烏珠の闇 追想花

晩霞

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本編 ─羽ばたき─

初産

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 肌を刺す大気の冷たさは日を追うごとに厳しさを増し、豊かな実りの繁栄が徐々に翳りを見せ始めた山の様相に、動物達はこれから身に迫る凍てついた沈黙の季節に備えるべく忙しそうにあちこちへと駆け回っていた。
 葉は朱より深く零落れいらくし、瑞々しさの失せた枝は骨のよう。芽吹いて栄え、朱い化粧けわいの艶やかさを纏っていた風景も、じきに終わりを迎える。
 長い長い不動の時。全てが声を潜めようとするこの時期に、告鴉つげがらすの妙声──お産を告げる鳴き声が天高く響いていた。



小毬こまりちゃん、しっかり……!」
「子宮の収縮が強くなっているわ!!」

 切羽詰まった真鶸まひわに、鋭く冷静さを保った真砂まさごの声。
 静けさの待ち構える外界とは裏腹に、緊張と気迫で満ちる室内は一瞬の迷いすら許されぬ生と死のせめぎ合う場と化していた。
 いくら時が経ったのか、吐く息は熱く、地獄の呵責すらも生温いと感じてしまう痛みが身を蝕み、少女は滝のような汗を流す。
 呼吸すら苦痛だと思わせる布を切り裂いたような悲鳴に、男は掌に爪が食い込むほど固く拳を握り込んだ。

「日が出てきた。何時間、苦しめばいいんだ」

 扉に隔てられた向こう側で生死の二つ合わせを彷徨う少女の声に、何もできない現状が男の胸を激しく掻き毟る。広い廊下をツンと抜ける冬の気配は厳しくも、男には一切響かない。意識はひたすら少女の元へ、聞く者の身体全体を揺さぶるほどの苦痛の声に、男の頭に「死」が浮かぶ。夜半に始まった少女の叫びは朝焼けが山際に滲んでも止まず、男はずっと苦しみを聞いていなければならなかった。

「このままでは死ぬ。小毬も……子供も……!」

 そう警守に訴える男に、少女の金切り声が絶えず重なる。すぐそこで千切れんばかりの声を発しながら、男であれば耐えきれず死ぬような痛みと闘う。そんな命のやりとりに、少女は必死に小さな身体を張っている。出産とは、子供もろとも母体まで亡くなる可能性を秘めていて。
 命を育んできた末に拷問にも勝る苦しみを味わう少女に男の目はきつく吊り上がり、溢れんばかりの焦りを募らせていた。

「どうすれば良い……俺は一体……!」
「どうにもなりません! 何もできません! 私達が騒いだところで小毬さんの痛みは無くなりません……どうか分かってください……」
「……っ、しかし」

 苦しみなど、いつもであればすぐに取り除いてやれた。恐怖に駆られたのなら心安らぐまで抱き締めてやれた。何でもしてやれた。だというのに、この力は一番の苦悩には寄り添えない。少女一人の闘いだった。

「……クソッ……!」

  とめどなく湧いてくる焦燥に、乱れた言葉が口を突いて出る。手は届くはずなのに、ただ傍観しているだけなのが歯痒くて堪らない。阿鼻叫喚を耳にしながら、真砂に言われたことをふと思い出す。

 ──いざとなったら、選ばなくてはなりません。

 甦る宣告に、冷や汗が滲み出る。
 どちらかの命。最悪、選ぶ余地も許されない、母も子も亡くなる場合がある、と。

「小毬さん、深く息を吸って!」

 いよいよ正念場を迎えたのか、向こうでは一層、太くなった真砂の声が明瞭に聞こえてくる。
 少女の命を掛けた呼吸音が伝わり、男が息を詰まらせた途端、勢い良く扉が開いた。分娩室から肩を激しく上下させ、汗を流した真鶸の顔は瀬戸際に立たされて険しくもあり、生き死にを前にしてすがるようにも感じられた。

「来てっ!!」

 瞬く男の腕を掴み、強く室内へ誘う。
 中には台に寝かされ、汗と涙でびしょびしょに顔を濡らした少女の姿があった。

「小毬!!」

 少女は陸に揚げられた魚と等しく息を散らし、苦痛に歪んだ表情で降ってきた低音にわずかに目を開けた。気力を振り絞らなければ肺に空気を入れるのさえままならない状況で、少女はか細く願いを吐き出す。

「手……握って……」

 儚げに、まるで最期の望みというように男の目に映り、ほとんど吐息の混じった力無い言葉が耳に触れた瞬間、反射的に少女の手を握った。伝わるのはたおやかな少女からは信じられないほどの強い力。骨が軋みそうな、そんな痛み。しかし。

「もっと握れ、傍にいる」

 手に宿るのは少女を襲う感覚とは天地の差である、所詮ちっぽけな痛み。

「子宮口が完全に開いたわ! もう少しよ!」

 耳をつんざく叫びと人の熱気がひしめく中に、いよいよ朝焼けは山際より広く地上を照らし、滲むばかりだった光が燦々と少女に届いた。濡れそぼった薄目を開き、長い夜の明けを瞳に収めた少女はきつく唇を結んだ後、深く一呼吸した。

「頭が見えた、会陰を切ります!」

 これで最後。残る力の一滴すら、精魂も、何もかも全て赤子に捧げようと声をほとばしらせた少女は無意識ながらに一層、男の手にすがった。
 きつく、きつく……蜻蛉かげろうのような白い身体から伝わる想い。締められて皮膚が白もうと、男は決して離さない。

「う……きょ、さ……」

 震える唇から愛しき名を零して男を見つめていた少女は、薄紫の瞳に柔らかさを宿した刹那、フッ……と瞼を下ろした。汗と涙で湿った頬に光が注ぎ、朝露のような煌めきを放ったまま動かなくなった姿に、男の息が止まった。

「…………っ!!」

 握られた手は緩み、指先がほどかれていく感触に思考が鈍る中、ついに──。

「産まれ……ましたっ……!!」

 母の苦しみと共に長い時を経て、穢れの無い澄みきった尊い命が産声を上げた。

「……男の子よ……」

 意識の彼方から真鶸の呟きが届く。
 赤子の、大地を揺るがさんとばかりに上げられる元気な産声に、少女の瞼は閉じられたまま。血色の失われた青白い顔と唇は、いくら赤子に泣かれようと応えることはない。

「……小毬……」

 男の手から、徐々に滑っていく少女の白い指先。
 在らん限りの力を以てすがっていた温もりは消え、やがてするりと離れ、落ちていった。
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