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【一】一・兄弟王子と出遭う放課後
060. 妹のような誰かの、髪を
しおりを挟む「私は、王女ではありません。お戯れはおやめくださいませ」
「俺にまで誤魔化すことないじゃないか。可愛い妹よ」
「なにを茶化していらっしゃるのですか。私は王女ではなくて、従妹ではあっても、妹なんかじゃ……」
アルティエロ第三王子殿下は、にこにこと笑いながら、私を夢見花の幹の際まで追いやった。
私の背中は木にぴったりとくっつき、彼の腕は私の顔の横あたりにある。なんとも威圧感をおぼえる体勢だ。
彼が今したようなこの行動を、ニホンでは〝カベドン〟とかと言うらしい。前にイラリアから教えてもらった。彼女からも、されたことがある。あと〝ユカドン〟も。
嫉妬や怒りの発散、求愛の仕草、脅迫など、人間は様々な目的で〝ドン〟するものなのだとか。これらは特に〝マンガ〟や〝オトメゲーム〟によく出てきて……。
――オトメゲーム? そういえば……。
「オフィーリア。こちらを見ろ」
「見ておりますが」
「そうじゃなくて。……俺のことだけ考えてろよ」
「?」
まるでどこぞの恋愛物語の登場人物のような言い方だ。こちらを見ろ、俺のことだけ、なんて。聞いているだけで恥ずかしい。
こんな流れは、壊したい。私はそこに入りたくない。
「考えていますよ? 貴方から逃げるためには、どうすればいいのかって。これも広義には『俺のこと』ですよね? ご不満ですか?」
「煽っているのか」
「煽っていると殿下が思われるのでしたら、そうなのかもしれません」
「……埒が明かないな」
「奇遇ですね。私もそう思っておりました。こちらにも予定がありますので、よろしければ、帰らせていただけますか」
アルティエロ殿下はわざとらしく呆れた顔をして、はあと深いため息をついた。ため息をつきたいのはこっちの方だ。突然に絡まれて、昔の嫌な出来事をちらつかされて脅されて。
「リボンはどうするんだ。俺が持っているんだぞ。きみより背が高いから、難なく取れた」
まだ脅すつもりらしい。
「……そんな、もの。べつに……いらない、ですから。私だって、殿下に邪魔されなければ、取れましたけど」
「ははっ、歯切れが悪いな。そうだ、当ててやろう。――イラリアが刺繍してくれたリボンだから、失くしたくなかったのだろう? うん? 図星だろう」
図星だが。そんなことより、にやにや顔がうざったい。やめてほしい。
「ええ、はい、そうですね。大切なものだとわかっているなら、どうか返してくださいませんか」
「……俺に、『髪を結んで頂戴』と言って、結わせてくれるなら、いいぞ」
「はい?」
「だから、髪を――」
「生憎と。私には、貴方様の歯切れが悪い理由はわかりませんでした。なんでそんなこと」
「いいから。俺に髪を結わせてリボンを返してもらうか、俺の髪にその大事なリボンが結ばれてしまうのを見るかだ。どっちにする?」
「…………『髪を結んで頂戴』ね」
渋々と仕方なく、私はそう言った。
すると彼は、ぱぁっと笑って――先程から笑っていたけれど、今度はどこか子どもっぽい笑みを浮かべて――私を囲っていた腕を木から離した。
「変なことは、しないでくださいね」
「はい。しませんよ。姫様」
「……だから、王女じゃないんです。……まだ」
「おっ。やっと認めてくれましたね」
「認めていません」
私は彼に背を向け、嫌々ながらも、朽葉色の髪をその手に委ねる。
想像よりも軽く、控えめに、か弱き生き物に触れるかのように、彼は私の髪をすくった。
「ずっと……触れてみたかった」
「何かおっしゃいましたか?」
「なんでもない。アイツに……我が弟のロメオに、髪に触れさせたことはあるか」
「こんな形ではありませんが、髪をかき上げられたことなら、一度だけ」
「そうか。アイツも素直じゃないからなぁ」
手櫛で私の髪を梳かす彼は、背後でそんなことを言ってケタケタと笑った。どこが面白いのだろう。私にはまったくわからない。
「まるで、あの人が触れたがっていたかのような言い方ですね」
「そんな言い方をしたか? 自意識過剰なんじゃないか」
「そうですか。なら、そういうことでいいです。黙ってさっさと結ってください」
「そんなにイライラするなって」
「イライラなどしておりませんし、仮にイライラしていたとして、貴方様に咎められる筋合いはございません」
「そうだ、編み込みにしようか」
「嫌だと言っても、勝手になさるのでしょう。もう知りません」
今日、アルティエロ殿下と過ごした時間は、ほんの数分間か、長くとも十数分間か程度。これだけの時間でも、はっきりとわかったことがある。
――私は、彼とは、気が合わない。絶望的に。
「からかって悪かったな。許せ」
「…………」
「だんまりか。まあ良い」
今の言い方は、バルトロメオとよく似ていた。声質は違うけれど。いつの人生だったか、彼も同じ台詞を言っていたっけ……。
もう、早くイラリアに会って癒やされたい。彼女に触れたい。匂いを嗅ぎたい。
「あー……引きこもっていたことも、先程、からかったが。そういえば俺も引きこもりでな。まだ正式には、社交界にこの顔を出していないんだ。髪や瞳の色を変えて出たことは、何度もあるけれど」
「へえ。ということは、私が貴方様をわからなくても無理はなかったということですね」
「そうなるな。ああ。それで……先日の手紙にも書いたから、知っているとは思うが。六月に、俺ときみのお披露目パーティーがある」
「『俺ときみの』ですって?」
「第三王子と第一王女の、だ。きみだって準備はしているだろう。――王家に入るために」
「……ところで『先日の手紙』とは、何のことですか」
「露骨に話を逸らしたな。真面目な性格のきみのことだ。家族にさえ言っていないのだろう。いや、そうすると……、まあいい。仕方ないから答えよう――それは、イラリア宛にニホン語で書いた手紙のことだ」
「イラリア宛……? ニホン語? えっ?」
私は思わず、彼の方を振り返ろうとする。アルティエロ殿下は「まだ動かないで」とやわらかな口調で言って、私の頭をそっと押さえた。痛くはない、でも従わざるを得ない、あの絶妙な力加減で。
「もしや、きみ、読んでいない? イラリアから伝えられなかった?」
「貴方様とイラリアは、そもそも知り合いなのですか。ニホン語ってことは……」
「ああ、本当に、知らないんだね。その隠し事のことは、きみらでどうにかしてもらうことにして……。――そう、俺は彼女と同じく、ニホンで生きた記憶をもつ人間だ。
前に、彼女から送られてきたニホン語の手紙で、救われたことがあって。今度は、彼女の大切なひとである、きみを手助けしようと……いや、届かなかったなら、意味はないな」
髪を結い終えたのだろう。彼の手が離れていくのを感じる。「できました」と彼は、安堵らしいため息とともに呟いた。
リボンがしっかりと括られているかを確かめるため、私は軽く頭を振ってみる。うん。大丈夫そうだ。
「伝わってきた手付き、感触からして、意外とお上手なようですね」
「昔、妹のように可愛がっていた子の髪を……偽物ではあったんだけれど……結っていたことがあって」
「そうなんですか。先程までの言動を振り返ると思うことはありますが、髪を整えてくださってありがとうございます。殿下」
「……うん。俺の方こそ。こんな俺だけど、話してくれて、嬉しかった。ありがとう。オフィーリア」
「突然まともらしくなられると調子が狂うのでやめてください。――今後も、関わる機会はありそうなので。その時は、よろしくお願いいたします。では、もう行ってもよろしいですね?」
「ああ。また明日、オフィーリア」
「はい。また明日」
私は淑女の礼をして、イラリアの待つ薬学実験室を目指して早足で歩いていく。急いで彼女と会わなければ。
――あら? 今、また明日って言ったかしら?
「殿下。また明日って、どういう――」
立ち止まって振り向くも、彼の姿はすでになかった。ちょっと気になるけれど、わざわざ探して尋ねるほどのことでもない。
学院校舎の事務局を目指して、人目がないことを確かめてから、走る。
無事に手続きを終えて校舎内へと入り、階段をタタタと駆け上がる。
薬学実験室のある階の廊下に出ると、バタンとドアの閉まる音がした。焦って閉めたのか、怒りをぶつけて閉めたのか、とても大きな音だった。
何かあったのかしらと首を傾げつつ角を曲がると、ふらふらと歩く黒髪の学生が目に入る。
――この姿は、もしかして……。
「う……っ」
「あら、ごめんなさい! 大丈夫ですか……?」
彼はぐらりと体勢を崩し、私の胸元にぶつかってしまった。それから苦しそうに声を上げ、うずくまる。
見ればその顔は真っ青で、覚えのある黄緑色の瞳は潤んでいた。
「殿下……!」
「すみ、ません。ちょっと、花を……」
「花、を?」
つらそうにしながら、彼はすぐそばのお手洗いへと入っていった。なるほど。具合が悪かったのかもしれない。
――蒼玉クラスの四年生、って。やっぱり……。
薬学実験室の扉を開けると、すぐにイラリアと目があった。その二秒後には、私はもう彼女に抱きしめられていた。
「フィフィ姉さまっ、遅かったじゃないですか……!」
「ええ、ごめんね。イラリア。愛しているわ。ところで――」
私はひとつ深呼吸して、顔をしかめて、できるだけ冷たい声を出して彼女に問う。
「この薬の匂いは、何かしら?」
イラリアは、びくりと肩を震わせて。えへへっ、と誤魔化すように笑って。
「……のっぴきならない事情が………」
と。気まずそうに呟いた。
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