理由を与えなかった聖女は、名を呼ぶことを選んだ

鷹 綾

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第三十一話 名を呼ぶという、最初の反逆

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第三十一話 名を呼ぶという、最初の反逆

 

 名を呼ぶことは、
 最も静かな反逆だ。

 叫ばず、
 殴らず、
 壊さない。

 ただ――
 人を、人として扱う。

 

 エルディア王国の片隅、
 夜明け前の薄暗い通り。

 小さな集住区域の入口に、
 一人の女が立っていた。

 兵はいない。
 看板もない。

 あるのは、
 境界線のような
 沈黙だけ。

 

 女は、
 外套のフードを外し、
 静かに一歩踏み出す。

 それだけで、
 周囲の空気が
 変わった。

 

「……おはようございます」

 

 声は、
 大きくない。

 だが、
 はっきりと
 届いた。

 

 集住区域の中で、
 数人が
 顔を上げる。

 警戒でも、
 期待でもない。

 驚きだ。

 

 女は、
 一人の老人の前に
 立った。

「あなたは、
 ヨアヒム・レーヴェンさんですね」

 

 老人の目が、
 見開かれる。

「……なぜ、
 私の名を」

 

「記録に、
 残っていました」

 女は、
 淡々と答える。

「工房主。
 評価“要改善”。
 支援対象外」

 

 周囲が、
 ざわめく。

 

 だが――
 次の言葉で、
 すべてが
 止まった。

 

「ですが、
 あなたは、
 あなたです」

 

 老人は、
 言葉を失った。

 

 女は、
 次へ進む。

「ミーナ・クラフトさん。
 露店主。
 配給停止」

 

「エルンスト・バルク。
 元官吏。
 自主退職扱い」

 

 名を、
 一つずつ。

 丁寧に。

 

 それは、
 救済の宣言ではない。

 約束でもない。

 

 確認だ。

 

 ――あなたは、
 数ではない。
 項目ではない。
 切り捨てる理由でもない。

 

 人々の呼吸が、
 少しずつ
 変わっていく。

 

 恐怖でも、
 歓喜でもない。

 思い出すという
 感覚。

 

 一人の若者が、
 震える声で
 尋ねた。

「……あなたは、
 誰ですか」

 

 女は、
 少しだけ
 間を置いてから
 答えた。

 

「私は、
 通りすがりです」

 

 嘘ではない。

 

 だが、
 真実でもない。

 

 王宮では、
 すでに
 異変が報告されていた。

「……集住区域で、
 不審な人物が
 人々に接触しています」

 

「扇動か?」

 

「いえ……
 要求は、
 一切ありません」

 

 報告官は、
 困惑した表情で
 続ける。

「ただ、
 名前を
 呼んでいるだけです」

 

 会議室に、
 ざわめきが
 走る。

 

「……危険度は?」

 

「不明です」

 

 その答えが、
 何より
 不穏だった。

 

 危険とは、
 通常、
 行動で測れる。

 暴力。
 集会。
 声明。

 

 だが――
 名を呼ぶだけの行為は、
 測れない。

 

 ルーファス・ヴァルディオスは、
 報告を聞き、
 目を閉じた。

「……誰だ」

 

 答えは、
 分かっている。

 

 だが、
 口に出した瞬間、
 何かが
 崩れると
 知っていた。

 

 一方、
 集住区域。

 女は、
 最後に
 こう言った。

 

「私は、
 何も与えません」

 

 人々が、
 息を呑む。

 

「でも――」

 

 彼女は、
 一人ひとりを
 見渡した。

 

「あなた方の名を、
 消させません」

 

 それだけ言って、
 女は
 背を向けた。

 

 誰も、
 引き止めない。

 追いかけない。

 

 だが――
 彼女が去った後、
 人々は
 初めて、
 互いの顔を
 見た。

 

「……あなた、
 ヨアヒムさん
 でしたよね」

 

「……ええ」

 

 名が、
 交わされる。

 

 それだけで、
 空気が
 変わる。

 

 その日の夕方。

 集住区域の片隅で、
 小さな紙が
 回り始めた。

 

 ――
 「名を呼ばれた者は、
 ここに記す」

 

 名前が、
 一つずつ
 増えていく。

 

 数ではない。
 評価でもない。

 

 名簿だ。

 

 王宮に、
 その情報が
 届いた時。

 側近の一人が
 青ざめた。

「……殿下、
 これは……」

 

 ルーファスは、
 静かに言った。

「分かっている」

 

 名簿は、
 武器ではない。

 

 だが――
 名簿を持つ者は、
 次に
 問いを投げる。

 

 ――
 誰が、
 消したのか。

 ――
 なぜ、
 消したのか。

 

 名を呼ぶという行為は、
 最初の反逆だ。

 

 それは、
 王を倒さない。

 制度も壊さない。

 

 ただ――
 人を、人に戻す。

 

 そして、
 人に戻った者たちは、
 もう一度、
 同じ言葉を
 口にする。

 

 「私は、
 ここにいる」

 

 それを、
 この国が
 どこまで
 無視できるのか。

 その限界が、
 いま、
 試され始めていた。
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