理由を与えなかった聖女は、名を呼ぶことを選んだ

鷹 綾

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第十話 それでも、戻る場所はなかった

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第十話 それでも、戻る場所はなかった

 

 エルディア王国の王宮では、夜が深まっても灯りが消えなかった。

 執務室の机に積まれた書類は、すでに人の背丈を超えそうなほどだ。
 だが、それを整理する者はいない。

 ――整理したところで、状況は変わらない。

 ルーファス・ヴァルディオスは、椅子に深く腰掛けたまま、天井を見上げていた。

「……偶然、ではないな」

 独り言のような呟き。
 だが、そこにはもう否定の響きはなかった。

 前聖女セラフィーナ・アッシュクロフト在任中の記録。
 その異常なまでの安定。

 事故は起きず、災害は避けられ、
 小さな不具合すら、いつの間にか解消されていた。

「何もしていない、だと……?」

 書類を握る手に、力がこもる。

 確かに、彼女は派手な奇跡を起こさなかった。
 民衆の前で光を降ろすことも、
 神託を高らかに告げることもなかった。

 だが――
 その“何もなさ”こそが、
 国を支えていたのではないか。

「……馬鹿げている」

 否定するように呟きながら、
 心の奥では、すでに答えが出ていた。

 

 同じ頃、王宮の祈祷室。

 ミレイア・ルミナスは、膝をついたまま動けずにいた。
 今日だけで、三度目の祈祷。

 光は、確かに降りた。
 だが、祈祷を終えた直後に届いた報告は、
 彼女の心をさらに追い詰める。

「……西部の橋が、一部崩落?」

 使者の声が、震えている。

「幸い、通行人はいませんでしたが……
 修復には、かなりの費用が……」

「……わかりました」

 ミレイアは、ゆっくりと立ち上がった。

 ――また、“大事にはならなかった”。

 それが、何よりも苦しい。

 救えた実感がない。
 祈りが届いた手応えもない。

 ただ、悪化を止められなかったという事実だけが、
 胸に積み重なっていく。

「……私は、何を間違えたの?」

 答えは、返ってこない。

 

 夜半。

 ルーファスは、ついに側近を呼び出した。

「……前聖女の行方を調べろ」

 低い声。

「居場所がわかり次第、私に報告しろ」

 側近は、一瞬だけ迷いを見せたが、
 やがて深く頭を下げた。

「……承知しました」

 扉が閉じる。

 ルーファスは、両手で顔を覆った。

「……戻せばいい」

 それは、祈りにも似た言葉だった。

「彼女が戻れば……
 すべて、元に戻る」

 だが、その考えは、
 あまりにも“自分本位”だった。

 

 一方、シュヴァルツガルト公国。

 セラフィーナは、城の裏庭で、
 静かに風に吹かれていた。

 木々は揺れ、葉擦れの音が心地よい。
 ここでは、今日も“何も起きていない”。

「……向こうは、私を探しているそうです」

 背後から、アーヴィンの声がした。

「やはり、ですか」

 彼女は振り返らず、そう答えた。

「正式な使者ではありません。
 まだ、“確認”の段階でしょう」

「……そう」

 胸が、少しだけ締めつけられる。

 だが、それは未練ではない。

「戻れば、何かが良くなると……
 彼らは、思っているのでしょうね」

「思っているだろう」

 アーヴィンは、否定しなかった。

「だが、それは
 “君が耐えれば済む”という考えだ」

 セラフィーナは、静かに息を吐く。

「私は……
 何も起こらない日々を、
 ここで初めて“好き”だと思えました」

 それが、答えだった。

 

 翌日。

 エルディア王国では、
 王太子自らが動いた。

「……私が、直接交渉する」

 周囲は止めたが、
 ルーファスは聞かなかった。

「彼女が戻れば、国は救われる」

 その言葉に、
 誰も確信を持って頷けなかった。

 

 シュヴァルツガルト公国では、
 セラフィーナが静かに紅茶を口にしていた。

 温かく、苦みの少ない味。

「……平穏、ですね」

「それを守るために、
 君が犠牲になる必要はない」

 アーヴィンの言葉は、
 揺るぎなかった。

 セラフィーナは、微笑む。

「ええ。
 私は、もう戻りません」

 

 この時点で、
 エルディア王国は、まだ“交渉できる”と思っていた。

 まだ、話し合えば何とかなると。
 まだ、謝れば戻ってくると。

 だが――
 彼らは、決定的に理解していなかった。

 戻る場所そのものが、
 もう存在しないということを。

 それに気づくのは、
 もう少しだけ、
 後の話だった。
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