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昭和二十年
第63話・朝
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呼びもしないのに集まった男子たちに囲まれて運転するのは千秋であった。ハンドル操作を観察されて「上手いもんじゃのう」「仕事はいつ終わるんじゃ?」「終わったら、わしらとカフェでも行かんか」と茶々を入れられるのが、もはや日課となっている。
運転に集中しているのと、もうすっかり慣れてしまったので、千秋は返事もせずにツンと澄まし顔である。これがひとたび電車を降りれば困り顔で瞳を潤ませオロオロとするのだから、人というのはわからない。
「こら、不良学生。運転士さんの邪魔をするな、憲兵さんに突きだすぞ」
人垣を掻き分け払い除け、運転台のすぐそばに落ち着いたのは船舶司令部の井上だった。救世主かと思えば同類、千秋はやれやれと呆れるばかりである。
「上官がお菓子をたんまり溜め込んどるわ。近々みんなで遊びに来れんかのう?」
「うちらは、そんな暇じゃあないんです」
「石鹸は足りとるんか? そろそろ、無くなりはせんかね?」
「ありがとうございます、大事に使わせてもろうてます」
千秋のつれない態度に、今度は井上がやれやれといった顔である。
「冷たいのう……帝国陸軍船舶司令部一同、紳士じゃろうが」
「『運転士の邪魔をするな』言うたのは、どなたですか?」
痛いところを突かれた井上は、小さくうめいて口をつぐんだ。すると千秋がブレーキハンドルを回し、スルスルと電車を停めた。
「学生さんが降りますけぇ、ちょっと退いてくれませんか」
井上は身体を反って、勝ち取った陣地を学生に譲った。集札する車掌も女学生だが、幼すぎるし垢抜けないので目を引かなかい。不機嫌そうに前を見据える千秋を横目に見て、頬が緩むのを抑えられない。
チン、チン。
車掌の合図でブレーキを緩め、軽くなった電車を加速させる。空席がちらほら目につくが、井上はその場を離れず手帳を開いた。
「今度、いつ休みなんじゃ? わしと休みが合うんは、いつかのう」
「うちのこと、諦めたんと違いますか?」
凍てついた言葉で刺しても井上は引かず、ぐいと迫る。
「確かに、安田さんはどう足掻いても無理じゃ。森島さんは気持ちに気づいとらんけぇ、騙し討ちするようで気が引ける。ほんでも吉川さんなら、芽があると思うてのう」
「そんなん、ないです」
「……髪留め、鉢巻の下の」
瞬間、千秋は真っ赤に染まった。揺れる視線を必死になって線路に留めて、ハンドルを強く握りしめた。井上はほくそ笑み、追い討ちをかける。
「わしの見立てじゃあ、真面目な男じゃ。しかも若い、いや若すぎる。学生さんかのう?」
「……見たんですか?」
「いいや、見ておらんが、わしにはわかる。高くはないが、その分だけ真剣に選んだ、とんぼ玉の髪留めじゃ」
彼の気持ちを見透かされ、千秋は全身が燃えるように熱くなった。井上は想い人の詮索に夢中である。
「何軒も回って、ない袖降って、どんなが似合うかえらい悩んだはずじゃ。そうじゃのう……わしが選ぶなら茜色──」
「やめてください!」
停止合図に関わらず、千秋は電車を停留所へと滑り込ませ、井上を睨みつけて扉を開けた。
「降りてください、迷惑です」
「すまんすまん、降ろさんでくれ。大事な職場に遅刻してしまうわい」
「ほんなら、大人しく座っていてください」
ようやく井上は凍てつく車内をすごすご歩き、小さくなって席につく。千秋が車掌に目配せし、出発の合図を送るよう求めた。
チン、チン。
加速して、先頭に立つ千秋から悶々とした空気が流れ、狭い車内はピリピリとひりついた。井上は肩をすくめてシュンとして、ピンと伸びた千秋の背中を恨めしそうに見つめるのみだった。
「向宇品、終点でございます」
乗客が降り、それぞれの勤め先へと散り散りになる。折り返し時間があるようで、千秋はホッと緊張を解くと、足元に忍ばせていた竹筒ふたつを手に取って電車を降りた。
「はい、お疲れ様」
「お疲れ様でした」
折り返しの準備を済ませた車掌に竹筒ひとつを手渡して、示し合わせたように蓋を開ける。ふわっと湯気が立ち上り、微かに香るほのかな甘さがふたりの鼻をくすぐった。
「そりゃあ、何じゃ?」
と、尋ねたのは井上である。まだいたのかという怪訝な顔で返事をしたのは、車掌を勤めた少女であった。
「お粥です。朝早いときは、点呼のときに渡してくれるんです」
「ほう、そんなん持っとったかのう」
「うちは一年生じゃけぇ、いつからあるんかは、知りません。吉川先輩、朝粥はいつから始まったんですか?」
千秋は視線を泳がせて、口をあわあわ開くだけで言葉を選べずにいた。ついさっきまでの強気の態度が嘘のようである。そこへ一台の自動車が停まり、陸軍将校が降りてきた。
「おう、井上! 朝早うから女学生に声掛けとは、盛んじゃのう!」
「はっ! おはようございます!」
これまた別人のように背筋を反らし敬礼をする井上に、車掌は頭を下げながら呆れ返った。
「君は……吉川さんか、久しぶりじゃのう。井上が無礼を働いておらんか?」
「先ほどは、とんだ失礼をしました」
と、真っ赤な顔から湯気を立て、頭を下げたのは千秋であった。運転中のやり取りを、今になって恥じたのだ。が、このままでは将校に問い詰められて今日一日中どやされる、と思った井上は慌ててペコペコと頭を下げた。
「いやいや、わしが強引に誘ってしまったのが、いかんのじゃ。すまんかった」
部下の非礼と失策の尻拭いは上官の務めだと、将校は井上の頭を押し下げた。
「部下が、お嬢さんに大変な失礼をしたようで。お詫びをしたいので、お暇なときに船舶司令部に来てはくれんかのう」
千秋は声を裏返し、延髄反射的に「はい!」と答えた。それを聞いた将校が満足そうに自動車へ戻ると、井上はそっと胸を撫で下ろし、船舶司令部へと向かっていった。
「勝手に約束してしまった……美春ちゃんと夏子ちゃんに、何て言うたらええんじゃろうか」
千秋はサーッと青ざめて、湯気立つ竹筒に縋りつき、ヘナヘナとその場に座り込んだ。
本当に人というのはわからないと、車掌は苦笑して粥を啜った。
運転に集中しているのと、もうすっかり慣れてしまったので、千秋は返事もせずにツンと澄まし顔である。これがひとたび電車を降りれば困り顔で瞳を潤ませオロオロとするのだから、人というのはわからない。
「こら、不良学生。運転士さんの邪魔をするな、憲兵さんに突きだすぞ」
人垣を掻き分け払い除け、運転台のすぐそばに落ち着いたのは船舶司令部の井上だった。救世主かと思えば同類、千秋はやれやれと呆れるばかりである。
「上官がお菓子をたんまり溜め込んどるわ。近々みんなで遊びに来れんかのう?」
「うちらは、そんな暇じゃあないんです」
「石鹸は足りとるんか? そろそろ、無くなりはせんかね?」
「ありがとうございます、大事に使わせてもろうてます」
千秋のつれない態度に、今度は井上がやれやれといった顔である。
「冷たいのう……帝国陸軍船舶司令部一同、紳士じゃろうが」
「『運転士の邪魔をするな』言うたのは、どなたですか?」
痛いところを突かれた井上は、小さくうめいて口をつぐんだ。すると千秋がブレーキハンドルを回し、スルスルと電車を停めた。
「学生さんが降りますけぇ、ちょっと退いてくれませんか」
井上は身体を反って、勝ち取った陣地を学生に譲った。集札する車掌も女学生だが、幼すぎるし垢抜けないので目を引かなかい。不機嫌そうに前を見据える千秋を横目に見て、頬が緩むのを抑えられない。
チン、チン。
車掌の合図でブレーキを緩め、軽くなった電車を加速させる。空席がちらほら目につくが、井上はその場を離れず手帳を開いた。
「今度、いつ休みなんじゃ? わしと休みが合うんは、いつかのう」
「うちのこと、諦めたんと違いますか?」
凍てついた言葉で刺しても井上は引かず、ぐいと迫る。
「確かに、安田さんはどう足掻いても無理じゃ。森島さんは気持ちに気づいとらんけぇ、騙し討ちするようで気が引ける。ほんでも吉川さんなら、芽があると思うてのう」
「そんなん、ないです」
「……髪留め、鉢巻の下の」
瞬間、千秋は真っ赤に染まった。揺れる視線を必死になって線路に留めて、ハンドルを強く握りしめた。井上はほくそ笑み、追い討ちをかける。
「わしの見立てじゃあ、真面目な男じゃ。しかも若い、いや若すぎる。学生さんかのう?」
「……見たんですか?」
「いいや、見ておらんが、わしにはわかる。高くはないが、その分だけ真剣に選んだ、とんぼ玉の髪留めじゃ」
彼の気持ちを見透かされ、千秋は全身が燃えるように熱くなった。井上は想い人の詮索に夢中である。
「何軒も回って、ない袖降って、どんなが似合うかえらい悩んだはずじゃ。そうじゃのう……わしが選ぶなら茜色──」
「やめてください!」
停止合図に関わらず、千秋は電車を停留所へと滑り込ませ、井上を睨みつけて扉を開けた。
「降りてください、迷惑です」
「すまんすまん、降ろさんでくれ。大事な職場に遅刻してしまうわい」
「ほんなら、大人しく座っていてください」
ようやく井上は凍てつく車内をすごすご歩き、小さくなって席につく。千秋が車掌に目配せし、出発の合図を送るよう求めた。
チン、チン。
加速して、先頭に立つ千秋から悶々とした空気が流れ、狭い車内はピリピリとひりついた。井上は肩をすくめてシュンとして、ピンと伸びた千秋の背中を恨めしそうに見つめるのみだった。
「向宇品、終点でございます」
乗客が降り、それぞれの勤め先へと散り散りになる。折り返し時間があるようで、千秋はホッと緊張を解くと、足元に忍ばせていた竹筒ふたつを手に取って電車を降りた。
「はい、お疲れ様」
「お疲れ様でした」
折り返しの準備を済ませた車掌に竹筒ひとつを手渡して、示し合わせたように蓋を開ける。ふわっと湯気が立ち上り、微かに香るほのかな甘さがふたりの鼻をくすぐった。
「そりゃあ、何じゃ?」
と、尋ねたのは井上である。まだいたのかという怪訝な顔で返事をしたのは、車掌を勤めた少女であった。
「お粥です。朝早いときは、点呼のときに渡してくれるんです」
「ほう、そんなん持っとったかのう」
「うちは一年生じゃけぇ、いつからあるんかは、知りません。吉川先輩、朝粥はいつから始まったんですか?」
千秋は視線を泳がせて、口をあわあわ開くだけで言葉を選べずにいた。ついさっきまでの強気の態度が嘘のようである。そこへ一台の自動車が停まり、陸軍将校が降りてきた。
「おう、井上! 朝早うから女学生に声掛けとは、盛んじゃのう!」
「はっ! おはようございます!」
これまた別人のように背筋を反らし敬礼をする井上に、車掌は頭を下げながら呆れ返った。
「君は……吉川さんか、久しぶりじゃのう。井上が無礼を働いておらんか?」
「先ほどは、とんだ失礼をしました」
と、真っ赤な顔から湯気を立て、頭を下げたのは千秋であった。運転中のやり取りを、今になって恥じたのだ。が、このままでは将校に問い詰められて今日一日中どやされる、と思った井上は慌ててペコペコと頭を下げた。
「いやいや、わしが強引に誘ってしまったのが、いかんのじゃ。すまんかった」
部下の非礼と失策の尻拭いは上官の務めだと、将校は井上の頭を押し下げた。
「部下が、お嬢さんに大変な失礼をしたようで。お詫びをしたいので、お暇なときに船舶司令部に来てはくれんかのう」
千秋は声を裏返し、延髄反射的に「はい!」と答えた。それを聞いた将校が満足そうに自動車へ戻ると、井上はそっと胸を撫で下ろし、船舶司令部へと向かっていった。
「勝手に約束してしまった……美春ちゃんと夏子ちゃんに、何て言うたらええんじゃろうか」
千秋はサーッと青ざめて、湯気立つ竹筒に縋りつき、ヘナヘナとその場に座り込んだ。
本当に人というのはわからないと、車掌は苦笑して粥を啜った。
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