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第一章

29.巽淑妃(美娘)side

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「あら、巽淑妃様ではありませんか。ごきげんよう」

「まぁ……かく貴妃様」

 御苑を散策していたところに、まさか貴妃がいらっしゃるなんて。これは偶然かしら?

「クスッ。巽淑妃様、ここで出会ったのも何かの縁と申します。折角なので、あちらの東屋でお話しませんこと?色々お尋ねしたいこともありますし、宜しいですわね」

「えぇ、是非」

 当代の皇帝陛下に皇后は存在しない。
 即位前から正妃が居なかった事が理由だとも、妻にと望んだ女子と一緒になれなかったせいだとも言われている。どれも真偽のほどは誰にも分かっていない。そのためか「我こそは」と思う名家の姫君たちが後宮に押し寄せているわ。後宮に数多の妃が納められ、その中でも一際格の高い宮を賜っているのが郭貴妃。

 郭麗かくれい
 郭丞相の御息女にして、二人の皇子の母。そして、この後宮の実質的な主。皇后に最も近いとさえ言われる女人。

 陛下の好き嫌いに関わらず後宮には次々と若く美しい娘が入内してくる。皇帝の寵愛によっては皇后と皇太子の地位を手に入れられるという野望を抱いて。親や兄弟の期待を背負った娘たちは皇帝の寵愛をめぐって競い合う。それが後宮という場所だと言われてしまえばそれまでだけど、当代の後宮は諍いが絶えないと都から離れた巽州にまで伝え聞こえてくるのだから余程でしょうね。


 
 
「今は薔薇が見頃、この場所は今の季節は特等席になるんですよ」

 天女の如き微笑みでそう仰ってから、貴妃が手ずからお茶の準備を始めた。
 その仕草一つ取ってみても洗練された美しさがある。所作とは本人の育ちの良さが出るもの。貴妃の所作は優雅で柔らかいにも拘わらず一部の隙もない。

 慎み深く慈悲深いと評判の貴妃。

 彼女を悪く言う者は少ない。
 新参者の私にさえ優しく接してくださる。まさに理想的な妃。なのに、それが逆に恐ろしいと感じてしまう。果たして「本当にお優しい妃」がこの後宮で生きていけるものなのかと勘繰ってしまう。
 
「淑妃様はここ最近随分と忙しくされていらっしゃるので、こうしてお話をする時間がありませんでしたね」

 茶器を差し出してきた貴妃はにこやかに微笑みを向けてくる。
 私はそんなにも多忙に見えるのかしら?
 そして多忙に見えるであろう私に労わりの言葉を掛ける貴妃に他意はないと分かっているのに、何故かそれが本心ではないような気がしてならなかった。貴妃の考えは別のところにあるような気がしてならない。穏やかに話す彼女には何処か陰があるせいかもしれない。
 
「ご心配をおかけして申し訳ありません」

 貴妃の言葉を受けて謝罪を口にした私に対して彼女はゆるりと首を横に振った。そして、まるでこちらの内心を見透かすように笑みを深めた貴妃は再び口を開く。
 
「謝る事ではありませんよ。でも少し意外ではありましたわね。だって、淑妃様にはとても大切にされていらっしゃいましたもの。まさか後宮にこのまま留め置くとは予想外でしたわ。もしかして冷宮の騒動が何か関係あるのかしら?」
 
 本当によく見ている。冷宮の一件は表立っていないというのに。それでも情報は洩れるもの。だからこそ内侍省が真実と虚実を混ぜながら噂を流したので、冷宮での一件は表向きは終息したことになったのだけれど。さすが貴妃様。正確な情報を既に握っている。どうやって集められているのかが問題なのだけれど……やはり侮れない相手だとつくづく思うわ。

「さぁ、何のことでしょうか」
 
 素知らぬふりをして、貴妃を見る。彼女は面白がるような眼差しで私を見つめ返し、ふっと小さく笑った。
 
「まぁいいでしょう。それよりも昨夜は、何やら宮が騒がしかったそうだけど何かあったのかしら?陛下の新しい寵妃が関わっているという噂を聞いたのだけれど……」
 
「貴妃様がお気にする事ではございません。他愛もないことですので」

 私の答えを聞いて、貴妃は意味深に目を細めた。
 
「あら?それは残念だわ。きっと楽しい事になっていたでしょうに。陛下のお心を掴もうとしている者は後宮には数多くいますからね。でも、陛下が対応なされたのなら、あまり詮索しない方がよろしいかしら?」
 
 くすり、と笑って、貴妃は小首を傾げた。
 その言葉に胸がざわついたのは事実だった。けれど、私はそれを口にすることはできない。
 
「いえ、どうぞ。他の方々がどうされるかは存じ上げませんけれど、貴妃様が興味を持たれる話ではないかと思いますよ」
 
 私の返答を耳にして、貴妃の瞳に好奇の色が乗る。この方はどこまで知っているのだろう。
 
「貴妃様こそ……何か御存知なのではないですか?」
 
「まぁ。淑妃様は面白いことを言うのですね。私が何を知っていると言うのですか?」
 
「それは、分かりかねますが……」
 
「淑妃様、この後宮には色んな事がありますわ。知らなくても良い事がそれこそ沢山ありますの。だから気を付けなさいませ。うっかりすれば毒になる事もあり得ますのよ」

 貴妃は微笑んではいるが、その声は有無を言わせぬ響きを持っている。
 
「貴妃様の忠告は胸に刻みましょう」

 後宮という場所の恐ろしさを再確認させていただきましたもの。


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