蓬莱皇国物語Ⅵ~浮舟

翡翠

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 浅香

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 7月31日の昼過ぎに薫を乗せた車が御園生邸の玄関に横付けされた。成美が最初に降りてドアを開け、先に榊が降りて頭を垂れた。薫が顔を輝かせながら降りた。 

「おかえり、薫」 

 武の言葉に薫がもっと笑顔になった。 

 御園生邸は当然ながら薫が小等部へ入学するまで、生活した御影家の屋敷よりも広い。 

「ようこそおいでくださいました。御園生当主、有人でございます」 

「お待ち申し上げておりました。御園生 小夜子でございます」 

 居間で出迎えた二人に薫はぺこりと頭を下げた。 

「薫です」 

「薫、お前は条件が満たされたら、俺や夕麿と同じく表向き御園生の養子って事になる」 

「薫さま、お二方はあなたのおたあさんとおもうさんになります」 

「おたあさん…おもうさん…本当に?」 

 目を見張る薫に武が言った。 

「みんなのお父さんとお母さんだ。義勝兄さんと雅久兄さん。それに弟の希だ」 

「弟?」 

「希、新しいお兄さまですよ、ご挨拶なさい」 

 武の異父弟 希は昨年の春に、貴族の為の謂わば紫霄学院が裏ならば、表の学院として存在する皇立の学校の初等部に入学していた。

「希です」 

 彼は少しずつ実の兄である武と自分の立場が、違うのを何となく理解しつつあった。だから新しい兄と紹介された薫に対する両親の態度で、彼もまた武と同じく立場が違うらしいと認識した。 

 御影家では彼はあくまでも預かった貴人だった。けれど御園生家は違う。当主夫人である小夜子が武の実母であった事もあって、武は家族で居続ける事を望んだ。紫霞宮家が立った今でも武はそれを望み続けていた。 

 朔耶が周に聞かされた話によると武の父である、前の東宮の急な崩去で小夜子は隠れて武を産み育てた。そして幼き日に実母を失い義母に虐待されて実父にまで裏切られた夕麿。 

 両親の離婚で紫霄に捨てられた義勝。実母が旧都の芸妓だった雅久は、引き取られた戸次家で父の正室と異母兄に虐待を受けて育った。 

 当主有人はまだ若いうちに両親を相次いで失い、最初の結婚も失敗に終わった。小夜子と出会い武の乳部となる事で、紫霄に閉じ込められた子供たちと出会った。気がつけば大家族になって行事の都度に人が集って賑やかになる。希という実子も得た。優秀な人材も紫霄から得られる。有人が武に関わって一番幸せになった人間かもしれなかった。 

 薫はそこにいる人々を見回した。それぞれが笑顔で自己紹介をして行く。その中に朔耶がいるのを見付けて薫はぷいと横を向いた。朔耶は言葉を発する事ができなかった。

 ところがそれを夕麿が見ていた。 

「失礼を致します」 

 夕麿はそう言うといきなり、薫を抱えて尻を叩いた。 

「自分よりも立場の弱い者に、そのような態度をとるのは上に立つ者として恥ずべき事です!」 

 驚いた朔耶は周を見た。武が苦笑した。 

 涙目の薫はとっさに周囲に助けを求めるが、誰も夕麿を止めたりしない。夕麿が庶民育ちの武を如何に教育したか、ここにいる全員が知り過ぎる程知っているのだろう。 

「薫、ごめんなさいって、夕麿と朔耶に謝らない限りは許してもらえないぞ?」 

 武がきっぱりと言う。 

 大勢の前で叱られて、恥ずかしい思いをするのもちゃんと意味がある。残念ながら三日月と月耶に阻まれて、天羽 榊はここまで出来なかったようだ。朔耶は自分がとうとう両親に抗えなかった事実を、今更ながらに後悔していた。 

 武が夕麿に教えられたように皇家の人間としての責任と義務を、この家できっちりと学んで欲しいと願った。 

「嫌だ…いやだあ…!!」 

 その様子に思わず希が小夜子の後ろに隠れた。希もこの家で夕麿が一番厳しい事を知っている。 

 薫は夕麿の腕の中でもがくがそれくらいではびくともしない。 

「薫さま、あなたのお行儀の悪さはそのまま武さまの恥になります。ご自分のわがままや無分別があなたを大切に思ってくださる方に、迷惑をかけると何故わからないのです!?」 

 武もよく夕麿に逆らった。だがそれは自分に確固たる意志があったからなのだそうだ。誰かの為のわがままだったという。それに比べたら薫は自分の快不快で行動してしまう。今は愛らしさと三日月と月耶のガードで咎める者は少ないだろう。 

 薫は来年は生徒会長にならなければいけない。こんな状態で生徒たちが、彼をリーダーとは認めない可能性もある。 

 最も身分高き者。薫にはその重さも辛さもわかってはいない。朔耶は彼の未来を憂いた。 

 ようやく下ろされた薫は床に座って声を上げて泣いた。高等部の一年生だとは思えないような幼い有様だった。

「薫さま。反省なされるまで本日はお部屋でお勉強をしていただきます」 

 夕麿の容赦のなさに薫は思いっ切り睨み返した。だが気迫では到底夕麿には勝てない。夕麿の合図で絹子が薫を連れて行った。 

「やれやれ、榊が手をやく筈だ」 

「申し訳ございません」 

 朔耶は薫のあの状態の責任の一端は自分にもあると思っていた。 

「朔耶の責任じゃないよ?命令した者がいた筈だから。下河辺に連絡して新学期からは、御影 三日月と月耶を特別室の隣から出そう」

 武の判断に夕麿が賛同した。

「榊、ご苦労さまでした。明日の用意もあるでしょう」

「しかし、幸久君を迎えに行った雅久がまだ戻って来ておりません」

「一人は秘書がいるから何とかなるよ。そろそろちゃんと役に立ってもらわないとな」

「武…」

「文句はなしだ、夕麿」

 夕麿の言葉を武が遮った。榊の後任の秘書に武が連れて来たのは夕麿の異母弟 六条 透麿ろくじょうとうまだった。入社一年目で武が引き抜いて来たのだ。

 だが夕麿は自分の秘書に彼が来たのが気に入らない。

 透麿は夕麿と仲違いした後、通宗の助けもあって特待生になった。そして中等部生徒会長を経て、高等部生徒会長も務めた。国内の国立大に進み、在学中に幾つかの資格も取得している。この努力は六条の企業を継ぎたいと思っているからに違いない。彼を鍛えて育てるには、夕麿が一番の適任者だと武は考えていた。彼自身が私憤を捨てて一企業人としての責任を自覚するならば、透麿は必ず六条の企業の経営陣に名を連ねられると考えていた。 

「夕麿、時間だ。行くよ?」 

 康孝と拓真が二人に従った。 

 雫、貴之、清方の姿はない。雫はある事項で単独で動いていた。貴之は雫が不在の間、特務室を預かっている為に動けない。 

 御園生邸は成美と間部 岳大が常駐する。武と夕麿の移動の警護は、貴之の父良岑 芳之が手配したSPが行う事態になっていた。 

 不安と苛立ちを全員が噛み締めているようだった。一本の矢が安穏無事な生活を送っていた彼に再び現れた不穏な足音が、どこか遠くで響いている音が朔耶にも聴こえるような気がした。薫を紫霄の特別室に返して、知らぬ顔をすれば平穏は取り戻せるかもしれない。だが彼ら全員の矜持がこれを許さなかった。 


 厳しく叱られたのも尻を叩かれたのも、誰も助けてくれなかったのも薫には初めての経験だった。榊も厳しいが三日月と月耶が庇ってくれる。第一、叩かれる事まではなかった。夕麿には躊躇いも遠慮もなかった。

 薫には自分の行為の何がいけないのか、それが理解出来ない。

 上に立つ者の責任と義務。

 夕麿はそう言った。けれど今までは誰も教えてくれなかった。

 用意された部屋は寮よりは狭いが、落ち着いた雰囲気の部屋だった。衣類は何も持って帰って来なくて良いと言われて薫は、教科書やらPCなどの勉強道具だけ持って来た。

 膨れっ面のままに部屋の中を見て回る。クローゼットにはたくさん衣類があった。バスルームもベッドルールも、きちんと整えられていた。調度品も趣味の良いものが揃えられている。これらは皆、夏休みの20日間に薫が快適に過ごせるようにと、小夜子が文月と相談して整えたものだった。

 武と夕麿が住む離れにも近い。

 不意にドアが叩かれた。すぐにドアが開かれ文月がワゴンを押して入って来た。後から朔耶と希が入って来た。

「薫兄さま、お茶しよう」

 朔耶にしかめっ面をしたが横から希が声をかけた。周囲が大人ばっかりの状態で育った希は、まだ高校生になったばかりの薫が兄になるのを楽しみにしていた。ちょこんと薫の横に座った。

「朝から武兄さまがね、キッチンで焼いてたんだよ」

「武兄さまが…?」

「うん、朝から焼いてたんだ。自分は忙しいから食べられないのにね」

「忙しい?」

「もうお仕事に武兄さまも、夕麿兄さまも行っちゃったよ?」

「薫の君。お二方はあなたをお迎えする為に、スケジュールを調節されたのです」

「私の為…?」

「ええ。家族で出迎えるのが当たり前だから、そう仰ってました」

「あのね、夕麿兄さまが叱るのは本当に悪い事をした時だけだよ。本当はとても優しい方だから。それに今は…ちょっとね…」

 そう言って希は顔を曇らせた。

義兄あにが…護院 清方がストーカーに連れ去られたのです」

「え!?」

「成瀬さんが必死になって探していらっしゃいます」 

「清方先生は夕麿兄さまの従兄。夕麿兄さまは物凄く心配してるんだ」 

「周にとっても義兄は大切な身内のような方。心配で喉を通らない食事を、無理やりに摂っています」 

 それだけではなかった。 

 周は唯一、犯人の多久 祐頼たくすけよりを見知っている人間だった。それ故に夜もうなされて飛び起きる。朔耶は恐怖に震える周を抱き締めて、夜を明かす日々が続いていた。 

「武兄さま…また、発作を起こさなきゃ良いけど…」 

 スプーンでプリンス・オブ・ウェールズをかき混ぜながら希が顔を曇らせて言った。屋敷内がピリピリしている。小学生の希には身の置き所がない。 

「その発作って…どのようなものですか?」 

 朔耶も言葉しか知らない。 

 卒業式の後で薫が狙われた。だからずっと御園生邸に滞在しているが、その後に軽い発作を起こした武は完全に離れの部屋に隔離状態だった。 

 6月に引き続いての発作だった為、仕事の予定が立て込んでいた。夕麿はそれを解消する為に、連日深夜まで社に詰めていた。榊を薫の教育係にした為に雅久もそれに従った。だから武の看病は多治見 絹子が付きっきりで行っていた。 

「僕にもよくわからない…でも発作を起こした武兄さまには夕麿兄さまやおたあさん、雅久兄さまや絹子さんくらいしか近付けないみたいなんだ」 

 発作の原因のあらましは朔耶も周から聞いてはいた。 

 現在の所、治療法はない。発作が治まるのを見守って待つしかない。 

 周はそう言っていた。生命を狙われ周囲を守ろうとした結果だと言う。それを考えると朔耶は、薫の今の状態を憂いてしまう。 

「朔耶さんは、お医者さまになるんだよね?」 

 希の真っ直ぐな視線が朔耶をみつめていた。 

「そのつもりです」 

「周先生は『そうごうい』っていうので、清方先生と義勝兄さまは『せいしんかい』ってので…保先生は『げかい』。みんな、武兄さまを治すお医者さまじゃないんだって。 

 朔耶さん…武兄さまを治すお医者さまになって。夕麿兄さまが泣くんだ。武兄さまを助けてあげれない。自分の所為だって。 

 義勝兄さまがどんなに慰めても、夕麿兄さまは悲しんで泣くんだ…」 

 普段の武と過ごす時間が満ち足りていればいる程、発作を起こした姿を見ているのが辛いのだろう。武の発作の話をする周も辛そうな顔をする。関わった全員が同じ想いを抱くのであろうがが、夕麿の後悔の念は伴侶であるだけに一入ひとしお強いのは当たり前の事だとも感じられた。きっと 幸せでいるからこそ辛く悲しい事実なのだ。 

「夕麿兄さまとの結婚の10周年記念日だから。おたあさんやみんなが、お祝いパーティーをするって言ってるのに……」 

 希は小さいなりに兄の病を心配していた。そして大好きな夕麿が苦しんだり悲しんだりするのが悲しかった。 



 夕麿が倒れた。 

 その知らせが御園生邸に入ったのは、清方が無事に救出された連続のすぐ後だった。小夜子と絹子はずっと夕麿の身体を気にしていた。彼が武の分も引き受けて働き詰めだったのを心配していたのだ。 

 40度近い熱があると言う。診察をした周が即刻入院をさせた。武が回復したので邸に戻っていた絹子が急いで病院に駆け付けた。 

 武が今度は夕麿の不在を埋めなければならなくなった。誰よりも早く駆けつけて看病したいはずの彼は身動きができなくなった様子だった。 

 御園生邸は一挙に慌ただしい空気に包まれた。 

 薫はその中で何も出来ず、希と一緒に部屋にいた。 

「夕麿兄さまは働き過ぎなんだよ」 

 薫の部屋で希は泣きながらそう言った。この幼い子を慰める術は朔耶にもわからない。 

「どうして?」 

 仕事というもの自体が薫にはわからない。 

「薫兄さまは元気?すぐに病気になったりしない?」 

「うん、元気だけど…風邪とかにならないし…」 

「じゃあ、大きくなったら夕麿兄さまや武兄さまを助けて!僕が大人になるまで兄さまたちと会社でお仕事して!」 

 薫のように何も知らずに育って来たわけではない。希は忙しい二人をずっと見て来た。夕麿は音大でピアノ講師もしている。武が体調を崩していた時に、もう一人欲しいと言っていたのを希は覚えていた。 

 秘書ではなく武と夕麿の代理が出来る人間が欲しい。最初は天羽 榊を武は考えていたようだった。だが彼は薫の教育係として出向してしまった。雅久は社に専念出来ない立場にいる。透麿は感情が先に立って無能としか言えない状態で、 相良 通宗は補佐役に向いている。

 周の説明に朔耶は溜息しか出なかったのを記憶している。 

 武が深夜になって帰宅した。 

 本当は絹子と交代して夕麿の看病がしたかっただろう。だが周にダメ出しをされて見舞うだけで帰って来たと呟いた。夕麿が倒れたのを聞いて休暇中の榊と通宗が、旧都への旅行からから戻ろうとするのを止めたばかりだそうだ。

  ロサンゼルスに電話をかけて藤堂 影暁に救いを求めた。彼は麗と共に急遽きゅうきょ帰国してくれると言う。 

 武も余り無理が出来ないように見えた。ぐったりとして食事すら喉を通らない。見かねた義勝が彼を部屋へ抱き上げて運んで行った。 

 周がそのまま病院勤務を続けているので、朔耶は早々に部屋へ引き上げて来た。そこへ雅久が幸久を伴って尋ねて来た。 

「御用はなんでしょう?」 

 いぶかる朔耶に雅久は深々と頭を下げた。朔耶の実家である御影家も養家である護院家も、雅久の実家戸次家より遥かに格上なのだ。如何に相手が年下であっても身分差は変わらない。 

「朔耶さまにお願いがあって参りました」 

 朔耶は夕麿の再来を思わせる、優秀な生徒会長だったと、下河辺 行長から聞いての事だった。

「お身体に差し障りない範囲で構いませんので、お力をお貸しいただけないでしょうか?」

「それは…会社を手伝うという意味でしょうか?」

「はい。高子さまと久方さまには、朔耶さまがご承知くださいますならと、お許しをいただきました。周さまも大丈夫だと申されました。

 武さまが夕麿さまの分まで仕事を続けられますと、恐らくは近日中にお倒れになられます。私が極力、夕麿さまの分を受け持つつもりでおりますが、そうなると武さまのスケジュールを調節したり、面談に当たったりする者が必要になります」

 武は懸命に自力でやり遂げようとしているが、しわ寄せが必ず来る筈だと雅久は口にした。

「わかりました。社会勉強だと思ってやらせていただきます」

 雅久が頭を下げに来たくらいだ。余程の窮状なのだろう。

「幸久にも将来の為に手伝わせるのでよろしくお願いします。それと…この件を私がお願いしたと武さまには内緒にしてくださいませ」

 言えばまた気を遣ってストレスになるのだと彼は告げた。周から聞いている武の性格ならば……と朔耶も思い頷いた。 

「私が社会勉強にお願いしたという事にいたしましょう」 

「ありがとうございます。明日からお願い出来ますでしょうか?」 

「わかりました」 



 朔耶と幸久まで仕事に行ってしまい、薫は一人で屋敷に取り残された気分だった。希が側にいるが何と言ってもまだ小学生だ。大人だらけの中で育った分、大人びた子供ではあるが小学生は小学生でしかない。 

 朔耶は1日おき、幸久は毎日仕事へ行く。 

 8月11日。やっと清方と夕麿が退院して来た。簡単なお祝いがされ、御園生邸は賑やかになった。 

 薫はそこで不機嫌な顔をしている人物を見つけた。幸久に訊いてみると夕麿の異母弟だと言う。彼が不機嫌な顔をしている理由も訊いて、薫はここに初めて来た日の自分を思い出した。 朔耶に対する自分の姿を見ている気がした。いつまでもこんな風に拗ねていたら何をしても楽しくない。どこにいても一人ぼっちだと。不機嫌の理由はまるで違ってもやっている事は同じ。ましてや自分は『宮』なのだと。 

 薫はまず夕麿のところへ行った。 

「どうしました?」 

 優しい笑顔で話し掛けられて、薫は本当の意味であの日の夕麿の言葉を理解した。 

 上に立つ者として…の意味を。 

「ごめんなさい、夕麿兄さま…」 

 薫が何に謝罪したのか、わからない夕麿ではなかった。もっと優しい顔で薫の頭を優しく撫でた。 

「朔耶君にも謝って来なさい。ちゃんと仲直りするのですよ?」

「はい」 

 真っ直ぐに見上げる瞳には一点の曇りもなかった。 

 夕麿は思った。出逢った頃の武以上に薫は純粋で穢れがないと。薫は夕麿のそんな眼差しも知らずに朔耶へ近付いた。 

「朔耶」 

「薫の君?どうかなさいましたか?」 

 あれだけ無視して困らせたのに、朔耶も優しい笑顔だった。 

「あの…あのね、ごめんなさい。周先生にもごめんなさい」 

 つまらない独占欲で周を困らせた。自分の感情が恋とは違う。周囲のカップルの姿に、自分の感情との違いのようなものを薫は感じ始めていたのだ。 

「薫の君…ありがとうごさいます」 

「僕も感謝いたします」 

 揃って頭を下げ、顔を上げて視線を絡ませる。見つめているだけで温かみを胸に感じた。薫は二人に笑顔を返して、再び夕麿と武の側へ戻った。 

 今度は武が笑顔で薫の頭を撫でた。 

「ご褒美をやろう。明後日、夕方から水族館へ連れて行ってやる」 

「水族館…?」 

「魚がたくさん泳いでいるし、アシカやイルカ、ペンギンもいるぞ?」 

「武兄さま…よくわかりません」 

「では宿題にしましょう。PCで検索して調べておいてください、薫さま」 

「わかりました」 

 夕麿の言葉に満面の笑みを浮かべる薫。 武はそんな彼を守ってあげたいと思っていた。 

 朔耶と仲直りが出来たのが嬉しいのか、薫はここのところ不在だった幸久の側に行った。幸久は雅久と義勝に挟まれて、薫が今まで見た事がないくらいに爽やかな笑顔だった。 

「幸久」 

「あ、薫さま」 

「えっと、雅久兄さまと、義勝兄さま。水族館に幸久も一緒に行っても良いですか?」 

 水族館が何なのか、薫は知らない。だが武がご褒美だと言うなら、きっと楽しい場所に違いない。ならば幸久も一緒の方がもっと楽しい筈。 

「ありがとうごさいます、薫さま。ではお言葉に甘えさせていただきます。 

 幸久、行ってらっしゃい」 

「とか何とか言って、一番行きたいのは武だろう。最近リニューアルしたばかりだからな」 

 苦笑混じりに義勝が言うと、頬をほんのりと染めた武が横を向いた。図星だったらしい。夕麿が横で笑っている。 

「武君はいつまでもお子さまだねぇ」 

 影暁と応援に来ていた麗は武を特別扱いしない。 

 高等部時代から良き先輩、良き友としての関係を貫いている 彼は夕麿にも平然と辛口の意見を言う。武の皇家になり切れない心情も理解している。 

 それが武の救いになっているのだと周が耳打ちしてくれる。多忙の中、夕麿の見舞いすら思うように出来ず、看病すら出来ないでいた武を支えたのは、確かに麗の明るい思い遣りだった。 

「麗先輩、いつまでいてくれる?」 

 影暁の滞在ビザや麗の経営する店の事があるので、長期滞在を無理強いする事は出来ない。 

「お二人の結婚10周年パーティーに出てから帰る」 

「ありがとう、麗。ありがとうごさいます、藤堂先輩」 

 二人が駆け付けてくれたからこそ、武は発作も発熱もなく元気でいる。夕麿はどんなに感謝してもしきれない気持ちだった。自分の身体の状態をきちんと把握出来ない。今回倒れたのは、それが一番の原因だとわかっていた 普段余り病気にならない。しかも自分の体調不良を自覚出来ない。だから倒れるまでわからなかったのだ。 

「夕麿、疲れてないか?」 

「ええ、大丈夫です」 

「ごめんな…お前に負担ばかりかけて」 

 体調をすぐに崩して心配させた挙げ句に、自分の分まで仕事をさせてしまっていた。夕麿に倒れられて武は改めて自分が寝込んだ時の彼の状態を悟ったのだ。そして……どんなに心配させているのかも。申し訳ないという気持ちと同時に、夕麿の深く強い愛情を感じていた。 

「お前が倒れるまで無理してるって、俺…気が付かなくて」 

「あなたの所為ではありません。今回は私自身のミスです」 

 夕麿の言葉に武が抱き付いて来た。 

「いつも…お前にあんな想いをさせていたんだ、俺は…」 

 武にも体調が悪くなっても口に出来ない状況がある。御園生 武という表向きの顔ではなく、紫霞宮 武王として公務にあたっている時だ。苦しくても隠して笑顔でいなければならない。寒い場所、暑い場所でも、笑顔で何時間でも立っている。必要とされる場所では倒れる事すら許されない。懸命に踏ん張って踏ん張って、自分の責務を果たさなければならない。それが紫霞宮という名前を捨てなかった武に、科せられた責任であり義務だった。それでも武は公務自体に不平不満を漏らした事は一度もない。自らが選択した事としっかりと自覚しているからだ。むしろ妃として同行する夕麿に申し訳ないと思っている。 

 同性の伴侶としての立場は言わば晒し者であり、見せ物に近い状況になってしまう。誇り高い夕麿をそのような好奇の眼差しの中に置いてしまうのが辛かった。悲しかった。何も返せない自分が哀しい。たくさんのものをもらい、返す事が出来ない。何度となく挫けそうになったのにこうして立っていられるのは…夕麿が影に日向に支えてくれているからだ。あの時に…ただ一度のチャンスに、紫霞宮の名前を捨てていたら、夕麿にこんな苦労をさせなかった。 

 全ては自分のわがままだと思うと胸が痛い。 

「武?どうしました?気分でも悪いのですか?」 

 急に俯いて黙ってしまった武が心配になった。自分のミスで余計な心配をかけてしまった。武に心理的な負担になってはいないか。それだけが気懸かりだった。 



 互いに相手を心配する。 

 武と夕麿の姿を薫がじっと見ていた。 

 誰かを好きになる。それは幸せだけではないのかもしれない。 

 薫は人生そのものを考えてみた事がなかった。ただそこにいる事。与えられた場所でいる事。それだけだった。誰かの気持ちを考えるとか、誰かの為に懸命になる。そんな考え方すら知らないで来た。 

 今日ここにいる人々は皆、誰かの事を思っているのを少し羨ましく感じていた。 

「遅うなりました」 

 榊の声が響いた。 

「あ、お帰りなさい、天羽先輩、相良」 

 武の声が反対側から響いた。 二人が旧都から戻って来たのだ。 

「お帰り、榊」 

「麗!?」 

「ふふ、聞いたよ~」 

 麗のニヤニヤ顔に、榊の隣にいた通宗が真っ赤になった。 

「麗、おちょくる(からかう)のは堪忍してな」 

 さり気なく通宗を庇う。 

「ふうん、榊でもデレるんだ」 

 麗が鮮やかに笑う。 

「ホンにかなんなあ、麗は…下品やすけないえ?」 

「やすけない?」 

「品がない言う事」 

「悪かったね」 

 榊の辛辣さには麗は慣れている。 

「麗はどない?元気おするするやった?」 

「この前ちょっと過労で寝込んだから…気分転換の帰国、新婚旅行を兼ねて」 

「新婚旅行?」 

「ラスベガスで式挙げて結婚した」 

 薬指を見せてそう言う。聞きつけた武が慌てたように言った。 

「それ、先に言ってよ、麗先輩!」 

「あれ?言ってなかったっけ?」 

「聞いてない」 

「私も初耳ですね」 

 何度か見舞いに来た折にも麗はその事を口にしなかった。全員から祝いの言葉を言われて、麗と影暁は寄り添って微笑んだ。 

「武、二人のお祝いですが日にちもそう残っておりません。そこで私たちの10周年のパーティーに、二人の祝いをしませんか」 

「あ、それ、今俺も言おうと思ってた」 

「麗、藤堂さん、それでお許しいただけますか?」 

 夕麿の言葉に影暁が驚いた。 

「良いも悪いもございません。お祝いをと仰られますお言葉だけで十分でございます」 

 夕麿には心配をかけてしまった。今回彼が倒れた一因になったような気がしていた。だから武の要請に急いで麗と飛行機に飛び乗ったのだ。麗と影暁の間が揺れた事実は、夕麿の胸だけに納められて武は知らない。 

「じゃあ一緒にお祝いしよう!えっと…二人の御披露目の時間を作る?」 

 自分達が御披露目したように。武は笑顔で言った。 

「武君、恥ずかしいからそれはやめてよぉ」 

 慌てる麗に武が吹き出した。 

「じゃ、普通にお祝い」 

「そのように手配しましょう」 

 夕麿も笑顔で言う。 

「それってどこでするの?」 

「去年末のパーティー出ただろう?同じ所。終わったら俺と夕麿は何日か、上に宿泊する。あ、麗先輩と藤堂先輩もそうする?スイートくらいなら、何とかなると思うよ?」 

「泊まれるの、ホテルに?」 

 御園生邸に滞在する。それが一時帰国の条件だった。 

「交渉しましょう。連泊は無理でも一泊くらいは可能な筈です。場所も遠くはありません」 

 夕麿が笑顔で言う。その言葉は同時に武が今も、自由に旅行が出来ない身である事を示していた。 

「可能なら…ね?」 

 影暁を見上げて麗が同意を求めた。武と夕麿のはなむけだとわかる。影暁は深々と頭を下げた。 

「ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきます」 

 武の願いの一つが皆の幸せだと聞いている。ならば好意は受け取らなくてはならない。 



 薫は武と夕麿と周囲の人々との優しいやり取りを見ていた。年齢が違うとは言っても薫は考えてしまう。10年先、自分の周りにこんなに人がいないと思ってしまう。 

「薫の君、どうされました?」 

 考え込んでいる彼に朔耶が問い掛けた。 

「私には兄さまたちみたいなお友達がいない」 

「そうですね…私たち兄弟が阻んで来たわけですから」 

 いつか一人になる薫の為と言われて、実行していたが本当にそうなのだろうかとずっと、疑問に感じていた事が目の前に突きつけられた気分だった。 

「幸久、どうか薫の君をお願いします」 

 卒業してしまった今、朔耶はもう薫の側にはいられない。 三日月と月耶の二人が、榊の邪魔をした事から考えても、薫の友人として残るのは最早、雅久の養子になった幸久しかいない。 御園生家が紫霞宮家の受け皿として存在するなら、薫の友人として今学院内で信頼を置けるのは彼しかいない。 

 月耶は三日月程には冷淡ではないが、兄が常に側にいる限り逆らって何かを出来はしない。御影家の教育方針がそうである。朔耶も眼鏡で本心を隠して、命じられたままに薫の監視をしていた。 

「はい、朔耶さま」 

 幸久は素直で優しい。薫の友人に相応しいと思う。そして朔耶は改めて榊に頭を下げた。 

「薫の君の事をどうかよろしくお願いします」 

「いや…朔耶さま。おつむりをお上げくださりませ」 

 御影家もだが今は護院家の子息。身分は朔耶の方が遥かに上だ。その彼に丁寧に頭を下げられ、要請される程、薫の教育は重い。 

「出来るだけの事はさせていただきます」 

 榊にはそう答えるしかなかった。 

 少しずつ、薫の周りにも人が集まって来た。

 その光景を武と夕麿は穏やかな気持ちで見つめていた。



 部屋に戻ってすぐ雫が武たちの部屋を訪ねて来た。

「ご報告とお願いに参りました」

「伺いましょう」

 パーティーの疲れを片鱗も見せずに夕麿が答えた。

「まず、こちらへの避難でございますが、紫霄の夏休み終了と同時にひとまず解消いたしたく存じます」

「安全と言う事ですか?」

「100%とは申せませんが、取り敢えず今回は周囲に危害を加える気配は感じられません」

「わかりました」

「ありがとうございます」

「で?雫さん、お願いって?」

 武の明るい声に雫は一度頭を下げてから口を開いた。

「9月に入ってからになりますが、清方の療養を兼ねてまとまった休みをいただき、旅行へ出ようかと思っております」

 旅行を口にしたのは清方の身体には何ら異常がないからだった。人前では変わらない顔をしているが、未だに悪夢に悩まされている。些細な事に怯えて泣き続ける事もある。自分でPTSDだと言っている。義勝を呼んで診察を依頼して投薬を望んだ。今は医師としての仕事を全面的に休んでいる状態だ。 

「わかった。清方先生の為だけに時間を使ってあげて」 

 武も夕麿も清方の心の傷は理解している。 

「ありがとうございます」 

「雫さん、清方先生をお願いいたします」 

 夕麿にとっても大切な従兄だ。 

「はい。では失礼いたします」 

 雫が出て武がポツリと呟いた。 

「長く尾を引かなきゃ良いけど」 

「そうですね…でも、きっと大丈夫です。雫さんがいるのですから」 

 夕麿の病が長引いた理由には複雑な事情が存在した。だが快方に向かう為の力をくれたのは、武の強い愛情だった。 

 清方には雫がいる。必ず救いに来てくれると信じてちゃんと助けられた。その信頼が必ずや清方を治癒へ向かわせる。 

「うん、そうだな」 

「さあ、あなたも疲れたでしょう?休みませんか?」 

「わかった」 

 入院中、側にいる事が出来なかったのを取り戻すように、武は夕麿にぴったりと寄り添った。夕麿はそれに笑顔で応え二階の寝室へと歩き出した。 



 周は部屋に戻るとホッと息を吐いた。清方が行方不明になってから何日もここに戻って来なかった。いつでも対応出来るように病院で待機し、現場へ駆け付けて連れ戻った。 

 同時に高熱で倒れた夕麿と一緒に全力で治療にあたった。ぐったりとソファに身を投げ出す彼を横目に、朔耶がバスタブに湯を張りに行った。病院では思うように入浴が出来なかった筈だ。 今夜は入浴して身体も心も解して、ゆっくりと休んで欲しい。パーティーの間は気を張っていたが、周の顔には部屋に戻って一気に疲れがていた。

 バスルームの用意を済ませると朔耶は周の側に行く。スーツの上着を脱がせ、ネクタイを引き抜いた。シャツの首元を緩めて楽にさせる。次に靴下を脱がせて部屋履きに替えた。余程疲れているのか、周は朔耶にされるがままだった。それらを洗濯籠に入れて、朔耶は何も言わずに横に座った。

 わずかに触れ合う温もりが互いを癒して行く。朔耶もまた慣れない仕事に四苦八苦した。全員で軽減してもなお武は多忙だった。武か夕麿でなければならない案件がたくさんあった。

 余り丈夫ではない。そう言われている武を気遣って、雅久が仕事の合間にソファで横にならせていた。

 自分はちゃんと役に立ったのだろうか?まだまだ未熟な自分を思い知ってしまった。医師になる夢は捨てないが今少し、社会勉強をさせてもらおうとめどなく考えていると、不意に抱き寄せられた。

「何を深刻な顔で考えているんだ?」

「今回、武さまのお仕事を手伝わせていただいて、自分の未熟さを痛感しました」

「そうだろうな」

「まだまだ知らない事ばかりで……食券を買うというのも私には初体験でした」

 朔耶はそう言って、甘えるように周の肩に頭を乗せた。

「ねぇ、周。大学入試の勉強はしますから、もう少し仕事を手伝わせていただいても良いでしょうか?」

「身体には負担はかかっていないようだし…夕麿も当分は自宅療養だ。武さまにもこれ以上のご無理は問題がある。お前がそうしてくれるなら僕も安心だ」

「ありがとうございます」

 愛する人にそう言われて、喜びが湧き上がった。

「あ、そろそろ湯が溜まった頃です。背中を流しますから、ゆっくりと入浴して疲れをとってください、周」

「え……あ、そうする」

 二人は支え合うようにして、バスルームへと入って行った。

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