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10、氷河の底

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 パドマの悲鳴が遠くから聞こえる。
 氷河の裂け目に落とされた時に、全身をぶつけたのだろう。体のあちこちが酷く痛む。
 手の自由が利かないアルベティーナは立ち上がろうとしたが、鋭い痛みに悲鳴を上げた。

 どうやら足も捻っているらしい。
 骨折まではしていないのは、不幸中の幸いと言うべきなのか。

「そこで反省するのだな。お前は冬の乙女なのだから、寒さには強いのだろう? まぁ、凍死することもあるまい。いや、凍死したならただの女だったということだ」

 遥か頭上から、ブルーノの高笑いが聞こえた。そして必死に彼に懇願するパドマの声も。

「……寒い」

 アルベティーナの唇から零れる声は掠れていた。

 神官逹が助けてくれる気配はない。
 アルベティーナが亡くなっても、すぐに次の冬の乙女が現れる。ならば、今ここで息絶えるアルベティーナよりも、王太子の機嫌を取った方がいいのだろう。

「アルベティーナさまぁ!」
「平気よ、パドマ。あなたももう戻りなさい」

 パドマに心配を掛けぬよう、できる限り明るい声で答える。

「嫌です。わたしはアルベティーナさまとご一緒します」

 気持ちは嬉しいが、たとえ縄を垂らしてくれようとも、両手を縛られた状態ではそれを掴むこともできないし。パドマの力で、アルベティーナを引き上げることなど、到底無理だ。

 氷の冷たさが体の芯まで沁みていく。手足の指の感覚がなくなってきた。
 いっそこのまま眠ったら、楽になれるだろうか。
 氷河の奥は、恐ろしい程の蒼さだ。
 自分と代々の乙女たちが、王国の繁栄を願って保ちづけた氷河。
 その中で死ぬなど、笑い話にもなりはしない。

 ああ、顔が腫れたのだろう。頬がじんじんと痛む。神官は誰もわたしに手を差し伸べてはくれなかった。国民は端からわたしの存在が早く消えればいいと思っている。
 もうどこにも居場所はない。

「……どうしてこんな国に尽くしてきたのかしら」

 アルベティーナは衣服に隠れて見えない、背中の薔薇の痣を思った。
 こんなものを、力を背負って生まれたが故に自由もなく、幼い頃から軟禁状態で生き続けてきた。

 見返りを求める訳ではないけれど。
 皆、あまりにも身勝手すぎはしないか。冬の乙女に敬意を払ってくれるのは、ほんの一部の人だけだ。

 アルベティーナは、山を下りて自由に街を歩くこもない。自分がサフィアを突き飛ばしたとされる、王立歌劇場がどこにあるかも知らないのだ。

「ふ……ふふっ」

 我知らず、笑いが洩れた。
 王太子ともあろう者が、どうしてそう簡単に騙されるのだろう。女の言い分を疑いもしないのだろう。恋に溺れたのであれば、愚かにも程がある。
 そんなに甘いのに、次代の王として国を統治できるのか。

 山の中腹からはあんなに小さく見える街なのに。土地勘のないアルベティーナは、きっと迷子になってしまう。
 なのに、王太子の愛する人の行動を把握し、何日の何時にその人が現れるのかという情報を仕入れ、冬の乙女自らが歌劇場に向かうなど。

 悪いが、そこまで暇ではないし。ブルーノに思い入れもない。
 わざわざ急峻な山を下りて、地図を片手に歌劇場を探すなど、有り得ないことだ。

 なぜなら、アルベティーナはブルーノが誰を愛しているかすら、知らないのだから。
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