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その1
☆☆☆
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「ねえ、さっき大沼君にファイル取ってもらった時、なんかいいにおいしたのよ。さすがにドキッとしちゃった」
自席にカバンを置いて、早速汗ふきシートを手にトイレに向かう俺の耳を引っ張る、「大沼君」という単語。トイレの隣にある給湯室で、こそこそ話す声。
「女いるんじゃないの? あんな優良物件、大学の時点で誰かにがっちり確保されててもおかしくないじゃん」
応える声は、俺の斜め前の営業事務取りしきってる、アラフォー独身女子か。「優良物件」という言葉にモヤモヤする。
そりゃ、あいつは「優良物件」には違いない。誰にでも親切で、イケメンでタッパもあって、服にも金をかけてそうで。その上実家は人形町で、本人も人形町で一人暮らしだから、実家が裕福でマンションの一つ二つ持ってるってことは充分考えられる。大企業ならともかく、下町の中小企業って感じのうちにいて、そうそうこんな男に出会える機会はねえだろう。
でも給湯室の雑談でだって、人を「優良物件」とか呼ぶヤツに大沼を取られたくねえ。
俺は手に持った汗ふきシートを握りしめながら、まだ続いている給湯室のくだらねえ話に抗議するようにわざと乱暴に押戸を開けて音を立てさせ、男子トイレに入った。
「は? お前も行くのかよ?」
定時の六時。俺は思わず、左隣の席の寺田秀司にとんがった声を投げていた。ウキウキと仕事を切り上げ、PCを閉じてさっさと上がろうとしていたら、寺田が俺も行きますって言うじゃねえか。いつの間にそんなことになったんだよ?
「そんな露骨に嫌そうな顔しないで下さいよ~。俺も大沼さんと飲んでみたいんスよ~」
寺田は今年新卒で入ってきた後輩だ。新卒研修を終えて営業に配属になり、まずは営業部で扱う書類の処理とか、事務仕事を中心に覚えてもらっている。
「あいつは飲めねえから、飲み屋には行かねえぞ」
大沼とは、会社のすぐ近くのイタメシ屋に行くことが多い。俺はガンガン飲める方だけど、酔っぱらって大沼とまともにしゃべれなくなったり、話した内容を覚えてないとか、もったいねえ。それに、カッコ悪いとこは見せたくない。勝手に、二人でメシに行くのはデートだと思ってるから、なおさらだ。
「いや、寺田君も飲めるクチなら、俺は居酒屋でいいよ」
カバンも持って、自分の席から俺達のところに来た大沼の、穏やかで柔らかい声。ふわりとかすかに、いいにおい。給湯室の会話を思い出して、ちょっと唇がゆがんだ。
「寺田君、樹に自分も行くって言ってなかったの? 頼んでおいたのに」
おっとり首をかしげる大沼。一番大きい営業部でも十人ぐらいしかいない会社だから、俺達の会話は奥の広報部の方まで聞こえていたんだろう。俺は恥ずかしくなり、無言で寺田をにらむ。
俺達の横を、お疲れ様で~す、と言いながらみんな続々と帰っていく。給料日直後の金曜日だから、予定があるに違いない。
「すんません、サプライズで」
「そんなサプライズ、いらねえっちゅうの」
へらっと笑ってみせる寺田に本気でイラついて、俺はドスがきいた声でつぶやいた。
「なんかごめんね、樹。俺も寺田君と話してみたくて」
寺田と話してみたい、だあ? 心の端が嫉妬で焦げる感覚を無視して、俺は少し申し訳なさそうな大沼に、笑顔を作った。ここは心が広い男でいるべきだ。
「そういうことなんで。駅前の個室居酒屋なんてどうスか?」
なにがそういうことなんで、だ! 先に立って歩き出す寺田の背中に内心毒づきながら、階段を下りて会社を出る。大沼を真ん中にして、三人並んで暗い路地から大通りに出た。
自席にカバンを置いて、早速汗ふきシートを手にトイレに向かう俺の耳を引っ張る、「大沼君」という単語。トイレの隣にある給湯室で、こそこそ話す声。
「女いるんじゃないの? あんな優良物件、大学の時点で誰かにがっちり確保されててもおかしくないじゃん」
応える声は、俺の斜め前の営業事務取りしきってる、アラフォー独身女子か。「優良物件」という言葉にモヤモヤする。
そりゃ、あいつは「優良物件」には違いない。誰にでも親切で、イケメンでタッパもあって、服にも金をかけてそうで。その上実家は人形町で、本人も人形町で一人暮らしだから、実家が裕福でマンションの一つ二つ持ってるってことは充分考えられる。大企業ならともかく、下町の中小企業って感じのうちにいて、そうそうこんな男に出会える機会はねえだろう。
でも給湯室の雑談でだって、人を「優良物件」とか呼ぶヤツに大沼を取られたくねえ。
俺は手に持った汗ふきシートを握りしめながら、まだ続いている給湯室のくだらねえ話に抗議するようにわざと乱暴に押戸を開けて音を立てさせ、男子トイレに入った。
「は? お前も行くのかよ?」
定時の六時。俺は思わず、左隣の席の寺田秀司にとんがった声を投げていた。ウキウキと仕事を切り上げ、PCを閉じてさっさと上がろうとしていたら、寺田が俺も行きますって言うじゃねえか。いつの間にそんなことになったんだよ?
「そんな露骨に嫌そうな顔しないで下さいよ~。俺も大沼さんと飲んでみたいんスよ~」
寺田は今年新卒で入ってきた後輩だ。新卒研修を終えて営業に配属になり、まずは営業部で扱う書類の処理とか、事務仕事を中心に覚えてもらっている。
「あいつは飲めねえから、飲み屋には行かねえぞ」
大沼とは、会社のすぐ近くのイタメシ屋に行くことが多い。俺はガンガン飲める方だけど、酔っぱらって大沼とまともにしゃべれなくなったり、話した内容を覚えてないとか、もったいねえ。それに、カッコ悪いとこは見せたくない。勝手に、二人でメシに行くのはデートだと思ってるから、なおさらだ。
「いや、寺田君も飲めるクチなら、俺は居酒屋でいいよ」
カバンも持って、自分の席から俺達のところに来た大沼の、穏やかで柔らかい声。ふわりとかすかに、いいにおい。給湯室の会話を思い出して、ちょっと唇がゆがんだ。
「寺田君、樹に自分も行くって言ってなかったの? 頼んでおいたのに」
おっとり首をかしげる大沼。一番大きい営業部でも十人ぐらいしかいない会社だから、俺達の会話は奥の広報部の方まで聞こえていたんだろう。俺は恥ずかしくなり、無言で寺田をにらむ。
俺達の横を、お疲れ様で~す、と言いながらみんな続々と帰っていく。給料日直後の金曜日だから、予定があるに違いない。
「すんません、サプライズで」
「そんなサプライズ、いらねえっちゅうの」
へらっと笑ってみせる寺田に本気でイラついて、俺はドスがきいた声でつぶやいた。
「なんかごめんね、樹。俺も寺田君と話してみたくて」
寺田と話してみたい、だあ? 心の端が嫉妬で焦げる感覚を無視して、俺は少し申し訳なさそうな大沼に、笑顔を作った。ここは心が広い男でいるべきだ。
「そういうことなんで。駅前の個室居酒屋なんてどうスか?」
なにがそういうことなんで、だ! 先に立って歩き出す寺田の背中に内心毒づきながら、階段を下りて会社を出る。大沼を真ん中にして、三人並んで暗い路地から大通りに出た。
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