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10. 円満な取引

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「それで、一応確認するけど、アイリス嬢には将来を誓った仲の人や、慕っている人は居ない……でいいんだよね?」
「はい。そこはもう揺るぎなくその通りでございます。」

レナードからの念押しの確認に、アイリスは大きく首を縦に振った。
一瞬数日前のオーレーン男爵家からの縁談話が頭を過ったが、あれはしっかりと断ったはずだと直ぐに頭の中から消し去った。

十六歳と言う年齢の伯爵家の令嬢ならば、婚約者が居てもおかしくないのだが、父親が過保護な事と、領地が田舎すぎてあまり他所との外交も盛んで無いことから、婚約者どころか同年代の男子と話す機会すら殆どなかったのだ。

(そもそも、男性を慕うというのがどういった感情なのか分からないのだもの。)

アイリスは心の中でそう付け足した。
恋の物語に憧れる気持ちはあったが、自分が小説の主人公たちのような気持ちになった事はまだ一度もないのだから本当に分からないのだ。

「それは良かった……。本当はこんな事を御令嬢にやらせるのは気が進まないのだが、私は呪いに負けて、今、倒れる訳にはいかないんだ。」

レナードは、心苦しそうな顔でアイリスを真っ直ぐに見つめて、それから真剣な眼差しで彼女に率直な思いを伝えた。

「地方の領地を思う君の憂いは私が引き受けよう。だから君は、今私が直面しているこの憂いを引き受けてくれないだろうか?」

レナードはアイリスから目を逸らさずに、じっと彼女の目を見つめたまま返事を待った。
彼は真剣だった。

アイリスは吸い込まれそうな程青く美しい瞳に思わず見惚れてしまったが、直ぐに王族の顔をマジマジと見つめるなどとは不敬だと気づいて、慌てて目線を逸らすと、務めて冷静に言葉を返したのだった。

「分かりました。これは取引ですね。」
「まぁ、そうなるね。」
「えぇ、利害は一致してますよね。」
「まぁ、そう……かな?」

アイリスは一つ一つ確認すると、大きく息を吸い込んで、そして覚悟を決めた。

「かしこまりましたわ。私は殿下のお側に控えて、呪いの眠りから目覚めさせますわ。だから殿下は、これからも地方に住む人々を気にかけて、そして出来ればサーフェス領を優遇する政策をとって下さい。」

アイリスは、どさくさに紛れて大真面目な顔で自分に都合の良い条件を追加で提示して、この取引を受け入れる事をレナードに告げたのだった。
アイリスはあくまでも、自分の領地、サーフェス領が大事なのだ。

レナードは、そんな彼女の素直な言動に思わず吹き出してしまった。
王太子である自分に対して、こんなにも図太く要望を直接伝える令嬢なんて初めてだったからだ。

「あははっ!アイリス嬢は中々面白い人だね。具体的な要望が増えているな。」
「殿下が、なんでも話して良いと仰っていたので。言うだけならタダですしね。」
「分かった。君の要望に出来るだけ応えられるようにしよう。」
「是非、よろしくお願いします。」
アイリスはそう言ってにっこり笑うと、深々と頭を下げたのだった。

そんな彼女の様子にレナードも満足そうに目を細めた。最初の方こそ王族である自分に対して恐れおののいていたアイリスが、そんな様子は既に微塵も感じさせずに堂々と王族に要望を伝えるのだから、その強かさに感心し彼女の度量を気に入ったのだ。

「それじゃあ、交渉成立だね。」
そう言ってレナードが右手を差し出したのだが、アイリスは王族に触れて良いものなのかと、その手を取るのを躊躇ってしまった。

けれどもチラリとレナードの表情を伺うと、彼はとても穏やかな顔でこちらを待っているので、アイリスは自分も右手を差し出して、そして二人はがっしりと握手を交わしたのだった。

これでもう逃げる事は出来なくなったが、領地の未来を約束できたのだから、アイリスに後悔はなかった。


「けれども、本当に嫌では無い?私が王族だからとかは考えないで。無理強いはしたくないんだ。」

握手を交わした手を離すと、改めてレナードはアイリスの気持ちを確認した。
彼は自分の立場というのをよく分かっているので、しつこいくらいにアイリスが我慢をしていないか、彼女の本心を汲み取ろうとしたのだ。

そんなレナードの心遣いに気づいて、アイリスはなんだか申し訳ない気分になってしまった。

そして、レナードはこんなにもアイリスの気持ちを気遣ってくれているのに、レナード自身の気持ちを、今まで誰も気遣っていない事に気づいてしまったのだった。

「殿下、お心遣い有難うございます。でも私の事は本当にお気になさらなくて大丈夫ですよ。最初こそ抵抗はありましたが、こうなってしまったら、もう、怪我をした人に適切な手当をするのと同じように、呪いを受けた人に適切な解呪をしているだけなんですから割り切れますわ。それより……殿下の方は御心は大丈夫なのでしょうか?預かり知らぬ所で、勝手に口付けをされて。後から聞かされるなんて嫌な気持ちになりませんか?」

アイリスは心配そうな顔で、少し遠慮がちにレナードの様子を伺った。
彼はアイリスの気持ちを気遣ってくれるが、彼自身が口付けについてどう思っているかは今まで口にしていないのだ。
不満があっても口に出さないでいるのはレナードの方ではないのかと、その可能性に思い至り、アイリスは彼を気遣う言葉をかけたのだった。

するとレナードはアイリスからのその言葉を聞いて嬉しそうにふっと優しく微笑むと、アイリスの顔を真っ直ぐに見返して、彼女からの質問に答えたのだった。

「そうだね。解呪の方法を聞いて正直言って戸惑ったよ。でも、私を起こそうとしてくれた令嬢に、無理をさせて申し訳ないと思う気持ちはあれど、嫌悪感は抱かなかったな。キスをしてくれたのが君とドロテアで良かったと思ってるよ。」

キラキラした笑顔でそのような事を告げられて、アイリスは思わず顔を赤くして俯いた。そしてこの動揺を誤魔化そうと、少し意地悪な言葉をレナードに投げかけたのだった。

「……ルカス様からの口付けは、そこには入らないんですね?」
「止めて。それだけは受け付けない……」
そう言ってレナードが、笑顔を引き攣らせて心底嫌そうな表情をするので、アイリスは思わず笑ってしまった。

「ふ……ふふふ……」
「アイリス嬢、からかったね?」
彼が狼狽える様子がおかしくて思わず吹き出してしまったが、そんなアイリスにレナードは恨めしいような目を向けたので、彼の視線に気づいたアイリスは、流石にやり過ぎたかと反省し、慌ててレナードに謝罪の言葉を述べたのだった。

「も、申し訳ありません。」
なんでも話して良いと仰ってくださったが、立場を弁えるべきだったとアイリスは後悔した。
レナードから、今の発言について不敬だと言われてしまったらそれまでなのだ。

けれどもレナードは、不敬だと彼女の言動を咎める事もなく、苦笑しながら、優しくアイリスに語りかけたのだった。

「いい、いい。謝らなくていい。最初に言ったろう?不問にするって。だから好きに喋っていいし笑ったっていいんだよ。」
彼はアイリスの非礼を全く気にしなかったのだ。

「有難うございます。殿下の御心に感謝いたしますわ。」
そんなレナードからの許しにアイリスは安堵して胸に手を当ててホッとしたような表情を見せた。
そして改めて目の前の彼を見つめると、今までの言動から王太子殿下は意外と気さくな人なのかもしれないなと感じ取って、アイリスはなんだかレナードに親しみの様なものを抱いて、自然にふわりと笑ったのだった。
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