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336. 天使の笑顔
しおりを挟む「う、うぅ……」
「……お、お嬢様」
「ミレーヌ……さま」
ミレーヌのそばの山からは、使用人たちの苦しそうな呻き声が聞こえてくる。
「マンマァ~」
「ミレーヌちゃん!」
ミレーヌは、私を見つけるとにっこにこの笑顔で立ち上がる。
そしてヨチヨチとこっちに歩いて来た。
私はそんなミレーヌを抱きとめる。
「ミレーヌちゃん。皆、力尽きているけれど、何して遊んでいたの?」
「オイッオー」
「オイ……なるほど。追いかけっこね?」
「あい!」
さすが私の娘。
ハイハイが出来るようになった頃から、日々私と走り込んでいたこともあり、動き回るのが大好き。
「ミーア、キャー!」
「え? 皆がキャーッて逃げていくのを追いかけるのが楽しい?」
「あい!」
満面の笑みで頷くミレーヌ。
「ミレーヌちゃん……」
可愛い可愛い娘は野生の勘だけでなく、どうやら野生の本能も目覚めているみたいですわ。
「それで追いかけっこしていたけれど、使用人たちはミレーヌちゃんの体力に着いていけずどんどん脱落していったのね……?」
「アウアア~」
私は力尽きた使用人たちの山を見つめる。
呻き声が聞こえるので皆、意識はありそう。
「ん? 廊下にあったはずの花瓶や壺がありませんわね? ……危険な物は予め遠ざけてある所が、さすが我が家の使用人たちですわ」
使用人たちに追いかけっこの心得が出来ていることに私は大きく感心する。
「マンマァ~、アッグゥア~」
「ミレーヌちゃん?」
ミレーヌがしきりに私のお腹に向かって手を伸ばして何かを言っている。
「オッウァー……」
「あら、ミレーヌちゃん。もしかして赤ちゃんにも“おかえり”って言ってくれているの?」
「あい!」
ニパッといつもの笑顔を見せるミレーヌ。
そして一生懸命、赤ちゃんにアウアウ話しかけている。
(すでに仲良しこよしですわ~)
なんとも微笑ましい光景にニンマリした。
「さて、こうしてもいられないわ? 使用人たちの無事を確かめないと」
「うじ?」
「そうですわよ? 意識はあるのか無いのか、そして怪我などもしていないか確かめなくちゃいけませんわ!」
きょとんとしているミレーヌに私は説明する。
「いいこと? ミレーヌちゃん。こういう時はペチペチが有効ですの!」
「イェチイェチ……」
「そうですわ。ペチペチされた時の反応でそれぞれの意識レベルが分かりますからね!」
私は身振り手振りでペチペチをミレーヌに説明する。
ミレーヌはそれを一生懸命真似をしようとする。
可愛いですわ!
胸がキュンキュンした。
「いい? ミレーヌちゃん。軽くですわよ軽く! 強くペチペチするとお顔が大変なことになってしまいますから」
「おあお?」
「───そうですわ。ですからお顔は大事にしましょう!」
「あい!」
ミレーヌはお利口さんなので、すぐに理解してコクリと頷いてくれる。
こうして私とミレーヌは共に使用人たちをペチペチしながら意識レベルを確かめていった。
───
「そ、そうか……それで、ずっとその後は二人で倒れていた使用人の頬をペチペチして回っていたんだ?」
「ええ!」
帰宅したリシャール様が私の報告を聞いて苦笑している。
「なるほど。それで使用人たちの頬の様子が……」
「ミレーヌちゃんは天使のような笑顔でペチペチしていましたわね」
「天使の笑顔…………それ、使用人たちからすれば天国なのか地獄なのかよく分からなかっただろうなぁ」
チラッとリシャール様がミレーヌに目を向ける。
さすがのミレーヌも今日は疲れたのか、帰宅したリシャール様に元気いっぱいに飛びついた後は、すぐにそのまま寝てしまった。
(天使の寝顔ですわ~)
「ところでフルール。今日、王宮が騒がしかったけど何か知っている?」
「え?」
「ジェルボー侯爵夫人が錯乱して暴れていたとか聞いたんだけど」
「ジェル……」
モッサリ眉毛夫人のことですわね!?
私はニコッと笑う。
「その顔……やっぱりフルール絡みだったか」
「帰るところで声をかけられましたのよ」
リシャール様は腕を組むと、うん……と唸る。
「先日、フルールが五度目の贈り物ですわね、と言って侯爵家に花束を贈って以来、あそこの当主の姿を見ていない」
「ええ。失恋のトラウマを抉られて寝込んでいるそうですわ」
「失恋!?」
私は陛下や夫人から聞いた話をリシャール様に伝える。
最初は、へぇ……と話を聞いていたリシャール様も、花束──ミレーヌが花を選んだと私が言った辺りから顔色が変わっていく。
「…………えっと、つまりミレーヌは」
「はい! やはりミレーヌちゃん、とてもとても野生の勘が素晴らしいですわ!!」
「え、うん? そ、そういうことなんだろうけど……え? 花を贈られただけなのに破滅寸前まで追い込めるの!?」
「すごい時代になりましたわ……」
私がふぅ、と息を吐いてそう口にすると、リシャール様が苦笑する。
「まるで、悪いことは出来ないぞ! という見本のようだ……」
「夫人……不貞だけでなく横領していたとも口にしてしまっていましたわ?」
「真っ黒じゃないか!」
リシャール様はやれやれと肩を竦める。
「驚いた。ジェルボー侯爵はいつでも強気だったからね」
「そんなにですの?」
「うん。僕も顔を合わせる度に嫌味を言われていた」
「なんですって!?」
こんなにも完璧なリシャール様に向かって嫌味!?
「え? そんなに驚く? いつも夫人の方だって結構フルールに……」
「?」
「あ……」
私が首を傾げると、リシャール様は小さく笑った。
そして私の頬を優しく撫でる。
「って、そうだった。嫌味は通じないのがフルールだった……ね」
「旦那様……」
「ミレーヌはフルールに似てその辺も強くなりそうだなぁ……いや、もうすでに強いか」
「ふふふ」
私が笑うとリシャール様がそっと私の額にチュッとキスをした。
そして私のお腹をそっと擦りながら言う。
「この子はどんな子かな……」
「ミレーヌに負けず劣らずの元気いっぱいな子かもしれません」
「いやいや、ミレーヌに振り回される苦労性な子になるかも……」
「───それは、とっても楽しい人生になりますわね!」
そんな少し先の未来を想像しながら二人で笑い合った。
そして、あっという間に月日は流れ……
ミレーヌもお腹の子もすくすく順調に成長し───
「あら? お手紙?」
「パンスロン伯爵家からです」
「アニエス様から?」
私の分厚い手紙に対する返事ではないお手紙なんて珍しいですわ……
そう思って開封すると……
「まあ! 旦那、旦那様ーーーー! ミレーヌちゃん!」
手紙を読んだ私は隣の部屋で踊っている二人を大声で呼ぶ。
しっかり歩くようになったミレーヌは最近、踊りにハマっている。
「フルール? どうかした!?」
「おかーたま!? あかたん!?」
私の声を聞いた二人が慌てて駆け込んで来る。
何かを期待したのかミレーヌの目はキラキラ輝いていた。
「えっと、我が家の赤ちゃんはまだみたいよ。でもね?」
「ん? それはパンスロン伯爵家の?」
リシャール様が私が手に持っていた手紙を見つけてハッとする。
「ええ、アニエス様の所に可愛い赤ちゃんが生まれたそうですわ!」
「あかたん?」
私はミレーヌの頭を撫でる。
「お母様の大親友の所に赤ちゃんが生まれたのよ、男の子ですって」
「だー?」
「そうよ、ミレーヌちゃんが察知して私に教えてくれたあの子よ?」
「?」
ミレーヌは不思議そうに首を傾げている。
「男の子だったんだ?」
「らしいですわ。母子ともに健康! この手紙によると、ついに待望のおじいちゃんとなった陛下のしつこいお見舞いが邪魔! と書いてありますわ」
「公務しようよ……陛下」
「おじーちゃー?」
アニエス様が臨月を迎えた頃から陛下がソワソワしていて落ち着きがなくなったとは聞いていたけれど……
これで、お母様との孫自慢対決も捗るのでしょう。
「ミレーヌちゃん! あなたはお姉さんとしてたくさん遊んであげるのよ?」
「あそぶ! いっぱい!」
ミレーヌはニパッとした笑顔で頷く。
「ミレーヌのことだから、全力で追いかけ回すんだろうなぁ……」
その横でリシャール様がポツリとそう言った。
そう。
すでにお兄様のところの子ども───いとこ相手にミレーヌはやらかしている。
おかげで甥はミレーヌにも負けないくらいの高速ハイハイを会得していましたわ。
『フ、フルール……ミレーヌはどこまでも俺を追いかけていたベビフルールにそっくりだ!』
お兄様は、自分の息子を追いかけ回すミレーヌを見ながら、感激して身体をガタガタ震わせながらそう言っていた。
『あれは───間違いなくブランシュの血だろうな……』
また、その横でお父様はお母様との過去を思い出しながらそう呟いていましたわ。
(大好きなものは追いかけたくなりますわよね! 分かりますわ~)
「んー、でもミレーヌちゃん。我が家の赤ちゃんは、もう少しお腹の中で過ごしたいそうですわ」
胎動を感じるようになってからこの子はかなり活発で、今もゴロンゴロンとでんぐり返しをしているのが分かる。
お腹の中での生活をまだ、満喫したいらしい。
「あかたん、いいこ?」
「ええ。今日も元気いっぱい! いいこにしているわよ!」
「ミレーヌもいいこだよ」
「おとーたま……」
リシャール様にそう言われながら頭を撫でられて、えへへ~と笑うミレーヌ。
そのはにかむ顔がもう天使! 天使ですわ!
(赤ちゃん、あなたのお姉様はどんどん天使になってますわよ!?)
そんな大親友の嬉しいお知らせから、約一ヶ月後───
「はっ! 赤ちゃん!?」
ポコポコポコ……
赤ちゃんからまるで、何かを訴えるかのようなお腹のポコポコが開始された。
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