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昭和十八年

第19話・家②

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 広島駅から電車に乗らず京橋川に沿って歩き、視線をそっぽに投げて校門をくぐり、素知そしらぬ顔で後ろ手を組み寮へと入る。
 うぐいすが鳴いてしまわぬようにと、摺り足をさばいて廊下を進む。それだけ気を配っても踏みどころが悪ければ、チュンと雀くらいは鳴いてしまう。
 それがかえって怪しくて、過ぎたあとから扉が開けられ、部屋の中から怖怖こわごわとした視線がそっと向けられる。
 はやる気持ちを押し殺した足音がトツトツトツと廊下に響く。去りゆく後ろ姿から音の主が美春とわかり、閉じられた扉がパタンと安堵の溜め息をついた。
 息つく間もなくハッと扉が開け放たれた。
 再び覗いた少女の瞳に、美春の背中は映らなかった。

 わずかに開いた隙間をすり抜け、美春が自室に帰ってきた。閉じた扉にもたれかかってズルズルと滑り落ち、尻餅をついて長く長く息を吐いた。
「美春ちゃん、お帰り」
 相部屋のさくら、すみれ、かえでに夏子が隠密行動をねぎらいつつ、口元に手をかざしてクスクスと笑みを浮かべている。美春はそんな彼女らに疲れ切った笑顔を返した。
「コソコソ帰るのも、しんどいのう」
「見つかったら、もっとしんどい思いするけぇ。仕方ないわ」
 美春が部屋に上がると期待を胸いっぱいにした少女たちが、部屋の中央に据え置かれた裁縫机に集まった。後ろに隠して死守した風呂敷包みを机に置いて、ハラリと開くと魚の干物が雪崩を起こした。

「うわぁ! えらい数じゃ!」
「うちらで食べ切れるかねぇ」
「……これ、どこで焼いたらええの?」
 夏子が突きつけた現実に歓喜が凪いだ。空虚をふわふわ漂っている彼女たちに、美春はオロオロと狼狽えている。
「そりゃあ……舎監さんにお願いして、調理場を使わせてもらったらええ」
「匂いでバレるんと違う?」
「みんな、お腹空いとるんじゃ! 何を食べても嗅ぎつけてしまうわい!」
「まぁまぁ美春ちゃん、怒らんと。うちのお土産も芋じゃけぇ、ふかしたら匂いがしてしまうわ」
「食堂をこっそり借りたらバレんわい。次の帰省組が帰るまでには、食べ切らんといかんねぇ」
「ほんで、他のみんなは何を持たされたん?」

 舌舐めずりする美春の前に、それぞれの土産が披露された。干物の周りに芋、桃、枇杷に饅頭が裁縫机いっぱいに広げられ、少女たちの瞳が朝日を浴びた川面のように煌めいていく。
「山のようじゃ……食べ切れるかねぇ」
「せっかくもろうたんじゃ、食べ切らなぁもったいないわ」
「いっぺんに食べんでもええわ、足が早いのから食べよう」
 すると美春が「もう我慢出来ん!」と枇杷に手を伸ばした。はやる気持ちが抑えきれず、おぼつかない皮剥きに手を重ねて夏子が制した。
「もうちょい辛抱してや、千秋ちゃんを待とう」
 美春はシュンと萎んで、手にした枇杷をそっと戻した。
「……ほうね、みんなも我慢しとったけぇ、抜け駆けはいかんわ」
「怒っとるわけじゃないんよ、みんなで食べた方が美味しいじゃろう?」

 そう言ったものの、立ちはだかる美味の山から視線を逸らすことなど出来やしない。瞳の輝きは次第に取り戻されていき、溢れる生唾を恨めしく飲み込んだ。
「千秋ちゃん、まだかねぇ」
比婆ひばを越えた島根じゃけぇ、遅うなるわ」
「汽車も乗り継がんといかんじゃろう」
 そのとき、少女たちに冷たい風が吹いた。一瞬にして青ざめて、誰もが視線を机の下へと落としている。
 そして、憚られていたひと言を、美春がぽつりとつぶやいた。
「……千秋ちゃん、帰ってくるよねぇ」

 少女たちは顔を上げて願いに縋った。口を結び、瞳を潤ませている美春も、同じ思いを抱えている。
「帰ってくるよ! うちら、友達じゃけぇ!」
「千秋ちゃんは仕事も勉強も大好きじゃ! 心配せんでも帰ってくるわ!」
「ほうね! 近頃は布団で泣いとらん……」
 時が止まった。部屋には厚い雲が重苦しく垂れ込めて、みるみる温度が下がっていく。
「……泣いとったんね……」
「夏子ちゃんが、すぐ慰めとったけぇ。知らんのも仕方ないわ」
 親元を離れた寮生活も四か月が過ぎ、すっかり環境に慣れていったと思った矢先。千秋は親への想いが強くなっていた。
 盆休みに帰省出来ると知ってから、昼間はそれを楽しみにして過ごしていたが、募る想いを月が照らし出してしまっていた。

 次の瞬間、希望の扉が開け放たれた。
 くたびれた笑顔を見せる千秋が、そこにいた。
 少女たちは当たり前の日常が奇跡なんだと気づかされて、言葉を失い固まっていた。
「ごめんねぇ、汽車が遅れとったけぇ……って、何ね? 幽霊でも見たような顔をして。脚なら、ちゃんとあるよ?」
 ポカンとした美春の顔が引きつって、皺くちゃに歪んでいった。次にはそれを隠すように、頬を伝う雫を拭うように、千秋の胸へと飛び込んだ。
「何ね、美春ちゃん。そんなに寂しかったん?」
 手間のかかる妹を慈しむように、千秋は美春の頭を撫でた。夏子も、他の少女たちも呆れながら微笑んでいる。
「さっきまで枇杷を食べようとしとったんが、嘘のようやね」

 瞳を霞ませる美春をそっと離した千秋は、裁縫机に目を丸くした。
「わぁ、えらいことじゃね。うちもお土産があるんよ……ありゃ、お饅頭が重なってしもうた」
「あちゃあ、うちのや。みんな遠いから、土産にせんと思うたんに」
「夏子ちゃんは呉じゃけぇ、近くてええね。江波えばの造船所に呼ばれるんじゃないかね?」
 夏子の表情が一瞬曇った。光を求めて逸らした視線は、そばに座った美春と千秋に向けられた。
「……ううん、ええわ。ここがうちらの、みんなの家やさかい」
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