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19、告白
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どれほど眠っていたのだろう。
目を覚ましたテオドルは、見ていた夢を思いだしていた。
『見てごらんなさい、テオドル。鳥が南へ渡るわ。あの鳥は高い山脈を越えるのよ。上昇気流に乗るんですって。小さいから風が運んでくれるのね。渡りが始ったのね、そろそろ寒くなるわ』
夕暮れの空を飛ぶ鳥の黒い影。ビアンカが指さす群れを、子供だったテオドルは眺めていた。
『みて、テオドル。とりが、いっぱいとんでるわ』
『あの鳥が南へ移れば、冬になるのです』
子供のセシリアが、暮れていく空を見あげている。大人になったテオドルは短く答えた。
どうして自分はもっとうまく説明してあげられないのだろう。もっと言葉を尽くして、笑顔を見せてあげられないのだろう。
ビアンカは、自分にいろんなものを与えてくれたのに。
生まれ変わった彼女に、自分は何もしてあげられない。
こんなにも大事なのに。こんなにも愛しいのに。
「すまない……」
呟いた言葉は、熱を持っていた。
ふと、ひたいが冷たくなる。濡れたタオルを載せられたのだと気づいた。
「目が覚めた? お水を入れるわね」
ぼんやりとした視界に映るのは、金の髪にラベンダー色の瞳の女性。
ビアンカ? セシリア?
どちらなのか分からない。
立ちあがろうとするその人の手を、テオドルは握りしめた。湿ったタオルがひたいから落ちる。
「どちらでも、あなただ。私の一番大切なあなただ。もう私を置いて、どこにも行かないでくれ」
「テオドル……」
「私があなたを守るから。それだけを心の支えにして、生きてきたのだから。どうか、もう無茶をしないでくれ。私を守ろうとしないでくれ」
視界が滲んで、テオドルの顔を覗きこむ女性の表情がよく分からない。
「大丈夫よ」
屈みこんだその人が、テオドルのひたいに唇を寄せた。
ひんやりとした、柔らかな感触がして。すぐにくちづけは終わった。
「わたくしはビアンカであり、セシリアでもあるのだから。もう苦しまなくていいの。悩まなくていいの。約束どおり、わたくしは戻って来たでしょう? テオ」
しゃらり、と幽かな音が聞こえた。金の鎖のふれあう音だ。十八年間ずっと耳にしてきた、聞き間違えるはずがない。
「この薔薇水晶は、あなたの物よ」
「これは、預かっていただけで」
戸惑いがちに告げると、その人はにっこりと笑った。
「ビアンカの頃は、我慢しすぎたのかもしれないわ。セシリアになって、わたくしは欲張りになってしまったみたいね。だって、テオドルのことを離したくなくなったんですもの」
「それは、生涯にわたり、忠誠を誓えと言うことですか? ならば、ご心配はいりません」
「どこまでも固いのね」
その声は困ったように笑っていた。
「わたくし、テオドルのことが好きだって言ってるのよ」
テオドルが瞬きをすると、視界が明瞭になった。
主であるセシリアが、自分に愛の告白をしている。顔どころか、耳まで真っ赤に染めて。
セシリアの指が震えているのが、彼女の手から垂れた金の鎖で分かる。
「ただの騎士ですが」
「お父さまは、わたくしに政略結婚をさせるおつもりはないわ」
「不愛想で、言葉も足りませんが」
「……それは、よく知ってるわ」
「年は十二も上です」
「素敵なおじさまになってね」
そういえば、かつてビアンカに「わたくしは十二歳も上なのよ」だと言われたことがある。
(お互いが同じことを話しているなんて)
ふっ、とテオドルの口元に笑みが浮かんだ。
気負いすぎだ。セシリアが生まれてからの十六年間、肩に力が入りすぎていたのかもしれない。
「アロラ伯爵が、水底に囚われたカイノを観光資源にして、彼女自身に復興のお金を稼いでもらうと話していたわ」
「斬新な考え方ですね。私では思いつきもしません」
「なんでも沼の上に掘っ立て小屋を建てるらしいわ。それでね、板切れに『悪魔に魂を売った元聖女にして元神官長』って、看板を立てるって話していたわ。神殿では新たな神官長を選ぶのですって」
「聖女は?」
思わず口をついて出た言葉に、テオドルは自分でも驚いた。
(もしセシリアさまを新たな聖女として迎えるなら。私は全力で阻止しなければならない。聖女の力を持ちながら資格を剥奪されるとしたら……やはり結婚か? 陛下は姫に政略結婚はさせないとのことだが)
誰と?
自分以外の奴とセシリアが結婚するなど許さない。
「え? 私は何を」
「どうしたの?」
セシリアが顔を近づけてくるから。テオドルはてのひらで彼女の顔を押し返す。
「な、なによぉ」
「申し訳ございません。私にも何が何やら」
耳が熱い。きっと耳朶は赤く染まっているのだろうと、テオドルは感じた。
相手は赤ん坊の頃から知っているセシリアだ。けれど、ビアンカでもある。
「まぁ、いいわ。そういえばここの紅茶っておいしいのよ。起き上がれるようになったら、一緒にお茶をいただきましょ」
セシリアの軽やかな声が、テオドルの指の間から聞こえた。
そういえば、主の顔を手で押さえたままなのに、ようやく気づいた。
どうかしている。今日の自分は本当におかしい。やっとセシリアの顔から、テオドルは手を離す。
「私としては酒の方が好きですが。麦酒よりも、琥珀酒が好みですね」
「そうなの? 初めて聞いたわ」
「初めて話しましたから」
ああ、話したいことがたくさんある。
セシリアとの十六年を、一気に取り戻したいほどに。聞きたいことも、聞いてほしいことも。
「王都に戻ったら、渡したいものがあります」
テオドルは、王宮に引っ越した際に持ってきた状箱を思いだした。他に荷物はほとんどないのに。あれだけは手放せなかった。
状箱の中には、いずれ再会するはずのビアンカに宛てた恋文が入っていた。
さすがに赤ん坊のセシリアと面会して、恋文を書くことはなくなったが。
少年の頃の恥ずかしすぎる手紙だ。きっと目の前でセシリアに読まれたら、羞恥で消えてしまいたくなるだろうが。
好きという気持ちに偽りはないのだから。
「渡したいものって、なぁに?」
「これまで無関心を装っていた自分を罰する物ですね」
セシリアは、きょとんとした表情を浮かべたが。すぐに柔らかく微笑んだ。
「よく分からないけど、分かったわ」
「本当ですか? なにか誤解していませんか?」
「してないわ。ほんとよ」
「疑わしいですね」
少年だった頃のように。こんなにも軽口を叩けるのは、熱のせいかもしれない。
(了)
目を覚ましたテオドルは、見ていた夢を思いだしていた。
『見てごらんなさい、テオドル。鳥が南へ渡るわ。あの鳥は高い山脈を越えるのよ。上昇気流に乗るんですって。小さいから風が運んでくれるのね。渡りが始ったのね、そろそろ寒くなるわ』
夕暮れの空を飛ぶ鳥の黒い影。ビアンカが指さす群れを、子供だったテオドルは眺めていた。
『みて、テオドル。とりが、いっぱいとんでるわ』
『あの鳥が南へ移れば、冬になるのです』
子供のセシリアが、暮れていく空を見あげている。大人になったテオドルは短く答えた。
どうして自分はもっとうまく説明してあげられないのだろう。もっと言葉を尽くして、笑顔を見せてあげられないのだろう。
ビアンカは、自分にいろんなものを与えてくれたのに。
生まれ変わった彼女に、自分は何もしてあげられない。
こんなにも大事なのに。こんなにも愛しいのに。
「すまない……」
呟いた言葉は、熱を持っていた。
ふと、ひたいが冷たくなる。濡れたタオルを載せられたのだと気づいた。
「目が覚めた? お水を入れるわね」
ぼんやりとした視界に映るのは、金の髪にラベンダー色の瞳の女性。
ビアンカ? セシリア?
どちらなのか分からない。
立ちあがろうとするその人の手を、テオドルは握りしめた。湿ったタオルがひたいから落ちる。
「どちらでも、あなただ。私の一番大切なあなただ。もう私を置いて、どこにも行かないでくれ」
「テオドル……」
「私があなたを守るから。それだけを心の支えにして、生きてきたのだから。どうか、もう無茶をしないでくれ。私を守ろうとしないでくれ」
視界が滲んで、テオドルの顔を覗きこむ女性の表情がよく分からない。
「大丈夫よ」
屈みこんだその人が、テオドルのひたいに唇を寄せた。
ひんやりとした、柔らかな感触がして。すぐにくちづけは終わった。
「わたくしはビアンカであり、セシリアでもあるのだから。もう苦しまなくていいの。悩まなくていいの。約束どおり、わたくしは戻って来たでしょう? テオ」
しゃらり、と幽かな音が聞こえた。金の鎖のふれあう音だ。十八年間ずっと耳にしてきた、聞き間違えるはずがない。
「この薔薇水晶は、あなたの物よ」
「これは、預かっていただけで」
戸惑いがちに告げると、その人はにっこりと笑った。
「ビアンカの頃は、我慢しすぎたのかもしれないわ。セシリアになって、わたくしは欲張りになってしまったみたいね。だって、テオドルのことを離したくなくなったんですもの」
「それは、生涯にわたり、忠誠を誓えと言うことですか? ならば、ご心配はいりません」
「どこまでも固いのね」
その声は困ったように笑っていた。
「わたくし、テオドルのことが好きだって言ってるのよ」
テオドルが瞬きをすると、視界が明瞭になった。
主であるセシリアが、自分に愛の告白をしている。顔どころか、耳まで真っ赤に染めて。
セシリアの指が震えているのが、彼女の手から垂れた金の鎖で分かる。
「ただの騎士ですが」
「お父さまは、わたくしに政略結婚をさせるおつもりはないわ」
「不愛想で、言葉も足りませんが」
「……それは、よく知ってるわ」
「年は十二も上です」
「素敵なおじさまになってね」
そういえば、かつてビアンカに「わたくしは十二歳も上なのよ」だと言われたことがある。
(お互いが同じことを話しているなんて)
ふっ、とテオドルの口元に笑みが浮かんだ。
気負いすぎだ。セシリアが生まれてからの十六年間、肩に力が入りすぎていたのかもしれない。
「アロラ伯爵が、水底に囚われたカイノを観光資源にして、彼女自身に復興のお金を稼いでもらうと話していたわ」
「斬新な考え方ですね。私では思いつきもしません」
「なんでも沼の上に掘っ立て小屋を建てるらしいわ。それでね、板切れに『悪魔に魂を売った元聖女にして元神官長』って、看板を立てるって話していたわ。神殿では新たな神官長を選ぶのですって」
「聖女は?」
思わず口をついて出た言葉に、テオドルは自分でも驚いた。
(もしセシリアさまを新たな聖女として迎えるなら。私は全力で阻止しなければならない。聖女の力を持ちながら資格を剥奪されるとしたら……やはり結婚か? 陛下は姫に政略結婚はさせないとのことだが)
誰と?
自分以外の奴とセシリアが結婚するなど許さない。
「え? 私は何を」
「どうしたの?」
セシリアが顔を近づけてくるから。テオドルはてのひらで彼女の顔を押し返す。
「な、なによぉ」
「申し訳ございません。私にも何が何やら」
耳が熱い。きっと耳朶は赤く染まっているのだろうと、テオドルは感じた。
相手は赤ん坊の頃から知っているセシリアだ。けれど、ビアンカでもある。
「まぁ、いいわ。そういえばここの紅茶っておいしいのよ。起き上がれるようになったら、一緒にお茶をいただきましょ」
セシリアの軽やかな声が、テオドルの指の間から聞こえた。
そういえば、主の顔を手で押さえたままなのに、ようやく気づいた。
どうかしている。今日の自分は本当におかしい。やっとセシリアの顔から、テオドルは手を離す。
「私としては酒の方が好きですが。麦酒よりも、琥珀酒が好みですね」
「そうなの? 初めて聞いたわ」
「初めて話しましたから」
ああ、話したいことがたくさんある。
セシリアとの十六年を、一気に取り戻したいほどに。聞きたいことも、聞いてほしいことも。
「王都に戻ったら、渡したいものがあります」
テオドルは、王宮に引っ越した際に持ってきた状箱を思いだした。他に荷物はほとんどないのに。あれだけは手放せなかった。
状箱の中には、いずれ再会するはずのビアンカに宛てた恋文が入っていた。
さすがに赤ん坊のセシリアと面会して、恋文を書くことはなくなったが。
少年の頃の恥ずかしすぎる手紙だ。きっと目の前でセシリアに読まれたら、羞恥で消えてしまいたくなるだろうが。
好きという気持ちに偽りはないのだから。
「渡したいものって、なぁに?」
「これまで無関心を装っていた自分を罰する物ですね」
セシリアは、きょとんとした表情を浮かべたが。すぐに柔らかく微笑んだ。
「よく分からないけど、分かったわ」
「本当ですか? なにか誤解していませんか?」
「してないわ。ほんとよ」
「疑わしいですね」
少年だった頃のように。こんなにも軽口を叩けるのは、熱のせいかもしれない。
(了)
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