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本編 ─羽ばたき─
人間 ──ジンカン──
しおりを挟む湯の感触に浸りながら、呆然と自分の身体に手を滑らせる少女は、男の言っていたことを反芻する。
「外そうとすれば首が絞まる……嵌めている限り元には戻れない……」
それが首飾りの効果であり拘束具としての機能を果たす。 恐ろしい物であると同時に、細い少女の首を飾るのに相応しく美しい。
これが男の作っていた物だと思うとその器用さに驚きを覚える。なぜ、こんなに綺麗な拘束具をわざわざ用意したのだろう。いっそのこと本当に首枷のような無骨な見た目にしてもらった方が男の思惑にいちいち頭を捻らなくても済んだろうに。
湯を腕にかけ、次いで翼を手入れしようとして無駄だと気づく。もう背中には何も無い。失くした訳ではないが、消えていた。脚の鉤爪も人間の小さい爪に変わり獣人の名残などは一切なく、少女は今、完全に人間に変えられてしまっていた。強固に縛り付いた鎖を無理矢理にでも解き、あの崖から飛び出す考えはもう棄てた。ならば男が留守にしている間にでも、人の身なれども逃げ出そうと考えたが……。
『結界が出るのを阻むだろう。あの苦しみを味わいたければ試してみればいい』
人間にされた時の熱い渦巻く感覚は忘れられない。
男の一言一言が少女の鎖となった。
湯から上がり水滴を拭えば、さらさらと空気に触れて気持ちが良い。もうあの苦しみは一切なく、翼の喪失感と人の脚の歩きにくさだけを感じる。
置かれている籠の中を見てみると、青い布が畳まれて入っていた。手に取れば七分の袖と裾が膝下まである女性用の服だと分かった。綿製だろうか、麻のようにざらついた質感はなく、柔らかい肌触りで通気性が良い。一つ二つ、白い椿の刺繍が施されている。
……やはり、この服も男が作ったのだろうか。その疑問を口にすれば
「それは買ってきた物だ。わざわざ女の服を作ると思うか」
予想通りの反応だった。首飾りは作らなければならない物だったので作ったが、女性用の服を縫うほど物好きでもないし暇でもないと男は一蹴した。
道具の手入れをしてくると言い残し、男がまた去っていくと、室内に静けさと夕暮れの薄闇が立ちこめる。少女は闇が恐ろしかった。一族が亡くなったのも、男が現れたのも闇の中だったから。
隅の姿見が目に入り、近づいて覗いてみる。そこには青い宝玉の首飾りと、青い衣を身に纏った人間が映っていた。
他人としか思えなかった。
────────────
「死ぬつもりなのか」
夜の帳が下り、月が支配を始めて間もない時刻。
なぜ、そう言われてしまうのか理由は分かっている。目の前には食事が置かれており、川魚の塩焼きにおひたし、根菜類の味噌汁、白米が湯気と香りを漂わせていて、美味しそうだとは思うものの、今の少女にとっては困惑しか湧かない。
清御鳥も本来は箸を使い、火で煮炊きをする種族だが、単独での逃亡生活を強いられてきた少女は別だ。山の中で火を起こせば気づかれ易い上に痕跡も残る。長時間火を使う米も、箸でするゆっくりとした食事とも無縁で、拒んでしまう理由は他にもあった。食欲が、無い。口にしたものは昼の枇杷のみだが、メリメリと臓腑に響くように貫かれ、傷ついた胎内の痛みに腹は一切仕事をしてくれない。
果物だけしか食べず、目の前の食事に手を付けようとしない少女に、男は険を帯びた言葉を放っていた。
「きちんと、後でいただきますから……」
俯きながら囁く少女のつむじを見下ろし眉根を寄せる。
「信じられんな。自死を謀るつもりだろうが、そんなことは許さない。俺の目の前で食べろ」
それは少女の健康を気遣うというよりも、自分の玩具が壊れるのが嫌なだけに聞こえた。
少女も男の気分を害したい訳ではない。むしろそれは避けたい。二人きりで生活せねばならない緊張も食事が喉を通らない原因の一つ。
「死ぬだなんて……本当に、違うんです。食欲が無いだけで、私は……」
おひたしを口に詰められ言葉が続かなかった。その様子に既視感を覚えたが、枇杷を食べさせてくれたような、あの優しい手つきは見受けられない。まず冷めたものから少女の口に入れたことだけが男の唯一の気遣いだろう。
咀嚼し、急いで嚥下すればまた詰められるを繰り返される。味など分かるはずもなく、忙しない食事となってしまった。少女の顔が赤くなり涙目になったところで行為は中断された。けほけほと噎せて息を吐く少女に男は言う。
「毎度こうしてやろうか。鳥は鳥らしく口を開けて餌付けされていればいい。それが嫌だったらきちんと食べるんだ。俺が見ている時にな」
眉間に縦皺を三本刻みながら少女を脅す男はこの上なく恐ろしい。母に叱られるそれとは全くの別物で、少女は必死に頷くしかなかった。
「夜伽をきちんと果たせ。俺の機嫌を取ることがお前の仕事だろう。それ以上、細くなれば抱く気が失せる」
翼と脚を質に取られている少女は、男に抱いてもらう代わりにしか安全は保障されない。飽きられればそれまでの風前の灯。男の手に直接、心臓が握られていると言っても過言ではなかった。
「先に部屋へ行け。俺も湯から上がったら向かう。せいぜい愉しませてくれ」
少女の返事も待たずに脱衣所へ消えた男の冷たい瞳。
今夜、またあの瞳に射抜かれるのだろう。標本のように磔にされるのだろう。嘆く言葉すら見つからず、小さな手で顔を覆った。
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