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昭和十八年
第15話・ラブレター①
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朝早くから停留所そばに陣取って、何本も何本も電車を見送った。
あの女が電車に乗るのは二日に一度、それも日によって乗る電車が変わる。中には徒党を組んで「誰がどの電車に乗っている」「誰がいつどこを通る」などと情報交換し、狙って乗り合わせようとする輩もいる。
それが俺には不誠実に思えてしまった。だからこうして下宿そばの停留所で、始発から学校に遅刻する寸前まで、ひたすら待ちぼうけを食らうしかない。
朝に会えなければ、夜に待つ。
学校そばでは目立つので、広島駅前まで行き、ぼんやりとした素振りをして電車を眺める。
こうしていれば大抵会えるが、待てど暮らせど来ない日も稀にある。
陽もすっかり暮れて人影もまばらになった頃、もう帰ろう今日は休みだと肩を落とすと、電車を降りた客の噂から白島線を延々と往復していたと知り、己の愚かさに身悶えした夜もある。
そう、彼女は広島電鉄の車掌で、家政女学校の女学生だ。俺より歳下で、仕事と学業という二足のわらじを履いているが、苦労は一切見せない。
切符を売り歩く軽やかな足取り、停留所を告げるさえずり、称える微笑は観音様かマリア様か。その神々しさに、俺はすっかり心を奪われた。
いや、苦労していた姿は目にしている。通学のため電車に乗ると、見慣れた車掌に寄り添う彼女がいた。花も恥らう年頃で、なかなか声を出せずにいると、軟派たちがからかいだした。
注意しようとしたところで、車掌が彼らを追い出して事なきを得た。いや、得てしまった。
彼女を窮地から救うのは、俺でありたかった。そんな後悔に苛まれているうち、俺は彼女に恋をしているのだと気づかされた。
胸ポケットにそっと触れると、狂おしいほどの鼓動が掌を殴る。確かめたのは、簡単に折れてしまいそうな、封筒の硬い感触。折り目に抗う、便箋の頼りない弾力。ほとばしる情熱を叩きつけた、インクの滲み。
そう、手紙だ。
軽々しく声を掛ける軟派な連中と、俺は違う。これは純愛だ、俺は心からあの女を愛している。
溢れんばかりの思いの丈を、数え切れないほど推敲し、いくつもの夜を浪費した。期待のこもった仕送りは、丸めた便箋に姿を変えた。そうして書き上がった、一通の手紙。
苦心したが、彼女の独り立ちと時期が揃った。まるで神の思召、これが運命でなければ、何であろうか。
と、彼女が現れた。
が、反対方向へ行く電車に乗っていた。
不味い。あれが折り返す頃まで待っていては、遅刻は必至。うるさい先生にどやされて、遅刻の理由を詰問されて、職員室に立たされる。
女にうつつを抜かして遅刻した、なんて知れてみろ。火の出るほどに叱責されて、今度やったら憲兵さんに突き出すと言われ、親が泣く。
……今日は諦めて、明後日にするか。
いや、男どもは鵜の目鷹の目。この機会を逃しては、誰かに掻っ攫われてしまう。
俺は道路に埋まった線路を横切り、彼女の電車に飛び乗った。
俺が反対側の停留所から駆け込んだから、彼女はちょっと驚いて仰け反っている。しかしすぐに鐘を鳴らして電車を走らせ、息切れしている俺に切符を売った。
指が触れ、俺は焦がれるほどに燃えたぎる。
彼女が次の停留所を告げる。コロコロとした鈴のような声を、ずっと聞いていたい。
ぼやぼやしている場合じゃない。俺は何のために、この電車に飛び乗ったのか。
「降ります!!」
もう降りるのか!?
乗客の視線が、俺ひとりに集まった。そして彼女は、ポカンとしながら停車の鐘を鳴らす。
しまった……早まったか。
だが、これは一刻一秒を争う事態だ。恋も学校も、遅れてはならない。
「お客さん、乗り間違えたんかね?」
彼女は俺に歩み寄り、怪訝な顔で尋ねてきた。こんなに近いと、荒い吐息に気づかれてしまう。耳まで赤いのが、鏡を見なくてもわかる。鼓動が聞こえてしまうのではないか。
固い生唾を流し込み、ひと言、たったひと言でいいのだと、絞まった喉をこじ開ける。
「いえ……あの……」
やっとの思いで口を開いて、出てきた言葉は何の意味も持ってくれない。これでは、餌を求める鯉の方が遥かにマシだ。
電車が停まった、停留所だ。客室すべての視線が氷柱となって、冷たく俺に突き刺さる。
この間、どれだけの時間が過ぎたのだろうか。わずか数秒のことであろうが、俺には悠久の時に感じられた。
何故なら、彼女が俺だけを見つめているから。不思議そうに傾げた首が、心配そうにひそめる眉が、真っ直ぐ向けられた澄んだ瞳が、無数の視線に凍てつく俺を溶かしていった。
「兄ちゃん! 降りんのかね!?」
運転士が疎ましそうに降車を促すと、俺の時間は狂ったように動き出した。
もらったばかりの切符を持ったまま胸ポケットをまさぐって、丹念に封じた手紙を掴み、思いを綴ったインクを握った汗で滲ませた。
身体が熱い、鼓動がうるさい、彼女を直視していられない。
「これ!! ……」
握り潰した手紙と切符を突き出した。ギュッと目を閉じ、震える指先に全神経を集中させる。
スッと、手紙が抜き取られた。
破裂しそうな脈動が、俺の血流を沸騰させた。床を蹴って電車を飛び出し、来た道を一心不乱に駆け抜ける。
やったぞ、ついにやった。
吉川さんに、愛を告げた。
笑みと吐息を撒き散らし走っていると、電車が颯爽と抜き去って、俺を急速に冷ましていった。反対側の停留所で電車を待てばいいものを、抑えきれない高揚にこの身をすべて委ねてしまった。
あれは、始業に間に合う最後の電車……。
いっそ遅刻ならば、彼女の電車を待とうか。
いや……思いのすべてを手紙に託し、みっともなく逃げ出したのだ。そんなことが、出来るはずもない。
酷使した心臓に鞭を打ち、脚を棒にし空を掴み、校舎が遠くに見えたところで、乗った電車に追い抜かされた。
ほんの一瞬、俺を追う吉川さんの視線が、この情けない涙目と重なった。
この思い、届いてくれよと祈りを捧げて、俺は膝から崩れ落ちた。
あの女が電車に乗るのは二日に一度、それも日によって乗る電車が変わる。中には徒党を組んで「誰がどの電車に乗っている」「誰がいつどこを通る」などと情報交換し、狙って乗り合わせようとする輩もいる。
それが俺には不誠実に思えてしまった。だからこうして下宿そばの停留所で、始発から学校に遅刻する寸前まで、ひたすら待ちぼうけを食らうしかない。
朝に会えなければ、夜に待つ。
学校そばでは目立つので、広島駅前まで行き、ぼんやりとした素振りをして電車を眺める。
こうしていれば大抵会えるが、待てど暮らせど来ない日も稀にある。
陽もすっかり暮れて人影もまばらになった頃、もう帰ろう今日は休みだと肩を落とすと、電車を降りた客の噂から白島線を延々と往復していたと知り、己の愚かさに身悶えした夜もある。
そう、彼女は広島電鉄の車掌で、家政女学校の女学生だ。俺より歳下で、仕事と学業という二足のわらじを履いているが、苦労は一切見せない。
切符を売り歩く軽やかな足取り、停留所を告げるさえずり、称える微笑は観音様かマリア様か。その神々しさに、俺はすっかり心を奪われた。
いや、苦労していた姿は目にしている。通学のため電車に乗ると、見慣れた車掌に寄り添う彼女がいた。花も恥らう年頃で、なかなか声を出せずにいると、軟派たちがからかいだした。
注意しようとしたところで、車掌が彼らを追い出して事なきを得た。いや、得てしまった。
彼女を窮地から救うのは、俺でありたかった。そんな後悔に苛まれているうち、俺は彼女に恋をしているのだと気づかされた。
胸ポケットにそっと触れると、狂おしいほどの鼓動が掌を殴る。確かめたのは、簡単に折れてしまいそうな、封筒の硬い感触。折り目に抗う、便箋の頼りない弾力。ほとばしる情熱を叩きつけた、インクの滲み。
そう、手紙だ。
軽々しく声を掛ける軟派な連中と、俺は違う。これは純愛だ、俺は心からあの女を愛している。
溢れんばかりの思いの丈を、数え切れないほど推敲し、いくつもの夜を浪費した。期待のこもった仕送りは、丸めた便箋に姿を変えた。そうして書き上がった、一通の手紙。
苦心したが、彼女の独り立ちと時期が揃った。まるで神の思召、これが運命でなければ、何であろうか。
と、彼女が現れた。
が、反対方向へ行く電車に乗っていた。
不味い。あれが折り返す頃まで待っていては、遅刻は必至。うるさい先生にどやされて、遅刻の理由を詰問されて、職員室に立たされる。
女にうつつを抜かして遅刻した、なんて知れてみろ。火の出るほどに叱責されて、今度やったら憲兵さんに突き出すと言われ、親が泣く。
……今日は諦めて、明後日にするか。
いや、男どもは鵜の目鷹の目。この機会を逃しては、誰かに掻っ攫われてしまう。
俺は道路に埋まった線路を横切り、彼女の電車に飛び乗った。
俺が反対側の停留所から駆け込んだから、彼女はちょっと驚いて仰け反っている。しかしすぐに鐘を鳴らして電車を走らせ、息切れしている俺に切符を売った。
指が触れ、俺は焦がれるほどに燃えたぎる。
彼女が次の停留所を告げる。コロコロとした鈴のような声を、ずっと聞いていたい。
ぼやぼやしている場合じゃない。俺は何のために、この電車に飛び乗ったのか。
「降ります!!」
もう降りるのか!?
乗客の視線が、俺ひとりに集まった。そして彼女は、ポカンとしながら停車の鐘を鳴らす。
しまった……早まったか。
だが、これは一刻一秒を争う事態だ。恋も学校も、遅れてはならない。
「お客さん、乗り間違えたんかね?」
彼女は俺に歩み寄り、怪訝な顔で尋ねてきた。こんなに近いと、荒い吐息に気づかれてしまう。耳まで赤いのが、鏡を見なくてもわかる。鼓動が聞こえてしまうのではないか。
固い生唾を流し込み、ひと言、たったひと言でいいのだと、絞まった喉をこじ開ける。
「いえ……あの……」
やっとの思いで口を開いて、出てきた言葉は何の意味も持ってくれない。これでは、餌を求める鯉の方が遥かにマシだ。
電車が停まった、停留所だ。客室すべての視線が氷柱となって、冷たく俺に突き刺さる。
この間、どれだけの時間が過ぎたのだろうか。わずか数秒のことであろうが、俺には悠久の時に感じられた。
何故なら、彼女が俺だけを見つめているから。不思議そうに傾げた首が、心配そうにひそめる眉が、真っ直ぐ向けられた澄んだ瞳が、無数の視線に凍てつく俺を溶かしていった。
「兄ちゃん! 降りんのかね!?」
運転士が疎ましそうに降車を促すと、俺の時間は狂ったように動き出した。
もらったばかりの切符を持ったまま胸ポケットをまさぐって、丹念に封じた手紙を掴み、思いを綴ったインクを握った汗で滲ませた。
身体が熱い、鼓動がうるさい、彼女を直視していられない。
「これ!! ……」
握り潰した手紙と切符を突き出した。ギュッと目を閉じ、震える指先に全神経を集中させる。
スッと、手紙が抜き取られた。
破裂しそうな脈動が、俺の血流を沸騰させた。床を蹴って電車を飛び出し、来た道を一心不乱に駆け抜ける。
やったぞ、ついにやった。
吉川さんに、愛を告げた。
笑みと吐息を撒き散らし走っていると、電車が颯爽と抜き去って、俺を急速に冷ましていった。反対側の停留所で電車を待てばいいものを、抑えきれない高揚にこの身をすべて委ねてしまった。
あれは、始業に間に合う最後の電車……。
いっそ遅刻ならば、彼女の電車を待とうか。
いや……思いのすべてを手紙に託し、みっともなく逃げ出したのだ。そんなことが、出来るはずもない。
酷使した心臓に鞭を打ち、脚を棒にし空を掴み、校舎が遠くに見えたところで、乗った電車に追い抜かされた。
ほんの一瞬、俺を追う吉川さんの視線が、この情けない涙目と重なった。
この思い、届いてくれよと祈りを捧げて、俺は膝から崩れ落ちた。
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