烏珠の闇 追想花

晩霞

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本編 ─羽ばたき─

神さぶく

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 一発でも当ててしまえば、この上なく大切にしているであろう“地位”をあっけなく手放してしまうことは明白なはずなのに。怒りに身を任せ、清御鳥しんみちょうを傷つけようとしている男は己の愚行に気づけない。それはそれで……と、少女は思うが。

(愚かな……)

 男の拳はしかし、少女を打つ寸前に弾かれ、身体は遠く後ろへと投げ出された。一瞬のことで自分に何が起きたのか把握出来ないでいる男は、乱れた髪を気にする余裕もなく辺りを見回す。

「そんなに私を見たいのなら」

 男を止めようと腕を伸ばしかけた烏京うきょうも、傍らの少女に目が釘付けになっている。踏み出した足もそのままに、どうしても少女から目が離せない。これが、かの少女か。自分の知っている少女なのか。

「ご覧」

 男を弾いた純白の翼を堂々と広げ、歩み寄る。
 鷲の比ではない、何倍にも巨大で美しい翼は遠くからハラハラと見守る人間達でさえも気圧するものだった。

「誰が護ってきた? この翼は。貴方が見たがっているこの翼は誰のお蔭でここに在る」

 冷えた表情で淡々と、しかしはっきりと声高に男に向かって問いかける少女は果たして何者か。少女自身も今、自分が何をして何を喋っているのか。意識の外にいるのかもしれない。ただ明瞭に、憤りだけが己の中に広がっているのが分かる。

「心を砕く。傍にいるのは貴方の方が相応しい? 世迷い言を……。それを決めるのは他でもない私です。私を、清御鳥のことを考えてくれているのは……」

 言葉を切り、後ろを振り返る。困惑した狩人の瞬きにそっと微笑みかけ、また男を見下ろす。

「考えてくれているのは烏京さまです。貴方は一体、何をしてくれましたか。護るふりをしているのはどちらです」

 正論に正論を重ねて言う清御鳥の声と翼の迫力に圧されかけている男はしばし呆然としていたが、言われた意味を鈍い脳で少しずつ処理していくと、殺気の籠った目で少女を睨みつけ、わなわなと歯を食い縛って立ち上がった。

「思い上がるなよ……お前なぞ、お前なぞ……」

 返すべき言葉を見つけられないでいる男は自尊心のみで少女に反撃を試みようと、唾を飛ばしながら息巻いた。

「こんなモノがっ! 清御鳥であるはずがないっ!! この化生けしょうめ……この、偽物……化け物がぁぁぁっっ!!」

 ──ダンッッ!!

 今度こそ少女に殴りかかろうと振りかぶった男の腕は、大きな足音と共に一気に間合いを詰めた烏京によって阻まれた。これ以上その目に自分の少女を映してなるものかと身体を割り込ませ、力強く腕を握り混んだ烏京の手に男は呻き声を上げる。

「化け物だと誰が言うか。真の化け物ならば鏡を覗けば明白だ。小毬こまりを侮辱するな……!」

 本物の殺気を至近距離で浴びることになった男は歯をカチカチと震わせ、脚からは力が抜けて、そのままズルズルと床にへたりこんだ。何かしらブツブツと呟く声も、ピクピクと動く瞼も死ぬ寸前のように感じる。
 一連の騒ぎを見ていた周りの人間はしばらく誰も動けず、清御鳥のように固まっていた。動いたら殺される……。惨く殺されては骨すら遺してもらえないだろう……。泣きたいが、声を出せない。

「いい加減になさい!!」

 緊迫はいつまで続くのか。烏京の殺気と小毬の神々しさに口を開くことも憚られるこの空間は、突如として響き渡った女性の声により終わりを迎えた。
 大きな足音で怒りをあらわに階段を降りる女性は、この状況を全て把握済みなのだろう。へたりこむ男にツカツカと近づき、見下ろす形で鋭利な言葉を投げつけた。

「何があったのか聞きました。清御鳥の処遇は自分にあるですって? 笑わせないで頂戴」

 項垂れて鼻水を出している無様な男は烏京と並んで立つ女性を見上げ、掠れた声で呟いた。

「……真砂まさご……」
「呼び捨てとは何と愚かしい。親のコネで地位に胡座をかいているだけのお前に清御鳥の何が分かる。証人なら沢山いるのです。最早、容認など出来やしない」

 激しく捲し立てる真砂に、既に気力の尽きた男は何も言えない。隣の烏京には目も合わせられず口をパクパクと動かしているだけで精一杯だった。今まで自分の思い通りになってきた環境から急に突き落とされ、それでも諦めきれずにもごもごと言い訳をする。

「私は……清御鳥を見せてほしいと……隠すのは何かやましいことがあるからだろう? 私は、私は……救ってやろうと、あくまでその娘の為を思って……」
? 心無い言葉と共に見せろと命令したのではなくて? 清御鳥のさがを優先して庇っただけではないのですか。それに……“救ってやる”ですって? 思い違いも甚だしい」

 ピシャリと男をはね除けた真砂は尚も続ける。 
   
「今度のことは上も黙ってはいないでしょう。清御鳥に害を為そうとしたこと。未遂でも法に触れますから、貴方に未来は無い」

 とどめを刺された男は自分の行動を思い返し、ハッとした。冷や汗が伝い、息は浅く、動揺しているのは誰の目にも明らかだ。きょろきょろ眼球を彷徨わせては自分が助かるならばと少女に標的を定め、何としても逃れようと指を差して叫んだ。

「し、しかし! その清御鳥もっ……私を傷つけた……! 人に害を与える獣をそのままにして良いのか!?」
「正当防衛すら知らんのか貴様は」

 苦々しげに吐き捨てた烏京は少女を道連れにしようとする男に心底呆れ果て、重く溜め息を吐いた。人間、ここまで腐ると相手をしているこちらの気が削がれる。

「確かに、害を為す獣はそのままにしてはおけませんね」

 真砂は傍まで来ていた警守に命じた。

を早くここから連れ出して。清御鳥が穢れてしまう」
「っ! おい、何を……!?」
「手を上げようとした狂暴な獣は清御鳥の傍にいるのは相応しくありません。さっさとお行き」

 警守に両腕を掴まれて無理やり引き摺られていく男は、この世の終わりを見たように血の気が引いていた。きっと、この世界に戻ってくることはない。大切な地位も永遠に取り戻せない。烏京も真砂も消えていく男の憐れな姿から目を背け、互いに酷く疲れきった様子で息を吐く。

「あの人は私の任をずっと狙っていました。私より上の人間が自分の父親だと威張り、ついには清御鳥に手を上げようとする始末……申し訳ありません」

 あの真砂が自分に頭を下げるのを面食らって見ていた烏京はすぐに我に返り、少女を振り向いた。少女は何を言うでもなく、じっとその場に佇んでいる。羽の一枚すら動かさず、薄紫の瞳で虚空を見つめていた。

「小毬……」

 少女の様子が明らかにおかしい。急いで駆けつけ、肩に手を置く。細く小さなその身体は、小刻みに震えていた。

「烏京さま……」

 ふるふると涙を溢し、苦しそうに烏京を見上げた少女は、そのままフッと目を閉じ、くずおれた。

「小毬っ、しっかりしろ! 小毬っ!」
「急いで医務室の準備を! 早く!」

 男の毒気にあてられた少女は薄れる意識の中、自分を呼ぶ烏京の声と、知らない女性の慌ただしい叫びも聞こえなくなっていった。肌に触れる温かさも抱き締められている感覚も次第に鈍く、真っ暗闇に放り出された気がした。泥濘ぬかるみに沈む。

 しばらく、眠っていたかった。何も、感じたくなかった。
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