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事例2 美食家の悪食【事件篇】

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「あ、それ? だってぇ、なんか名前に【太る】なんて意味の漢字が入ってるの嫌だからぁ。私がデザインした名刺くらい、ちょっと変えてやろうと思ってぇ」

 なんとも理解しがたい理由ではあるが、どうやら名刺の名前は誤字というわけではなく、ミサトがわざとやったものであるようだった。まぁ、ここは夜の店であるし、源氏名という形で解釈すれば、漢字の変更はありなのかもしれない。

「あぁ、そういうことなのか。それならそれでいいんだが――」

 安野は納得したかのように頷くと、名刺を内ポケットの中へと仕舞った。それとほぼ同時に来店を告げるドアベルが鳴る。先生が戻ってきたものかと振り返ると、しかしそこには先生ではなく中年の男二人組がいた。

「いらっしゃいませー」

 ミサトが出迎えに向かうと、安野が皮肉っぽく「今日は大入りだなぁ」と呟く。

「ミサトが辞めるって話が常連さんの間でも広がってるからね。わざわざミサトがいる日を狙って来てくれるお客さんが、最近多いのよ。まぁ、ゲンさんとムラさんは一昨日もきていたけど」

 そう言いつつ、ミサトが二人組の常連を案内したテーブルを見つめ、なんだか少しばかり寂しそうな表情を見せるママ。テーブル席では、おしぼりより先にミサトが名刺を渡していた。同じように名前の違いを指摘されているような会話も聞こえてくる。ゲンさんとムラさんと呼ばれているくらいだから、よっぽどの常連なのであろう。

 ミサトがカウンターを離れ、常連二人組の相手を始めてからしばらく。ようやく電話を終えたであろう先生が戻ってきた。

「ごめんなさい。ちょっと戻らなければならない用事ができたわ。こっちの要件はあらかた済んだみたいだし、悪いけど私はこれで――」

 席に戻ってくるなり、先生は財布を鞄から取り出した。安野が「あぁ、ここは俺が出すから」と慌てて言うと「そう? じゃあ、お言葉に甘えて」と、財布を仕舞って鞄を拾い上げる。

「――事件のことについて知りたいことがあったら連絡してちょうだい。逆に、何か新しい発見があれば、そっちに連絡を入れるわ」

 先生は安野に向かってそう言い、安野は「悪いな。助かります」と返し、そして先生は頭を下げると、店から出て行ってしまった。

「さて……だったら俺も帰るかねぇ。明日も早いしさぁ」

 それがきっかけだったかのように、今度は麻田が立ち上がり、帰り支度を始める。

「麻田、無理を言って悪かったな」

 安野の言葉に麻田は立ち上がりながら「いつものことだから慣れてるわけ」と、可愛げのない返し方をすると、麻田は帰ってしまった。
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