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昭和十八年

第16話・ラブレター②

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 よく見かける学生が、反対側から駆け込んだ。学校に嫌気が差してしまったのかと、千秋は気が気でなかった。
 だからといって、たかが車掌が相談にのるわけにはいかない。乗りたい電車に乗せるだけ、求められた切符を売って目的地で降りてもらうだけ。
 しかし、次の停留所を告げるなり、彼は降りると手を上げた。
 電車を乗り間違えたのか、それとも思い直して学校へ行くのか。そのいずれかなら、切符を回収せずに降ろし、学校行きに乗ってもらおう。

「お客さん、乗り間違えたんかね?」
 そう尋ねると、彼は耳まで赤くして押し黙り、唇を噛んでうつむいてしまった。
 恥をかかせてしまったんね、申し訳ないことをしてしまったわ。
 その後悔は、泡と消えた。
「兄ちゃん! 降りんのかね!?」
 運転士が煽った途端、彼が角張った胸ポケットをまさぐって、引っ張り出した一通の手紙。切符は、ひしゃげたそれの合間で窮屈そうに丸まっている。
 千秋は、切符ごと手紙を受け取った。
 その瞬間、彼は電車から飛び出した。
 来た道を走って戻り、みるみる小さくなる背中に誰もがポカンとしてしまっている。

 千秋はハッとした。車掌が合図をしなければ、電車は走ってくれない。ボーッとしている場合ではない。
 切符を手紙ごと鞄に押し込み「チン、チン」と鐘を鳴らす。
 その音に運転士は我に返ると、せかせかとハンドルを回してブレーキを緩め、前を見据えてコントローラを一段入れた。
 電車が轟音を上げながら加速すると、走り去る彼の背中が急速に小さくなっていく。千秋が次の停留所を告げると、汽車のように驀進する後ろ姿は、すっかり見えなくなっていた。

 こんなことがあったせいか、折り返しの時間に余裕がなかった。薄っすらと苛立つ客に急かされ集電ポールを回していると、すれ違った運転士が何やら言いたげに目をやった。
 その視線は、腰の鞄に向けられていた。手紙を受け取り、仕舞ったことに気づいているのか。
 何にせよ、今は待たせたお客さんを乗せるのが先だ。停留所に並ぶ客を車内へ導き、矢継ぎ早に切符を売り、乗車が済むなり発車の鐘を鳴らして来た道を戻る。

 いくらか走り、千秋も運転士もすっかり平静を取り戻した頃。次の停留所を告げた瞬間、手紙の彼が思い出された。
 窓越しに校舎が見えた、彼が通う学校だ。
 そのとき、身を焦がすほどの熱量が千秋の肌を一瞬焼いた。息切れしながら地を泳ぐ彼を、電車が抜き去ったのだ。
 奪われた視線が重なると、彼は祈るように膝を崩して、電線だらけの空を仰いだ。
 もう、始業時間は過ぎている。学校前の停留所では、乗る人も降りる人もいない。停まる理由のない電車は、風を切って学校前を過ぎ去った。

 乗務が終わり、売上金を精算するときのこと。手紙が鞄に入ったままだと思い出し、こっそりと抜き取った。が、それを経理に、そして冬先生に見られてしまった。
「吉川さん、今のは何ね?」
 鋭い眼光に千秋は拘束された。お金を扱う乗務鞄から、封筒を抜いたのだ。横領を疑われて当然の行いを悔やみ、手紙を冬先生に手渡した。
「……お客さんから頂きました」
 冬先生が封を切り、険しく手紙をあらためる。と、目尻も眉も口角も、奇妙な形に歪んでいった。

 顔から火を吹きそうな愛の言葉で、便箋は埋め尽くされていた。覗き込んだ経理も監督さんも、ひと目して真っ赤に染まった。
 冷ややかなのは、千秋と組んだ運転士だけだ。そっぽを向いて、やっぱりのう……と音を殺して溜め息をついた。
 それを冬先生は、見逃さなかった。
貴様きさん!! 受け取ったんを、知っとったんか!? 伝単でんたんだったら、どうするんじゃ!! そんなん後生大事に持っとったら、憲兵さんにしょっ引かれるぞ!!」
 運転士は益々冷めて真っ青になり、凍てついた顔を何度も何度も沈ませた。
「すんません!! すんません!!」

 冬先生は手紙の中身を見せないようにし、千秋の鼻先に突きつけた。
「乗務中に手紙を受け取ったら、どんな内容でも報告せい。苦情や賞詞の対応は会社の仕事じゃ。アメリカや共産主義者の伝単は、憲兵さんに提出せないかん。わかるな?」
 千秋は沈んだ水底で、小さく「はい」と返事をした。冬先生の前だけが、陽の差さぬ深海のようにどんより暗い。
 冬先生が再び手紙に視線を落とすと、ほんのり目尻が血の気で染まった。
「……時局柄、こんな手紙でも許されん。それもわかっとるな?」
「こんな手紙て……何が書いてあるんですか?」
 ひょっこり現れ下から手紙を覗き込んだのは、乗務が終わったばかりの美春である。

 冬先生の怒りが爆発し、手紙を千切ってばら撒いた。乗務員は事務所のそこかしこへ逃げ込んで、小さくなって震え上がった。
「些細なことでも、わしらに報告せい!! 精算が終わったら、とっとと帰れ!!」
 事務所の歯車が狂ったように回りだした。乗務員は時間前に出場し、終わった車掌は経理を囲むと、千秋は事務所を飛び出した。
「千秋ちゃん! 待って!」
 美春は精算の人垣に割り込むと、地団駄踏んで「早う早う!」と経理を急かす。

 点呼台の影から監督さんが、潜望鏡のように首を伸ばした。
「岩鬼さん、目の前で手紙を破くんは……」
「アホぅ、憲兵さんに見つかってみい。あの娘はもっと可哀想な目に遭うぞ」
 監督さんがハッとすると冬先生は、千秋を追う美春の背中を目で追った。
「彼女らは、ただの社員じゃない。大事な娘さんを預かっとるんじゃ。何かあったら、親御さんに顔向け出来んわい」
 悲しく、寂しく、口惜しくも優しい冬先生の眼差しは、監督さんから言葉を奪っていった。
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