐怖はなかった。心は、ただ穏やかだった。
青空を覆い尽くそうとする禍々しい煙を見上げながら、伸び伸びと深呼吸をした。
「嬉しくなって、どんどん店から離れて歩いていました」
万が一にも店の者が追ってこないように、方角を変えながら逃げた。
炎と煙が押し寄せる中を、逃げ惑う人々の波を避けるようにして、歩いて、走って、また歩いた。幾度も煙にまかれそうになった。天水桶や井戸を見つけては水をかぶり、夕刻なのか夜なのかも定かではない闇の中、燃え残った稲荷神社の木の下で蹲って過ごした。そして早朝にまた歩き出し、気が付くと、灰燼と化した町跡にぽつんと佇んでいた。
灰の雨が花びらのように舞っていた。
自由で、空虚で、時が止まったような心地がした。
お江戸の町は全部燃えてしまったのだろうか。店も燃えたかな、とぼんやりと考えた。
それでも構わない気がした。
足が疲れて棒のようだ。目も腕も痛くて、喉もひりひりして腹もへったけれど、店にいても似たようなものだった。もう怖い思いをしなくてすむのだから、別にいい。
そんなことを考えつつ浜町川の橋の上で濁った川面を眺めていると、灰の吹雪の向こうから、黒ずくめの着物に二本差しの青年が音もなく現れた。
「店の番頭さんよりも背が高いから、びっくりしました」
番頭さんは店で一番背が高いのです、と少年が朗らかな声で言う。
輪郭しかわからなくなった少年の顔が、どんな表情を浮かべているのか、久弥にはもう見えなかった。ただ、半纏に埋もれる華奢な影が、藍色の闇に溶けそうに見えているばかりだ。ともすれば見失いそうなその影に、久弥はぽつりと言った。
「……名前がないのは不便だな。まずは名を考えよう。どう呼ばれたい」
「名前……」
戸惑ったように少年が首を傾げた。
「あの……よくわかりません。名前って……どうやって付けるのですか。自分で付けるものなんですか」
久弥はものの形も判別できない暗い庭に目を遣って、しばらく考えた。
「そうだな、私も子供の名付けなぞしたことはないし……私の知己の幼名で良ければ使うか。もっと成長した時に変えたくなったら、好きに変えたらいい」
「はい、そうします。何という名ですか」
「青い馬と書いて青馬という。白い馬のことを青馬と呼ぶんだがね。青馬を見ると吉兆を呼ぶという故事から取ったそうだ」
そうま、と少年は、食べ慣れないものを口にしたかのようにぎこちなく繰り返した。
それから、そうま、そうま、と大事そうに、口の中で転がすように幾度も唱える。
その顔が、不意に月明かりに淡く浮かび上がった。雲が切れたらしい。
白い綾のような月光が、縁側をつやつやと濡らして降り注ぐ。
たった今、青馬と名付けられたばかりの少年の顔は、思いがけず明るかった。青く見えるほどに澄んだ滑らかな双眸には、月光を映し込んだ清冽な光が踊っている。
灰燼の中に、抜け殻のようにぽつねんと佇んでいた頼りなさは跡形もなかった。まるで魂を込められた人形のように、青馬は生き生きとした表情で久弥を見上げていた。
青馬、青馬、と言葉を覚えたばかりの幼子のごとく呟く姿を、不思議な、魅入られたような気持ちで、久弥はいつまでも見詰めていた。
ぐっと部屋の空気が冷たくなったのを感じながら体を起こし、耳を澄ました。
少年が眠っているはずの寝間に、物音が立つ。縁側をぺたりと歩く足音がした。庭を眺めているのだろうか。
夜に家の中で、己以外の気配を感じるのは久しぶりだ。十八の時に母が死んでかれこれ六年になるが、門人やわずかな友人が出入りする以外、女中も下男も置かなかった。久弥は青く染まった障子に顔を向け、じっと小さな気配に聞き入っていた。
やがて静かに立ち上がると、部屋の隅の立箱から三味線と撥を取り上げた。
障子を引いて庭を向いて座ると、隣室の縁側にいる少年が、ぎくりとしてこちらを向いた。それに構わず三味線を膝に乗せ、左手で糸巻を調整しながら三下りに合わせる。
すっと背筋を伸ばして息を吸うと、瞼を閉じ、撥を翻した。
チャン、と鮮やかな糸の音が冴え渡り、少年が息を飲む。力強く艶のある声で空気をふるわせながら、久弥は唄い出した。
黒髪の結ぼうれたる思いには
解けて寝た夜の枕とて、ひとり寝る夜の仇枕
袖はかたしくつまじゃと云うて、愚痴な女子の心と知らず
しんと更けたる鐘の声、夕べの夢の今朝覚めて
ゆかし懐かしやるせなや
積るとしらで積る白雪
群青に沈んで行く庭に、哀調に満ちた唄と旋律が切々と染みていく。
長唄のメリヤス、『黒髪』である。天明四年十一月に中村座で初演された『大商蛭小島』の中で、頼朝と政子への嫉妬に苛まれる辰姫の髪梳きの場面で使われたのが最初とされる。メリヤスは唄方一人に三味線一挺で合わせる短い下座音楽をいい、ゆったりとした曲調に手も単純だが、それでいて胸に迫るような叙情がある。侘しく湿った余韻を引く糸の音が、唄を追って溶けるように消えていくのに耳を傾け、久弥はゆっくりと瞼を開いた。
少年が息を詰めてこちらを見ている。
白々としていた顔に血が上り、大きな双眸が好奇心を抑えきれぬように久弥と三味線とを凝視していた。
「……母が三味線の師匠をしていたものでね、子供の時分から三味線ばかり弾いてきた。幸い才があったようで、こうして芸で身を立てている」
撥と三味線を膝の脇に置くと、久弥は少年に向き直って静かに両手を膝に置いた。
「お前、帰りたい家はあるのか。会いたい人がいるのなら、探してやろう」
子供の肉の薄い頬が強張る。ようやく充血の和らいだ目が焦点を失い、すっと表情を凍らせて動かなくなった。
「お前はどうやら、散々に難儀な思いをしてきたようだな。まだ十かそこらだろうに、そんな傷を負ってよくあの大火事の中を逃げ延びたものだ。行きたい場所がないのならここにいても構わないから、お前の好きにするといい。
……ただ、私は子供を預かるのにふさわしい人間ではないんだよ」
そう語りかけると、子供が表情を動かして、訝しげに久弥の目を見返した。
「……私は庶子の生まれでな。母はたいそう美しい人だったが、武家の父の屋敷に三味線を教えに通う内に、父が手をつけたそうだ。お陰で父の身内から恨みを買って、色々と厄介事を抱えているんだよ。お前には、もっと安心して暮らせる家が必要だと思う。町役人の世話になる方がよければ、そうしてやろう」
少年の目が呆気に取られたように見開かれた。子供に聞かせる身の上話でもなかろうとは思ったが、久弥がどういう事情を抱えた人間なのか、おおよそは知らせておくべきだと考えた。
どうする、と顔を覗き込むと、少年はにわかに頬を赤らめ、口をぱくぱくとさせて、言葉を探しあぐねるように喘いでいた。
「……三味線」
不意に、掠れた細い声が口から漏れた。
「あの……三味線を、習いたいです」
声の出し方を忘れていたかのようにぎこちないが、思いがけずしっかりとした言葉遣いだった。久弥は驚きに目を瞠った後、ゆっくりと頬を緩めた。
「稽古をすれば、弾けるように、なりますか。お師匠さんみたいに、教えたりできるように、なるでしょうか」
つんのめるようにして、切れ切れに言葉が飛び出す。
「か、帰るところはないので、自分で、暮らせるようになりたいです。必死にやります。教えて下さい。お願い、します」
「さて……才があるかは稽古してみないことにはわからない。だが、弾きたいのなら教えよう。生涯に渡って精進するのが芸の道だ。今からそんなに気負わないことだ」
苦笑しながらも、少年の必死な気持ちは痛いほどよくわかった。一人で身を立て、生きていく術を渇望している。頼れる人は誰もいない。一人きりで生きていかねばならない。闇の中を手探りで進むような足元の覚束なさと、放り出された世間の途方もない広さに、押し潰されそうになっている。灯りが欲しいのだ。進む方角がわからなければ、歩き出すことさえできない。
「……ひとつ尋ねるが、お前を探しにきそうな人はいないか。心底お前を案じている相手であれば問題はないが、面倒を起こしそうな相手であれば、手を打っておかないといけないと思う」
そう尋ねると、少年はしばし沈黙し、突然がばと細い両手をついて頭を下げた。
「……相すみません。勝手なことばかり言いました。あの……」
のろのろと半分ほど頭を上げ、言葉を探しているのが感じられた。縁側についた両手が青白く薄闇に浮かんでいる。手が届く程の場所に座っていても、表情が朧げにしか見えないくらいに、闇が降りてきていた。
「探しにくる人は、いないと思います。きっと、死んでいると思っているだろうし……いなくなって喜んでいるかも。火が近付いてきた時、逃げるなら今だと、思ったんです」
一度たどたどしく話しはじめると、少年の喉に詰まっていたものが抜けたかのように、次々言葉が溢れ出した。
自分は室町二丁目の呉服屋『春日』の内儀が、若い手代と密通して出来た子で、十になるのだという。
「名前は、あるのかないのか、よくわかりません。呼ばれたことがないので……」
おい、とか、小僧、とか、与三郎、だとか、そういう風に呼ばれるのが常だった。与三郎が自分の名前かとも思ったが違うらしい、と少年が言った。
久弥は無言で唇を歪めた。『与話情浮名横櫛』の、切られ与三郎か。やくざの親分、赤間源左衛門の妾のお富と惚れあって、源左衛門に三十四カ所もなます斬りにされ、体中傷だらけになった若旦那のことだ。そんな渾名で子を呼ぶなど悪趣味にもほどがある。
春日の内儀と手代の不義はすぐに店主に知れたが、内儀は先代店主の娘で、亭主である店主は店の番頭から婿養子となったため、妻には強く出られない。夫婦には既に長男と次男があり、これ以上子は必要なかったし、内儀自身子を望んでいたわけでもない。かといって間引くのも寝覚めが悪いという理由から、産むには産んだが乳を与える他には育てもせず、届け出もしなかったらしい。
内儀は美しい女だったが、勝気で気位が高く、店主は何かと鬱屈を溜めていたそうだ。
そこに、妻が奉公人と不義を働いた上に身籠もったのだから、店主の怨念がすさまじかったのも当然の成り行きだった。
店主の命で、手代は下働きの女中を無理やり娶らされ、少年が生まれると面倒を見ろと押し付けられた。そうは言っても二人とも住み込みの奉公人であったから、家族として生活したわけではなかった。赤子の間のみ女中が最低限の世話をしただけで、少年は下働きの小僧同然に使われて育った。いや、それだけなら良かったものの、内儀への憎悪を腹に溜めた店主と、歪な夫婦にされた上に子を押し付けられた手代と女中は、ことあるごとに子供に陰惨な折檻を加えた。それも、人の目に触れないように用心を重ねて、着物から見える範囲を巧妙に避けながら。
母である内儀は、それを知っても無関心を通した。少年が目の前にいても、いないものとして扱った。十以上も年の離れた長男と次男はというと、気が荒れると唐突な暴力を加えることが珍しくなかった。
食事を抜かれることは日常茶飯事であったし、寝るのは布団部屋の床の上だった。他の奉公人のように湯屋へ行かせてもらえず、真冬でも井戸端で行水して身を清めた。一人、通いの女中にやさしい女がいて、こっそり飯を食べさせたり、傷の手当てをしてくれたりしたが、やがて店主に知れて暇を出されたという。
だが、逃げるという考えが頭に浮かぶことはなかった。
「間引かれなかっただけ果報だと、みんな言いました。自分でも、そうなんだろうと思っていました」
生まれた時から罵倒や折檻が日常であったため、服従以外の生き方があるとは想像したことすらなかった。不義の子であるにもかかわらず生かされ、店に置いてもらえるだけでもありがたいのだと、店主や、手代や女中、奉公人らから呪詛のように聞かされて育った。
木刀を持ち出したのは店主だ。ここ数年酒癖が悪くなっていた店主は、折檻が度を越すことが多くなっていた。腰や腿を手酷く打たれて、翌日足を引きずって過ごすこともあった。昨年末に背中を打ち据えられた後は、肋骨にひびでも入ったのか、しばらく呼吸するのにも難儀したという。
「腕を打たれた時はすごく腫れたのでびっくりして、次に殴られたら死ぬのかな、と思いました。次の日の朝に、火事が起きたんです。昼頃には半鐘が鳴って、真っ黒い煙がどんどん近づくのが見えました。みんな逃げる準備に追われていて、俺のことなんて誰も気にしちゃいなくて。それで……」
唐突に、まったく突然に、逃げよう、と思った。
そう思った途端、重い足枷が外れたかのように、体が軽くなった。
混乱した店と屋敷を忍び出て、庭の木戸から外へ出た。戸に手を掛けた瞬間、誰かが飛んできて殴りつけるかと思ったが、誰にも咎められることなく、あっさりと戸は開いた。
店の敷地の外へ出たのは初めてのことで、何だか気持ちがふわふわとした。
隣近所の店でも慌しく避難をはじめている様子で、近火を知らせる擦り半鐘に混じって喧騒が聞こえてくるのが物珍しく、胸がどきどきと高鳴り、手のひらには汗が滲んだ。店主や手代たちに見つかったら、きっとひどく叱られる。ただの折檻ではすまないかもしれない。
けれど、木戸を出た裏道は静かで、誰も追ってくる気配はなかった。
誰も己がここにいることに気付かない。咎めないし、止めない。
切羽詰まった半鐘の音が狂ったように鳴り響き、遠くの悲鳴を乗せたきな臭い風が顔を撫でる。
恐怖はなかった。心は、ただ穏やかだった。
青空を覆い尽くそうとする禍々しい煙を見上げながら、伸び伸びと深呼吸をした。
「嬉しくなって、どんどん店から離れて歩いていました」
万が一にも店の者が追ってこないように、方角を変えながら逃げた。
炎と煙が押し寄せる中を、逃げ惑う人々の波を避けるようにして、歩いて、走って、また歩いた。幾度も煙にまかれそうになった。天水桶や井戸を見つけては水をかぶり、夕刻なのか夜なのかも定かではない闇の中、燃え残った稲荷神社の木の下で蹲って過ごした。そして早朝にまた歩き出し、気が付くと、灰燼と化した町跡にぽつんと佇んでいた。
灰の雨が花びらのように舞っていた。
自由で、空虚で、時が止まったような心地がした。
お江戸の町は全部燃えてしまったのだろうか。店も燃えたかな、とぼんやりと考えた。
それでも構わない気がした。
足が疲れて棒のようだ。目も腕も痛くて、喉もひりひりして腹もへったけれど、店にいても似たようなものだった。もう怖い思いをしなくてすむのだから、別にいい。
そんなことを考えつつ浜町川の橋の上で濁った川面を眺めていると、灰の吹雪の向こうから、黒ずくめの着物に二本差しの青年が音もなく現れた。
「店の番頭さんよりも背が高いから、びっくりしました」
番頭さんは店で一番背が高いのです、と少年が朗らかな声で言う。
輪郭しかわからなくなった少年の顔が、どんな表情を浮かべているのか、久弥にはもう見えなかった。ただ、半纏に埋もれる華奢な影が、藍色の闇に溶けそうに見えているばかりだ。ともすれば見失いそうなその影に、久弥はぽつりと言った。
「……名前がないのは不便だな。まずは名を考えよう。どう呼ばれたい」
「名前……」
戸惑ったように少年が首を傾げた。
「あの……よくわかりません。名前って……どうやって付けるのですか。自分で付けるものなんですか」
久弥はものの形も判別できない暗い庭に目を遣って、しばらく考えた。
「そうだな、私も子供の名付けなぞしたことはないし……私の知己の幼名で良ければ使うか。もっと成長した時に変えたくなったら、好きに変えたらいい」
「はい、そうします。何という名ですか」
「青い馬と書いて青馬という。白い馬のことを青馬と呼ぶんだがね。青馬を見ると吉兆を呼ぶという故事から取ったそうだ」
そうま、と少年は、食べ慣れないものを口にしたかのようにぎこちなく繰り返した。
それから、そうま、そうま、と大事そうに、口の中で転がすように幾度も唱える。
その顔が、不意に月明かりに淡く浮かび上がった。雲が切れたらしい。
白い綾のような月光が、縁側をつやつやと濡らして降り注ぐ。
たった今、青馬と名付けられたばかりの少年の顔は、思いがけず明るかった。青く見えるほどに澄んだ滑らかな双眸には、月光を映し込んだ清冽な光が踊っている。
灰燼の中に、抜け殻のようにぽつねんと佇んでいた頼りなさは跡形もなかった。まるで魂を込められた人形のように、青馬は生き生きとした表情で久弥を見上げていた。
青馬、青馬、と言葉を覚えたばかりの幼子のごとく呟く姿を、不思議な、魅入られたような気持ちで、久弥はいつまでも見詰めていた。
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