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59. 甘くて幸せ
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慌ただしい一日となったその日の夜。
いつものように寝る前に私の部屋を訪ねて来てくれたリシャール様。
色々あったせいか、話したいことが沢山で今日はいつもより話し込んでしまう。
「……まさか、フルールが弟の名前を知らずにずっと話していたとは思わなかったよ」
「前にリシャール様から名前を聞いたような気はしたのですが」
「が?」
「あまり印象に残らず、そして記憶の彼方に追いやって全く覚えていませんでした」
素直に白状すると、リシャール様はクスッと笑った。
「それじゃ、フルールはずっとあいつのことは、心の中では弟呼びしながら喋っていたの?」
「──んえっ!」
不意をつかれてしまい変な声が出てしまった。
「ん? えっと、フルール? なにその驚き方」
「え? いえ。そ、そうですね、弟、弟さん……と心の中では呼んでいましたわ!」
「……」
「……」
そう言って誤魔化してみたものの、怪しんだリシャール様に無言でじっと見つめられる。
(くっ……国宝級美貌の持ち主の視線は……手強い)
リシャール様はしばらくして小さく頷いた。
「……何だかアンベール殿の気持ちが分かってきたぞ。なるほど……」
「お、お兄様の気持ち?」
「うん……フルール、心の中で弟の名前、適当に名付けて呼んでいなかった?」
ギクッ!
リシャール様が鋭い!
「フルールのネーミングセンスは独特だから……」
「失礼な。ふ、普通ですわよ! ですが、リシャール様の弟さんの場合は……」
「うん、なんて呼んでたの?」
(……くっ! その顔、そのキラキラ顔は反則ですわ!)
私は観念して口を開く。
「ジ……」
「ジ?」
「───ジメ男ですわ! もう、顔を見た時からジメジメした空気を纏っているし、喋り始めても言っていることがジメジメジメジメしていましたから他に思い浮かびませんでしたわ!」
「ジ……」
ブフォ!
リシャール様が盛大にむせた。
「……ジ、ジメジメしていたから、ジメ男……?」
「はい」
「ジ、ジメ男……」
「私の中ではピッタリ過ぎて、せっかく聞いたはずの本名がすでに記憶から消えそうです」
(それで……結局なんだったけ?)
「ジメ男……ジメ男……」
リシャール様がお腹を抱えてククッと笑い、大きく身体を震わせている。
「それ、あいつ……が、し、知ったらショック……だろうな……だって名前を知られていなかっただけでテーブルに頭ぶつけていたんだぞ?」
「実は……本人を前にして何度か言いかけそうになった自覚はありますが、何とか踏みとどまりましたわ」
「……ぐっ! い、言いかけたんだ!?」
「はい……危うかったです」
ますますリシャール様は苦しそうにお腹を抱えながら笑い、ジメ男、ジメ男と繰り返していた。
「あれ? ───でもさ……伯爵家に乗り込んで来た時にはさすがに名乗っていたのでは? 挨拶があっただろう?」
一通り笑い終えたリシャール様が、首を傾げて不思議そうに訊ねてきた。
「いいえ。だって、あの公爵……我が家に乗り込んで来て部屋に案内した時から、ろくに挨拶もせずにそのまま偉そうにふんぞり返って話を始めてしまったんですもの」
「え……」
「ですから、その際も傍らにいた息子のことには一切触れず、まるで完全に添えられた置き物みたいになっていましたから」
私がそう説明すると、リシャール様は頭を抱えて遠い目をした。
「それは、実にあの人らしい……」
「……」
あれから、公爵家に戻った二人はリシャール様の言った通り、告発文書の内容を見て公爵家に来ていた役人たちに事実確認のため連行されて行った。
部屋から引きずり出されていた夫人は泣いて取り乱していたという。
「リシャール様は、提出済みの報告書や署名に関する事実確認の為に役人が来ることを見越して殴り込……突撃しようとしていたのですね?」
「うん。やっぱり誰かに見てもらうのが一番だと思ったから……でも」
リシャール様はそこで言葉を切ってしまったけれど、言いたいことは分かる。
まさか、先に突撃されるとは思わなかった、でしょうね。
私もよ。
続けてリシャール様は少し悲しそうな声で呟いた。
「僕も、一応血が繋がっているから、あの人と性格が似ている所があるんだろうか? それはかなり嫌だな」
「……どうでしょう? でも、私は大丈夫だと思っていますわ」
「どうして?」
リシャール様が顔を上げる。
その目がどこか不安そうに揺れていた。
(リシャール様は、リシャール様よ)
そう思った私はギュッとリシャール様の手を取り握る。
「……」
───チュッ
そして、そっと顔を近付けてリシャール様の頬にキスをした。
「……っっ!? フ、フルール!?」
不意打ちのキスに驚いたリシャール様が大きく動揺している。
そんなリシャール様の姿に思わず笑みがこぼれる。
「だって、リシャール様はきちんと痛みを知っていますもの」
「え?」
「知っているからこそ、他者に同じ気持ちを味わって欲しくない。そう思っているのでしょう? だから、同じ道は歩みません」
リシャール様がハッとした。
その表情を見た私は安心する。この人は大丈夫、そう思える。
「そうは言っても残念ながら、痛みを知っていながら平気で他者を傷付ける人というのは存在します」
「だろうね」
「でも、リシャール様は違う。ちゃんと立ち止まって考えられる人ですわ」
「フルール……」
リシャール様がじっと私を見つめる。
「それに私がいますわ!」
「え?」
「安心して下さい! リシャール様が間違った方向に走っていこうとしたら、この私が全力で追いかけて体当たりして引き止めて、正しい方向へと一緒に走りますから!」
「体当たり……」
驚いたのか、リシャール様の目が大きく見開かれる。
その顔が可笑しくて可愛い。でも、愛しい。
「一緒に走るんだ?」
「そうですわ! だってリシャール様は知っているでしょう?」
「知っている? 何を?」
「……」
私は目線を自分の足元に落とすとスッと寝着の裾を上げて足を出す。
ここにお兄様がいたら、何で足を出す!? 淑女はどこ行った! と怒られてしまいそうだわ。
「え!? 待っ……フルール……あ、足! 足がっっ!」
リシャール様が真っ赤な顔でうろたえている。
でも、その目はきっちり私の足を凝視していた。
「見てくださいな──私、この通り足には自信がありますから。だから、一緒にリシャール様と何処までも走れますわよ!」
「う……フ、フルール!」
ガバッとリシャール様が勢いよく私を抱きしめる。
「……あ、ありがとう」
そう言ったリシャール様の声が震えている気がした。
なので、腕をそっと背中に回してさすっていたら、リシャール様がしみじみと言う。
「フルールと走る道は従来の道とは、ひと味もふた味も違うんだろうな」
「……どういう意味です?」
リシャール様はギュッと強く私を抱きしめる。
「皆がこの道はちょっと……と躊躇うような道でも、何とかなるわ! ってその可愛くて強い笑顔で言い切って前へ前へと突き進みそうだ」
「そ、そこまで無鉄砲ではないわ………………多分」
何とかなるわ精神が完全に否定出来なかったので多分、と付け加えたらリシャール様が小さく吹き出した。
「本当にフルールのそういう所…………可愛くてたまらない」
「あ……」
「好きだ──」
リシャール様は少し身体を離すと軽く私の顎に手をかけて顔を持ち上げる。
そして、私たちの目が合うと優しく微笑んだ。
その微笑みにドキドキしながら目を瞑ると、そっと唇に優しいキスが降って来る。
それはとても、甘くて幸せな味がした。
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