上 下
11 / 58

11、助けて

しおりを挟む
 氷河の裂け目は狭く細長い形状なので、人が二人並ぶほどの幅しかない。

 不意に「おやめください」というパドマの声が聞こえた。
 いったい何を、とアルベティーナが顔を上げた時、大量の水が顔や体に降りかかった。

 一瞬、何が起こったのか分からなかった。だが、氷河の裂け目から見える細い空。その青すぎる空を背景に、桶とそれを持つ手が見えたのだ。

 アルベティーナが凍えるように……さらに端的に言うなら、さっさと凍死するように水をかけた。
 勿論、ブルーノの命令だろう。それ以外にありえない。

 濡れた毛先からぽたぽたと水が滴るが、それも凍りついた。
 アルベティーナは歯の根が合わなくなり、がちがちとみっともない音を立てた。

 寒い……さ、むい。
 
 急激に体温が奪われる。縛られている手は、すでに感覚がない。自分の指があるのかどうかも、分からない。

 わたし、このまま死ぬの?

 頭をよぎったのは、自分を売った家族の顔ではなかった。明るいパドマの笑顔と、アルベティーナの乙女としての献身を、呆れたように苦笑するイザークだった。

 冬の乙女などと言われているけれど。背に抱く印は春の薔薇。
 熱砂に囲まれたイルデラ王国にも、冠雪と氷河を抱く急峻な山にも咲くことのない、清らかな花。

 ごめんなさい、次代の乙女。あなたはわたしのように利用されないで。この記憶をちゃんと受け継いで。

 なんて寒いの。そして眠いわ。
 イザークに抱きしめられたなら、少しは温かだったでしょうに。

「誰が俺に許可なく死ぬことを許した」

 突然、近くで声が聞こえた。
 アルベティーナは驚きに目を見開いた。

 呼んでも返事はなかったではないか。来てくれなかったではないか。
 
「イザー……ク」
「おいおい、怒るなよ。俺がお前を見捨てるはずがないだろう?」

 イザークの黒い衣の袖から覗く手首や腕には、擦れたような赤い痕があった。
 アルベティーナの縄を解こうとする指が、滑らかに動かないのは、彼もまた同じような仕打ちを受けていたのかもしれない。

「間に合わずに、済まなかったな。私をいましめる鎖を焼き切るのに、時間がかかった」
「貴方まで、ブルーノに?」
「非常時だからと、姿を現しているのが災いした。全くもって忌まわしい奴だ。平和が長く続くのも考えものだな。どうして国が繁栄していられるのか、存続していられるのか考えもしないのだからな。国を守護する神を拘束する馬鹿がどこにいる。まぁ、この国にはいるんだが」

「大丈夫だったの?」
「俺の心配の前に、自分の身を案ずるんだな。お前は記憶と力を受け継ぐ冬の乙女ではあるが、その前にただの娘なんだぞ」

 ふ……っ、と小さくアルベティーナは微笑んだ。
 ブルーノもアルベティーナのことを小娘扱いするが、イザークの言葉には溢れんばかりの愛情が宿っている。

「笑っている場合か。己の置かれた立場を分かっているのか? 今後、神殿で今までのように暮らすことは叶わないんだぞ」
「ええ」
「王太子と冬の乙女の婚約破棄は、王国と守護神の契約の破棄にも繋がるのだぞ」

 分かっている。もうこの地に、冬の乙女の居場所はないことは。けれど、ここまで侮られながら、この国に献身するほど自分はお人好しではない。
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

伯爵令嬢は執事に狙われている

恋愛 / 完結 24h.ポイント:1,171pt お気に入り:451

異世界転生雑学無双譚 〜転生したのにスキルとか貰えなかったのですが〜

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:1,201pt お気に入り:33

女學生のお嬢さまはヤクザに溺愛され、困惑しています

恋愛 / 完結 24h.ポイント:227pt お気に入り:686

【完結】悲劇の令嬢は、巻き戻って悪役令嬢へと変化する

恋愛 / 完結 24h.ポイント:120pt お気に入り:892

【R18】執事と悪役令嬢の色々な世界線

恋愛 / 完結 24h.ポイント:106pt お気に入り:1,906

仲良しな天然双子は、王族に転生しても仲良しで最強です♪

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:887pt お気に入り:305

恋人を目の前で姉に奪い取られたので、両方とも捨ててやりました

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:36,820pt お気に入り:1,504

処理中です...