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15、北へ
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セシリアはテオドルと共に、馬車で北へ向かった。
賑やかだった王都とは違い、北部は影絵のような暗い糸杉が点を刺す寂し場所だった。
「ようこそお越しくださいました。セシリアさま」
二人を出迎えたのは、北部を管轄するアロラ伯爵だ。領民が次々と病に倒れているせいだろう、明らかにやつれている。
「道中、お疲れでしょう。どうぞ屋敷でお休みください」
「ありがとう。でも、一刻でも早く穢れの沼へ行きたいわ。あとで休ませていただくわね」
王女に立ち話をさせるのが申し訳ないのもあるだろう。けれど、民を領地を救ってほしいという気持ちを優先させたくもあるのだろう。アロラ伯爵は困った顔をしたけれど、すぐに馬車で沼へと案内してくれた。
「こちらです。羊を放牧していたのですが、ひと月ほど前から湿地ができたのです」
案内されたのは、見晴らしのよい草原だった。沼ができていなければ、涼しい風が緑の草を撫でる場所だったろう。
「これはひどい」
沼のある辺りを見やったテオドルは、眉をひそめた。
季節は夏だというのに、草は茶色に枯れ果てている。この地の神殿に仕える神官が、聖石の力で沼を覆ったそうだが。あちこちから黒い靄が洩れ出ている。
「まず羊が病気になったのですね」
セシリアの問いかけに、伯爵は頷いた。
「羊が倒れ、そして牧童も。周辺に病が広がるのは、あっという間でした」
羊は一匹もいないし、鳥の声すらも聞こえない。
「聖女であり神官長でもいらっしゃるカイノさまにしか、完全な浄化はできないと神官は申しておりました。それでも神官が三人がかりで封じてくれたのですが」
「カイノ神官長には浄化を頼まなかったんですか?」
セシリアの問いかけに、伯爵は首をふる。
「断られました。お忙しい方ですし、こんな辺境まで来ていただけるはずもございません」
セシリアとテオドルは顔を見あわせた。
「カイノって大聖女なの?」
「初耳です。あんなのに力があるはずありません。自称じゃないですか、言ったもの勝ちですよ」
テオドルは、よほどカイノのことが嫌いなのだろう。言葉に棘がある。
(そういえば、子供の時もテオドルはカイノが苦手で近寄らなかったわ)
ブラント伯爵家の一族とはいえ、次男であるテオドルは家督は継げない。
――ビアンカさまも、どうせ懐かれるなら、長男の方がよかったのでは? 聖女を引退して結婚するにしても、相手がアレではねぇ。
十歳ほどの少年に対して、カイノはあからさまにバカにした態度をとっていた。
身分や特権、地位。そういったものにカイノは固執していた。
聖女が二人いる状況も、彼女は気に食わなかったのだろう。ビアンカよりも立場が下であることも、我慢ならなかったに違いない。
神官長と聖女を兼任するなど、これまでのアグレル王国の歴史にはなかったことだ。
前神官長の座を奪って。カイノはそれほどに権力が欲しいのか。
(もしかして……)
セシリアは、思わぬ事実に気づいてしまった。
(力も身分も失ったビアンカが、王女に転生したと知ったら。カイノは激怒するのではないかしら。わたくしのことを憎み、前世の時のように殺そうとするかもしれないわ)
ぞくり、と背筋に悪寒が走った。
王宮の穢れの沼は、セシリアを狙ったものかもしれない。
(では、この沼も?)
「どうかなさいましたか?」
セシリアが何を言ったわけでも、身を震わせたわけでもないのに。察しのよいテオドルが気遣ってくる。
「カイノ……さまは、どうして神官長になれたのかしら。家庭教師に教えてもらったのだけれど、これまで女性の神官長はいなかったというわ。そもそも聖女が神官長になるなんて妙だわ」
少しの嘘を混ぜて、セシリアは問いかけた。
「前神官長も、それまでいた神官たちも病に伏して、神殿を去ったのです。残ったのは聖女カイノだけ。彼女が神官長たちを追放したと言ってもいいでしょう。地方の神官を王都の神官長に任命するのを、カイノは拒みました。彼女自身が頂点に立ち、新たに神官を雇ったのです」
「そんな……」
追放されたビアンカを、神殿の誰もかばってはくれなかった。それでも、よく知る神官長たちが亡くなった事実は心が痛む。
「これは噂ですが。カイノ神官長は瘴気を招いて、神官長たちまで殺したと」
セシリアは息を呑んだ。
聖女の力を悪しきことに使うなんて。
「では、王宮の沼もカイノが関わっているのね」
声が震える。
どこまでもカイノが追ってくる。殺されても、生まれ変わっても。
「イーヴァル殿下から話を伺っていませんか? 森の沼に呑まれて消えたのは、カイノの配下の者。使用人として王宮に入りこんでいたようです」
「そういえば、お兄さまは気づいていた様子だったわ」
テオドルとセシリアは声をひそめた。
幸い、瘴気の沼に怖気づいているアロラ伯爵は離れた場所にいるので、聞かれてはいない。
賑やかだった王都とは違い、北部は影絵のような暗い糸杉が点を刺す寂し場所だった。
「ようこそお越しくださいました。セシリアさま」
二人を出迎えたのは、北部を管轄するアロラ伯爵だ。領民が次々と病に倒れているせいだろう、明らかにやつれている。
「道中、お疲れでしょう。どうぞ屋敷でお休みください」
「ありがとう。でも、一刻でも早く穢れの沼へ行きたいわ。あとで休ませていただくわね」
王女に立ち話をさせるのが申し訳ないのもあるだろう。けれど、民を領地を救ってほしいという気持ちを優先させたくもあるのだろう。アロラ伯爵は困った顔をしたけれど、すぐに馬車で沼へと案内してくれた。
「こちらです。羊を放牧していたのですが、ひと月ほど前から湿地ができたのです」
案内されたのは、見晴らしのよい草原だった。沼ができていなければ、涼しい風が緑の草を撫でる場所だったろう。
「これはひどい」
沼のある辺りを見やったテオドルは、眉をひそめた。
季節は夏だというのに、草は茶色に枯れ果てている。この地の神殿に仕える神官が、聖石の力で沼を覆ったそうだが。あちこちから黒い靄が洩れ出ている。
「まず羊が病気になったのですね」
セシリアの問いかけに、伯爵は頷いた。
「羊が倒れ、そして牧童も。周辺に病が広がるのは、あっという間でした」
羊は一匹もいないし、鳥の声すらも聞こえない。
「聖女であり神官長でもいらっしゃるカイノさまにしか、完全な浄化はできないと神官は申しておりました。それでも神官が三人がかりで封じてくれたのですが」
「カイノ神官長には浄化を頼まなかったんですか?」
セシリアの問いかけに、伯爵は首をふる。
「断られました。お忙しい方ですし、こんな辺境まで来ていただけるはずもございません」
セシリアとテオドルは顔を見あわせた。
「カイノって大聖女なの?」
「初耳です。あんなのに力があるはずありません。自称じゃないですか、言ったもの勝ちですよ」
テオドルは、よほどカイノのことが嫌いなのだろう。言葉に棘がある。
(そういえば、子供の時もテオドルはカイノが苦手で近寄らなかったわ)
ブラント伯爵家の一族とはいえ、次男であるテオドルは家督は継げない。
――ビアンカさまも、どうせ懐かれるなら、長男の方がよかったのでは? 聖女を引退して結婚するにしても、相手がアレではねぇ。
十歳ほどの少年に対して、カイノはあからさまにバカにした態度をとっていた。
身分や特権、地位。そういったものにカイノは固執していた。
聖女が二人いる状況も、彼女は気に食わなかったのだろう。ビアンカよりも立場が下であることも、我慢ならなかったに違いない。
神官長と聖女を兼任するなど、これまでのアグレル王国の歴史にはなかったことだ。
前神官長の座を奪って。カイノはそれほどに権力が欲しいのか。
(もしかして……)
セシリアは、思わぬ事実に気づいてしまった。
(力も身分も失ったビアンカが、王女に転生したと知ったら。カイノは激怒するのではないかしら。わたくしのことを憎み、前世の時のように殺そうとするかもしれないわ)
ぞくり、と背筋に悪寒が走った。
王宮の穢れの沼は、セシリアを狙ったものかもしれない。
(では、この沼も?)
「どうかなさいましたか?」
セシリアが何を言ったわけでも、身を震わせたわけでもないのに。察しのよいテオドルが気遣ってくる。
「カイノ……さまは、どうして神官長になれたのかしら。家庭教師に教えてもらったのだけれど、これまで女性の神官長はいなかったというわ。そもそも聖女が神官長になるなんて妙だわ」
少しの嘘を混ぜて、セシリアは問いかけた。
「前神官長も、それまでいた神官たちも病に伏して、神殿を去ったのです。残ったのは聖女カイノだけ。彼女が神官長たちを追放したと言ってもいいでしょう。地方の神官を王都の神官長に任命するのを、カイノは拒みました。彼女自身が頂点に立ち、新たに神官を雇ったのです」
「そんな……」
追放されたビアンカを、神殿の誰もかばってはくれなかった。それでも、よく知る神官長たちが亡くなった事実は心が痛む。
「これは噂ですが。カイノ神官長は瘴気を招いて、神官長たちまで殺したと」
セシリアは息を呑んだ。
聖女の力を悪しきことに使うなんて。
「では、王宮の沼もカイノが関わっているのね」
声が震える。
どこまでもカイノが追ってくる。殺されても、生まれ変わっても。
「イーヴァル殿下から話を伺っていませんか? 森の沼に呑まれて消えたのは、カイノの配下の者。使用人として王宮に入りこんでいたようです」
「そういえば、お兄さまは気づいていた様子だったわ」
テオドルとセシリアは声をひそめた。
幸い、瘴気の沼に怖気づいているアロラ伯爵は離れた場所にいるので、聞かれてはいない。
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