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16、北の沼【1】

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 以前。セシリアの部屋の、誰も触れることのなかった薔薇水晶が、いつもとは別の引き出しに入っていた。
 もしかすると、使用人に扮したカイノの密偵の仕業かもしれない。
 薔薇水晶を見つけ、セシリアがビアンカの魂を受け継いでいることを突き止めたのだろう。

(だからカイノは、わたくしの命を奪うために、王宮の森に穢れの沼を生じさせたのだわ)

 カイノ自身は、呼ばれもしない王宮の敷地に入ることはできない。
 薔薇水晶を確認した密偵が、カイノの代わりに瘴気を招いたのだろう。推測ではあるが、命じられたとおりに沼が広がっているのを確認しようとして、命を落としたのかもしれない。

「一刻も早く、沼を浄化しましょう」

 セシリアは足を進めた。

(カイノが殺してもなお、わたくしを憎んでいるのなら。一般の人を巻きこむことはならないわ。神殿だけではなく、この国まで彼女の自由にはさせない)

 テオドルは、セシリアの手を引っぱった。
 後ろによろけた時、残された右足がぬかるみに沈むのが分かった。

「あ、ありがとう」

「地盤がゆるいので、一度沈めば上がっては来られません。これ以上沼に近寄らないようにしてください」

 テオドルの声は低い。

「ここからでも浄化できますね」

 黒い靄が溢れる沼までの距離はまだあるのに。前回、王宮の沼の浄化を見ていたからなのか、テオドルが事も無げに言う。
 
(離れた場所からの浄化は、聖女でもかなり力のある者でしかできないのだけれど。わたくしがビアンカであると、もう気づいているのかしら)

 だとすると、困る。
 テオドルの中では、ビアンカは立派な存在だったから。幻滅されるのが、何よりも怖い。

 セシリアは両手を前に差しだした。
 ふわぁぁぁ、と薔薇色の光がてのひらに生じる。光はあふれて、黒い空気に包まれた沼へと到達した。
 澱んだ水が、透明に変化する。浄化は簡単だと思われた。

「え?」

 セシリアは瞬きをくり返した。
 濁った水がほとんど澄んだ頃。こぽっと沼から音がしたのだ。

 こぽこぽ、と泡が水面を揺らす。
 次の瞬間、沼が激しく波立った。しぶきを上げて、真っ黒な獣が現れる。

「姫さまっ」

 テオドルが剣を構えて、セシリアの前に立った。
 熊ほどに大きく、体は影になっていて輪郭はぼやけている。
 金色の禍々しい目が、セシリアをとらえた。

「お逃げください」

 テオドルの声が響く。こくりとセシリアはうなずいた。護衛である彼が、逃げろと命じるなら従うのが正解だから。
 襲ってくる獣を、テオドルが斬る。鈍く、嫌な音がした。
 腐ったような臭いが鼻をつく。

 セシリアは走った。

(あの獣は、王宮を襲った瘴気の矢の束と同じだわ。テオドルが斬った端から、わたくしが浄化すればなんとかなるわ)

 湿地に足を取られて、転びそうになる。泥で湿った靴が重い。体勢を直して、セシリアは獣を見据えた。

「清らなる薔薇。聖なる光。生じる闇を薙ぎ払え」

 てのひらに生まれた光が、爆発する。薔薇色の光が、一気に獣を覆いつくした。
 テオドルに斬られて、黒い塊となっていた獣が一瞬にして消えた。

「姫さま……」
「大丈夫? テオドル」
「問題ありません。呪いを解くという、イラクサの紐を持っておりますから。姫さまはお怪我はございませんか?」

 にっこりとテオドルが微笑んだ。
 初めてだった、テオドルがセシリアに笑いかけたのは。

 どれほど彼の笑顔を見たかっただろう。セシリアとして生まれて十六年、ついぞ目にしたことがない。
 心が震えた。心臓がとくん、と音を立てる。

(わたくしは、テオドルに笑ってほしかったのだわ)

 冷淡でもなく、無関心でもなく。ただ自分を見てほしかったのだと気づいた。

 湿った足を一歩前へ進めた時。セシリアの周囲を風が吹き抜けた。
 ドスッという濁った衝撃音が聞こえてきた。
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