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一章(アン視点)

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「夫?」

 問うが、疑問はそれだけではない。あまりに突然のことに何から聞けばいいのか分からなかった。

 アーネストと名乗った男は、アンに背を向ける。窓際に行くとカーテンを閉めだした。部屋が暗くなると、眩しさも無くなる。慣れ親しんだ明るさに、アンはやっと部屋の様子や、アーネストの姿をまじまじと見れるようになってくる。

 部屋にはローテーブルを挟んで長椅子が二つ向かい合って置かれていた。それだけの為の部屋で、それだけしか置かれていなかった。先ほど男はカーテンを閉めたが、アンからたった二三歩歩いたぐらいしか動いていない。小さな部屋だった。客間というよりは、密談に使われるような部屋だ。

 男が長椅子に座る。視線が座れと言っていたので、アンも向かいに座った。

「既にランドリット侯爵には話をつけてある。そちらの義父ちち君は随分と金に困っていたようだな。それなりの物を渡してやったらすんなり了承したぞ」

 ランドリット。父の紛れもない封号であり、同名侯領を治める唯一無二の尊称ではあるが、その実態は借金まみれで首が回らない状態だった。先代の頃から傾き始め、父の代ではどうしようもないほど借金が膨らんでいた。硬貨に混ぜ物をする偽造にまで手を出していたが、元婚約者…異母妹の結婚相手が借金の肩代わりをしたと聞いていた。

「借金の話でしたら、妹の夫、ダジュール侯爵様が解決なさったと聞いております」

 男は口端を吊り上げる。

「ダジュール侯爵は俺の兄だ」
「え?」
「お前の元婚約者が俺の兄だと言えば、理解するか?」

 理解と言われても、混乱ばかりだ。アンの元婚約者は妹メアリーの夫で、ダジュール侯爵。ダジュール侯爵の名は──

「ウィレム様が、貴方の兄君なのですか」

 どうして忘れていたのだろう。あの人の名はウィレム・ストレリッツ。目の前にいる男がストレリッツと名乗った時、何故思い出さなかったのか。忘れてしまいたい気持ちが強かったのかもしれない。

 男…アーネストは、珍しい銀髪の持ち主だった。カーテンで光を落としても、その輝きが落ちることはなく、黒のベール越しでもよく見えた。
 外套越しでも隠しきれない長身の体躯。組んだ足の上に置いている手には、剣を握ってきた人特有のが出来ていた。切れ長の相貌は非常に整っていて、異母妹と同様、アンを惨めな思いにさせた。

 目が合う。表情を見せない冷たい顔に、アンは反射的に目を逸らした。

「兄だけで何とかなるような借金ではなかったからな」

 アンの気持ちを知ってか知らずか、アーネストが素知らぬ顔で言う。

「何も見返りが無いのに手を貸す訳にはいかない。金と引き換えにお前を妻に迎えた」
「…まさか」
「結婚証明書でも見せようか?」

 アーネストの言っていることが到底、信じられなかった。借金の肩代わりに自分を妻にした?冗談を言っているとしか思えない。自分のような者を欲しがるなど、あり得なかった。

「何かの間違いでは?私ではなく、別の方の話では?」
「確かに別人ではこちらも困る。アン・テスラを妻にすると書面には記載されている。違えるわけにはいかない」
「……別のかた…では?」
「何度も言わせるな。お前がアン・テスラで無いのなら、その証明をしろ」

 やや苛立って、アーネストは椅子にもたれる。この人は本気だ。本当に、自分を妻にするつもりなのだ。

「お、お待ち下さい。私は貴方様の妻にはなれません」
「いいや。なってもらう。お前を、みすみすこんな修道院で枯れさせるわけにはいかない」

 ブライトンは死んだ母の実家。ブライトン王国の王女であった母の娘である自分は、確かに王族の血を引いてはいる。
 だが、ブライトンは──

「──ブライトンは滅びました。民衆が国王を処刑しました。ブライトンも今は別の名に。消え去った国です。私には何のもありませんよ」
「元王族であっても、俺のような次男坊には箔がつく。うまみはある」
「駄目です。私は…こんな顔です。私のような者を連れては笑い者になります」
「なんだお前は」アーネストが椅子を叩く。「修道院から出してやると言ってるんだぞ。そんなに俺の妻になるのが嫌か」

 好きも嫌いもない。本来なら女に結婚の口出しなど許されない。この男が自分を妻にと望み、父が承諾したのならば従わなければならない。
 だが、状況が状況だからアンも言わずにはいられなかった。

「私が、子を望めない体であるのは、父から聞いていますか?」
「……なに?」
「流行り病で体力が回復せず、身籠みごもれません」

 月の物も何年も来ていなかった。今後も回復はしないだろうと医師から言われていた。役目を果たせない以上、妻になる資格もない。

 男はさすがに黙り込んだ。やはり父から知らされていなかったのだろう。知らなかったのなら、まだ結婚は無効に出来る。アンが提案しようとして、先に男が口を開く。

「──構わない。妻になってもらう」
「…で、ですが」
「もう結婚は成っている。教会にも証明書が渡っている。今更無効には出来ない」
「でしたら父を説得してください。父なら教会にとりなして、結婚を無効に」
「俺がいいと言った。異論はない」

 その割には不満そうな顔をしている。眉間に皺を寄せて、今にも怒りだしそうだ。まだ男に対して何も知らないアンは、やはり自分が子を産めないことを怒っているのだと思っていた。

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