19 / 82
昭和十八年
第19話・家②
しおりを挟む
広島駅から電車に乗らず京橋川に沿って歩き、視線をそっぽに投げて校門をくぐり、素知らぬ顔で後ろ手を組み寮へと入る。
鶯が鳴いてしまわぬようにと、摺り足を捌いて廊下を進む。それだけ気を配っても踏みどころが悪ければ、チュンと雀くらいは鳴いてしまう。
それがかえって怪しくて、過ぎたあとから扉が開けられ、部屋の中から怖怖とした視線がそっと向けられる。
はやる気持ちを押し殺した足音がトツトツトツと廊下に響く。去りゆく後ろ姿から音の主が美春とわかり、閉じられた扉がパタンと安堵の溜め息をついた。
息つく間もなくハッと扉が開け放たれた。
再び覗いた少女の瞳に、美春の背中は映らなかった。
わずかに開いた隙間をすり抜け、美春が自室に帰ってきた。閉じた扉にもたれかかってズルズルと滑り落ち、尻餅をついて長く長く息を吐いた。
「美春ちゃん、お帰り」
相部屋のさくら、すみれ、かえでに夏子が隠密行動を労いつつ、口元に手をかざしてクスクスと笑みを浮かべている。美春はそんな彼女らに疲れ切った笑顔を返した。
「コソコソ帰るのも、しんどいのう」
「見つかったら、もっとしんどい思いするけぇ。仕方ないわ」
美春が部屋に上がると期待を胸いっぱいにした少女たちが、部屋の中央に据え置かれた裁縫机に集まった。後ろに隠して死守した風呂敷包みを机に置いて、ハラリと開くと魚の干物が雪崩を起こした。
「うわぁ! えらい数じゃ!」
「うちらで食べ切れるかねぇ」
「……これ、どこで焼いたらええの?」
夏子が突きつけた現実に歓喜が凪いだ。空虚をふわふわ漂っている彼女たちに、美春はオロオロと狼狽えている。
「そりゃあ……舎監さんにお願いして、調理場を使わせてもらったらええ」
「匂いでバレるんと違う?」
「みんな、お腹空いとるんじゃ! 何を食べても嗅ぎつけてしまうわい!」
「まぁまぁ美春ちゃん、怒らんと。うちのお土産も芋じゃけぇ、ふかしたら匂いがしてしまうわ」
「食堂をこっそり借りたらバレんわい。次の帰省組が帰るまでには、食べ切らんといかんねぇ」
「ほんで、他のみんなは何を持たされたん?」
舌舐めずりする美春の前に、それぞれの土産が披露された。干物の周りに芋、桃、枇杷に饅頭が裁縫机いっぱいに広げられ、少女たちの瞳が朝日を浴びた川面のように煌めいていく。
「山のようじゃ……食べ切れるかねぇ」
「せっかく貰うたんじゃ、食べ切らなぁもったいないわ」
「いっぺんに食べんでもええわ、足が早いのから食べよう」
すると美春が「もう我慢出来ん!」と枇杷に手を伸ばした。はやる気持ちが抑えきれず、おぼつかない皮剥きに手を重ねて夏子が制した。
「もうちょい辛抱してや、千秋ちゃんを待とう」
美春はシュンと萎んで、手にした枇杷をそっと戻した。
「……ほうね、みんなも我慢しとったけぇ、抜け駆けはいかんわ」
「怒っとるわけじゃないんよ、みんなで食べた方が美味しいじゃろう?」
そう言ったものの、立ちはだかる美味の山から視線を逸らすことなど出来やしない。瞳の輝きは次第に取り戻されていき、溢れる生唾を恨めしく飲み込んだ。
「千秋ちゃん、まだかねぇ」
「比婆を越えた島根じゃけぇ、遅うなるわ」
「汽車も乗り継がんといかんじゃろう」
そのとき、少女たちに冷たい風が吹いた。一瞬にして青ざめて、誰もが視線を机の下へと落としている。
そして、憚られていたひと言を、美春がぽつりとつぶやいた。
「……千秋ちゃん、帰ってくるよねぇ」
少女たちは顔を上げて願いに縋った。口を結び、瞳を潤ませている美春も、同じ思いを抱えている。
「帰ってくるよ! うちら、友達じゃけぇ!」
「千秋ちゃんは仕事も勉強も大好きじゃ! 心配せんでも帰ってくるわ!」
「ほうね! 近頃は布団で泣いとらん……」
時が止まった。部屋には厚い雲が重苦しく垂れ込めて、みるみる温度が下がっていく。
「……泣いとったんね……」
「夏子ちゃんが、すぐ慰めとったけぇ。知らんのも仕方ないわ」
親元を離れた寮生活も四か月が過ぎ、すっかり環境に慣れていったと思った矢先。千秋は親への想いが強くなっていた。
盆休みに帰省出来ると知ってから、昼間はそれを楽しみにして過ごしていたが、募る想いを月が照らし出してしまっていた。
次の瞬間、希望の扉が開け放たれた。
くたびれた笑顔を見せる千秋が、そこにいた。
少女たちは当たり前の日常が奇跡なんだと気づかされて、言葉を失い固まっていた。
「ごめんねぇ、汽車が遅れとったけぇ……って、何ね? 幽霊でも見たような顔をして。脚なら、ちゃんとあるよ?」
ポカンとした美春の顔が引きつって、皺くちゃに歪んでいった。次にはそれを隠すように、頬を伝う雫を拭うように、千秋の胸へと飛び込んだ。
「何ね、美春ちゃん。そんなに寂しかったん?」
手間のかかる妹を慈しむように、千秋は美春の頭を撫でた。夏子も、他の少女たちも呆れながら微笑んでいる。
「さっきまで枇杷を食べようとしとったんが、嘘のようやね」
瞳を霞ませる美春をそっと離した千秋は、裁縫机に目を丸くした。
「わぁ、えらいことじゃね。うちもお土産があるんよ……ありゃ、お饅頭が重なってしもうた」
「あちゃあ、うちのや。みんな遠いから、土産にせんと思うたんに」
「夏子ちゃんは呉じゃけぇ、近くてええね。江波の造船所に呼ばれるんじゃないかね?」
夏子の表情が一瞬曇った。光を求めて逸らした視線は、そばに座った美春と千秋に向けられた。
「……ううん、ええわ。ここがうちらの、みんなの家やさかい」
鶯が鳴いてしまわぬようにと、摺り足を捌いて廊下を進む。それだけ気を配っても踏みどころが悪ければ、チュンと雀くらいは鳴いてしまう。
それがかえって怪しくて、過ぎたあとから扉が開けられ、部屋の中から怖怖とした視線がそっと向けられる。
はやる気持ちを押し殺した足音がトツトツトツと廊下に響く。去りゆく後ろ姿から音の主が美春とわかり、閉じられた扉がパタンと安堵の溜め息をついた。
息つく間もなくハッと扉が開け放たれた。
再び覗いた少女の瞳に、美春の背中は映らなかった。
わずかに開いた隙間をすり抜け、美春が自室に帰ってきた。閉じた扉にもたれかかってズルズルと滑り落ち、尻餅をついて長く長く息を吐いた。
「美春ちゃん、お帰り」
相部屋のさくら、すみれ、かえでに夏子が隠密行動を労いつつ、口元に手をかざしてクスクスと笑みを浮かべている。美春はそんな彼女らに疲れ切った笑顔を返した。
「コソコソ帰るのも、しんどいのう」
「見つかったら、もっとしんどい思いするけぇ。仕方ないわ」
美春が部屋に上がると期待を胸いっぱいにした少女たちが、部屋の中央に据え置かれた裁縫机に集まった。後ろに隠して死守した風呂敷包みを机に置いて、ハラリと開くと魚の干物が雪崩を起こした。
「うわぁ! えらい数じゃ!」
「うちらで食べ切れるかねぇ」
「……これ、どこで焼いたらええの?」
夏子が突きつけた現実に歓喜が凪いだ。空虚をふわふわ漂っている彼女たちに、美春はオロオロと狼狽えている。
「そりゃあ……舎監さんにお願いして、調理場を使わせてもらったらええ」
「匂いでバレるんと違う?」
「みんな、お腹空いとるんじゃ! 何を食べても嗅ぎつけてしまうわい!」
「まぁまぁ美春ちゃん、怒らんと。うちのお土産も芋じゃけぇ、ふかしたら匂いがしてしまうわ」
「食堂をこっそり借りたらバレんわい。次の帰省組が帰るまでには、食べ切らんといかんねぇ」
「ほんで、他のみんなは何を持たされたん?」
舌舐めずりする美春の前に、それぞれの土産が披露された。干物の周りに芋、桃、枇杷に饅頭が裁縫机いっぱいに広げられ、少女たちの瞳が朝日を浴びた川面のように煌めいていく。
「山のようじゃ……食べ切れるかねぇ」
「せっかく貰うたんじゃ、食べ切らなぁもったいないわ」
「いっぺんに食べんでもええわ、足が早いのから食べよう」
すると美春が「もう我慢出来ん!」と枇杷に手を伸ばした。はやる気持ちが抑えきれず、おぼつかない皮剥きに手を重ねて夏子が制した。
「もうちょい辛抱してや、千秋ちゃんを待とう」
美春はシュンと萎んで、手にした枇杷をそっと戻した。
「……ほうね、みんなも我慢しとったけぇ、抜け駆けはいかんわ」
「怒っとるわけじゃないんよ、みんなで食べた方が美味しいじゃろう?」
そう言ったものの、立ちはだかる美味の山から視線を逸らすことなど出来やしない。瞳の輝きは次第に取り戻されていき、溢れる生唾を恨めしく飲み込んだ。
「千秋ちゃん、まだかねぇ」
「比婆を越えた島根じゃけぇ、遅うなるわ」
「汽車も乗り継がんといかんじゃろう」
そのとき、少女たちに冷たい風が吹いた。一瞬にして青ざめて、誰もが視線を机の下へと落としている。
そして、憚られていたひと言を、美春がぽつりとつぶやいた。
「……千秋ちゃん、帰ってくるよねぇ」
少女たちは顔を上げて願いに縋った。口を結び、瞳を潤ませている美春も、同じ思いを抱えている。
「帰ってくるよ! うちら、友達じゃけぇ!」
「千秋ちゃんは仕事も勉強も大好きじゃ! 心配せんでも帰ってくるわ!」
「ほうね! 近頃は布団で泣いとらん……」
時が止まった。部屋には厚い雲が重苦しく垂れ込めて、みるみる温度が下がっていく。
「……泣いとったんね……」
「夏子ちゃんが、すぐ慰めとったけぇ。知らんのも仕方ないわ」
親元を離れた寮生活も四か月が過ぎ、すっかり環境に慣れていったと思った矢先。千秋は親への想いが強くなっていた。
盆休みに帰省出来ると知ってから、昼間はそれを楽しみにして過ごしていたが、募る想いを月が照らし出してしまっていた。
次の瞬間、希望の扉が開け放たれた。
くたびれた笑顔を見せる千秋が、そこにいた。
少女たちは当たり前の日常が奇跡なんだと気づかされて、言葉を失い固まっていた。
「ごめんねぇ、汽車が遅れとったけぇ……って、何ね? 幽霊でも見たような顔をして。脚なら、ちゃんとあるよ?」
ポカンとした美春の顔が引きつって、皺くちゃに歪んでいった。次にはそれを隠すように、頬を伝う雫を拭うように、千秋の胸へと飛び込んだ。
「何ね、美春ちゃん。そんなに寂しかったん?」
手間のかかる妹を慈しむように、千秋は美春の頭を撫でた。夏子も、他の少女たちも呆れながら微笑んでいる。
「さっきまで枇杷を食べようとしとったんが、嘘のようやね」
瞳を霞ませる美春をそっと離した千秋は、裁縫机に目を丸くした。
「わぁ、えらいことじゃね。うちもお土産があるんよ……ありゃ、お饅頭が重なってしもうた」
「あちゃあ、うちのや。みんな遠いから、土産にせんと思うたんに」
「夏子ちゃんは呉じゃけぇ、近くてええね。江波の造船所に呼ばれるんじゃないかね?」
夏子の表情が一瞬曇った。光を求めて逸らした視線は、そばに座った美春と千秋に向けられた。
「……ううん、ええわ。ここがうちらの、みんなの家やさかい」
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
7
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる