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61.散りぬべき時知りてこそ
しおりを挟む「うちのひとにくれぐれも礼を言ってくれ。今日の弁当もとてもおいしかった」
「うちの者共も喜んでいます。あゆたさんと食べるようになって、使用人たちとも以前よりよく話すようになりましたから」
「え、そんな話題になること提供してないけど」
あゆたさんの好みとか伝えたりする過程ですね、と八月一日宮は悪びれずに話す。ひとの家庭の使用人たちに話題を提供しているのはいささか気にかかるが、それで八月一日宮の役に立っているのなら重畳だ。
「コミュニケーションをとれば、使用人たちの意見や不便、こうしたらいいのではないかという提案を知ることができて、俺のほうも勉強になります」
「ああ、それなら俺のおかげじゃないよ、きっと。八月一日宮ならきちんと意見を聞ける、聞き届けてくれるという使用人の人たちからの信頼があるのだろう」
八月一日宮は一瞬驚いたように目を大きくした。
「? なんだ?」
「無自覚やわ……」
あゆたが首をかしげると、八月一日宮は何かぼそりと口の中で呟いた。
「? なんだ」
「いいえ、こちらの話です」
八月一日宮は苦笑しながら肩を竦めた。
無駄話の種も尽きて、廊下のざわめきが迫ってくる。そろそろ八月一日宮は一年の教室のある一階に移動しなければならない。
何となく別れるのが惜しくて、未練がましく長引かせてしまった。時計の針はもうあと五分ほどで予鈴が迫っていることを教える。
「ん、それじゃ……」
永の別れでもないのにしんみりしそうに、あゆたはもごもごと言葉をつぶやいた。
さよならを言う八月一日宮の表情を見たくなくて、あゆたは俯き加減に彼の革靴の爪先を見下ろしていた。
つやつやと飴色の艶を帯びた革は柔らかそうだ。きっとオーダーメイドだろう、履き心地がよさそうだった。その革靴がまだそこにいる。
「あの、あゆたさん」
垂れ目がちの目があゆたは見つめている。
促すように頷くと、八月一日宮は意を決したように目に力を入れた。
「そろそろ、完治近いですよね?」
ちょっとどきりとする。
覚悟していたこととはいえ、八月一日宮のほうから言い出すとは思わなかった。
(潮時だな。やはり八月一日宮は解放されたいよな)
親しくもない先輩の、委員会しか繋がりのないあゆたと、八月一日宮が一緒にいる理由がない。
勝手に八月一日宮に好感を持っているのはあゆたの勝手で、それは八月一日宮に関わりのないことだった。
地味な委員会に参加してくれた、さらにはそんな活動をきちんとこなしてくれる、それだけであゆたは八月一日宮への評価が鰻登りだったから。
(俺といても、何にもならないもんな……)
コネクションに繋がるような家の出身でもないし、後ろ盾も、役に立つような能力もない。八月一日宮へのメリットがないのだ。
寂しさの裏打ちを伴う諦めを押し殺し、あゆたは明るく声を取り繕った。
「そうだな。八月一日宮のおかげで、もしかしたら予定より早く治るかもしれない」
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