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支配の蠱毒
オシャンティバー・アルカディア
しおりを挟む深海のようなエレベーターは、最上階へ私たちを運んだ。
呂希さんに連れられるままに入ったお店は、『アルカディア』と書かれた金属製のプレートが、壁際にひっそりと貼り付けられていた。
青い重たい扉を開くと、鈴の鳴るようなする。
整然と並んだシンプルなシャンデリアが橙色に室内を照らしている。
大きな窓が並んでいて、雨に濡れる街を眼下に見下ろすことができる。
私の住んでいる晴海地区の象徴である、ミハラシ展望台も、少し離れた場所に聳え立っているのを見ることができた。
夜になるとライトアップされるミハラシ展望台は、今日は深い青色に輝いている。
よく晴れた日なら、きっと星も綺麗に見えるのだろう。
まるで空を飛んでいるように高所から見下ろす景色に、一瞬眩暈を感じた。
ゆったりとしたソファセットがいくつかと、カウンターには丸いすが並んでいる。
静かな音楽が流れる店内は、私のような制服を着た未成年にとってはどうにも場違いに感じた。
バーカウンターの背後には、大きな水槽がある。
汚れひとつない大きな水槽の中には、青や赤や黄色のライトを照らされて、不可思議な色合いに輝き続ける海月が泳いでいる。
お客さんの姿は一人もない。
時刻は午後八時を回っているので、お酒を飲むためのお店は、そろそろ賑わい出しても良い頃だけれど。
雛菊さんのお店にも、この時間帯になるとお酒を目当てのお客さんが来る。
ーー今日はアルバイト、無断欠席してしまった。
雛菊さんに連絡を取らなきゃいけないのに、携帯は学校に忘れてきた。
携帯がなければ電話番号もわからない。
私と外の世界のつながりは、あの小さな機械がなくなると失せてしまうような、希薄なものだ。
「あら、呂希ちゃん、いらっしゃい。呂希ちゃんがお友達を連れてくるなんてめずらし……って、誰!? 彼女!? 可愛いじゃないのおお……っ!」
静かな店内に、甲高い悲鳴が響いた。
バーカウンターの中から、背の高いすらりとした男性が、身を乗り出すようにしてこちらを見ている。
一度見たら忘れないような、派手な顔立ちをした、綺麗な男の人だった。
ゆるく癖のある黒髪に、好奇心に輝く鳶色の瞳。
バーテンダーのスーツをかっちり着こなして、隙も乱れもない作り物みたいな綺麗な人なのに、驚きに見開かれた瞳や野太くハスキーな声や、大きく開いた唇に、親しみやすさが感じられた。
「マリアンヌちゃん。メロンソーダ、二つ」
呂希さんは私をカウンター席に座らせると、自分も隣に座った。
「あと、ご飯食べてないから。なんか美味しいもの作って。どうせクルミとかアーモンドしかないんだろうけど」
「オシャンティバーを定食屋みたいな扱いするんじゃないわよ! なんと今日はタコがあるわよ。タコのカルパッチョ」
「だからこの店嫌いなんだよ。僕、おにぎりが食べたい」
呂希さんは本当に嫌そうにため息をついた。
マリアンヌちゃんと呼ばれた男性は、腕を組んで呂希さんを軽く睨む。
「メロンソーダとおにぎりとか、どんな組み合わせよ。まだタコのカルパッチョの方がマシじゃないの。ま、あたしもタコのカルパッチョよりも油マシマシ背脂豚骨ラーメンの方が好きだけど。じゃなくて、呂希ちゃん。彼女? 彼女なの? こんな可愛い子が呂希ちゃんの彼女? 三度の飯より性格が悪いと評判の呂希ちゃんに、彼女?」
「マリアンヌちゃん、うるさい。あと、三度の飯と性格の悪さは関係ない」
呂希さんは、感情の動きが分かりずらい平坦な声で言葉を返す。
私の知ってる呂希さんとは別人みたいだけれど、私の方を見て「杏樹ちゃん、ごめんねぇ、うるさいよねマリアンヌちゃん」と困り顔をする呂希さんは、やっぱりいつもの呂希さんだった。
「杏樹ちゃんって言うのね、あんた。可愛いわねぇ、可愛いわ。可愛い子には特別優しいこのあたし。愛の堕天使、シゲミ・マリアンヌちゃんが、あんたに特別な~メロンソーダを、あげる~わよ。冷たいんだからぁ」
マリアンヌちゃんは体を奇妙にくねらせながら、不思議な音程で歌を歌った。
呂希さんが「そういうの良いから、早くして」と冷たい声音で言った。
「どこで知り合ったの? イケメンなのに極度の人間不信でめんどくさがりな呂希ちゃんと一体どこで? 呂希ちゃんがこんなにお話ししてくれるのはこの店始まって以来の大事件よ。天変地異が起こるわよ。恋は人を変えるのね、あの日あの時あの場所で君に会えなかったら人生変わってたぐらいの、恋! ラブ!」
てきぱきと手を動かしながら、マリアンヌちゃんが話をし続けている。
呂希さんはマリアンヌちゃんに返事をする気がないらしく、私の方を見て「うるさいけど気にしなくて良いよ。マリアンヌちゃんの鳴き声みたいなものだから。犬の遠吠えと一緒」と言った。
「誰が犬よ。あたしは犬っていうよりも、ヴィーナスよ」
「あ。聞こえてた」
「はい、杏樹ちゃん。特別特性メロンソーダよ。はい、呂希ちゃん。普通のメロンソーダよ」
私の前に置かれたのは、細長いグラスに入ったメロンソーダだった。
ストローと長いスプーンが入っている。
泡の弾ける緑色の液体の上に、ふわりとしたアイスクリームがのっている。アイスクリームの上には、鮮やかな赤色をしたサクランボが乗せられていた。
懐かしさに胸の奥がつきりと痛む。
メロンソーダなんて今の私には贅沢な飲み物だ。
もう、無縁なものだと思い込んでいた。
呂希さんの前にも、私と同じものが置かれていた。
「ちょっと待っててね。流石にタコのカルパッチョをお腹をすかせた女子高生に食べさせるとか、罪悪感がマッドマックスだから、ナポリタンを作っちゃうわね。オシャンティバーといえばナポリタン。ケチャップと玉ねぎとハムとピーマンだけでできる、お手軽料理なのに三千円とか取っちゃうやつ~」
マリアンヌちゃんが再び歌い始めた。
挨拶をする暇も、口を挟む暇もなかった。
私は呂希さんに促されて、メロンソーダのストローに口をつけた。
甘くてシュワシュワして、懐かしい味がする。
体の疲れや緊張が、ほぐれていく気がした。
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