称号は神を土下座させた男。

春志乃

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本編 2

第八話 説得する男

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「私は帰らんと言ったら、帰らん」

 ソファにどかりと座り、腕と足を組んで、不機嫌を隠そうともせずにナルキーサスは宣言した。
 彼女の向かいに置かれたソファに座る真尋は、呆れたようにため息を零し、はす向かいのソファに双子に挟まれて座る一路が困ったように眉を下げた。
 ここは馬車の中の家のリビングだ。既に外は真っ暗だ。領主様がいるグラウの町はすぐそこだが、グラウもブランレトゥ同様、夜間は門が閉ざされているため、今夜は平原で一夜を明かすことになった。とりあえず、ロボに見張りと警備を任せて部屋割を決めようと中へ入るとナルキーサスがリビングのソファで本を読んでいたのだ。

「あの、ナルキーサス様はいつの間にこちらに?」

 真尋の背後に立つリックが首を傾げる。リックの隣にはアゼルがいて、その隣にはエドワードがいる。
 リックの問いにナルキーサスが答えるより先に真尋は口を挟む。

「アゼルが荷物を馬車に乗せようとした時、よろけただろう?」

「は、はい。あの時、踏み外したっていうよりは何かに押されたような気がして……」

 アゼルが慌てて答える。

「その通り、お前は足を踏み外したのではなく、キースに押しのけられてよろけたんだ」

「は?」

 真尋とナルキーサス以外の人間が疑問符を大量に頭上に浮かべている。
 真尋は、双子の手前、煙草を吸いたいのをぐっと我慢しながらそれに応えるべく先を続ける。

「……隠蔽魔法で自分の姿を隠して、無理矢理馬車に乗り込んだんだ。お前たちが見抜けないのは仕方がない。キースは、俺を除けば、アルゲンテウス領で最も優れた魔導師であり、この王国でも指折りだからな」

「そういうことだ。マヒロとイチロが現れるまで、私の魔力に敵う者はいなかったのだ」

 ナルキーサスはぽかんとしている彼らを可笑しそうに笑いながら真尋の言葉を肯定した。
 隠蔽はスキル必須の魔法だ。一路が見抜けなかったのは、彼が隠蔽スキルを持っていないのもあるが、これに関してはナルキーサスの実力が相当なものだからだろう。今頃、蛻の空となった部屋に気付いたレベリオが発狂していてもおかしくはない。

「な、なんであの時、何も言わなかったんですか?」

「あそこで俺が言ったところで、夫婦喧嘩が始まるだけに違いなかったからだ。それにキースならグラウから自力で帰れるだろう? 何だったら領主様の護衛も出来る」

 これが見るからに戦闘向きではないティナやアマーリアであるとか、プリシラのような方向音痴なら面倒を承知で突き出しただろうが、ナルキーサスなら、自分の身を護るくらいは容易い筈であるし、領主様は領都に帰るのだから、それに同行させればいいとも思ったのだ。他でもないナルキーサスなら、身分的にも肩書的にも領主様に同行しても何ら問題はない。

「そりゃそうですが……」

「私は帰らん。マヒロが評価してくれた通り私は自分の身は自分で守れるし、私は優秀な治癒術師だ。居て損はないだろう? そもそも私は私の父に会いたくてエルフ族の里に行くんだ。帰る理由はない」

 リックたちの気まずげな視線が向けられた先でナルキーサスは、またもきっぱりと言い切った。
 ご丁寧に夫のものでも拝借して来たのか、彼女は騎士服姿で無駄に様になっている。

「それにあれとは離縁をする」

「はぁぁあ!?」

 四人分の絶叫のうるささに真尋は思わず顔を顰める。双子も声こそ上げなかったが、離縁の意味は分かるらしく大きな瞳を丸くしている。

「り、離縁ってあの、そんな急に……っ」

 一路があわあわしながら言った。

「急ではない。かれこれ十年以上は離縁して欲しいと私は言い続けているが、あいつが一向に受け入れないだけだ」

 さらりと告げられた言葉に一路たちが顔を見合せ、真尋を振り返る。真尋に答えを求められてもそんな夫婦の繊細ないざこざの中身までは興味もないので知らない。

「何故、レベリオ殿と離縁したいんだ?」

 真尋の問いにナルキーサスは、僅かに自嘲の混じる笑みを浮かべた。

「夫婦でいる意味がないからだ。夫君は、ほとんど屋敷に帰って来ない。顔を合わせるのも仕事を除けば月に一度、あるかないかだ。会話もなく、触れ合いもない、子もいない。顔を合わせれば、男装は止めろ、あれは止めろと私の生き方を否定ばかりする。……夫婦である必要がないだろう?」

 いつも自信に満ち溢れて輝く黄色の瞳が、一瞬だけ酷く悲し気に揺れた。
 レベリオとナルキーサスがいつ、どのように出会い、どのような日々を経て結婚に至ったのかは知らないが、やはり夫婦のことというのは外からでは分からないことが山のようにある。
 どうするの、と一路が目だけで問うてくる。真尋は、ため息を零して肩を竦める。

「……分かった。どうせグラウで帰れと言っても君は帰らないだろう?」

「流石、我が友は理解が早い!」

 ナルキーサスが嬉しそうに手を叩いた。
 彼女の言葉通り、ナルキーサスは非常に優秀な魔導師だ。彼女がいてくれれば、万が一、誰かの具合が悪くなったり、怪我をしたりしても安心であるし、これから行くことになるエルフ族の里でも存分に活躍してくれるだろう。

「その代わり、君はエルフ族と妖精族のハーフなんだろう? なら、君は双子の護衛とケアを頼む」

 ナルキーサスが双子を振り返る。ナルキーサスが優しく笑い掛ければ、双子は安心したように表情を緩めた。

「私はティリアです。こっちは弟のフィリア」

「私はナルキーサスだ。君たちは私の父を知っているかな? エベヌムと言うんだが」

「エベヌムおじいちゃま?」

「知ってる! いつもお菓子をくれる!」

「ははっ、そうか。父上は相変わらず甘いものが好きなようだ」

 知り合いの娘だと分かると双子は一気にナルキーサスに親近感を持ったようだった。

「とりあえず、キース。君は、ティリアとフィリアと共に三階のフロアを使え。俺たちが二階の部屋を適当に使う。風呂は各階にあるから三階を女性用、二階と一階を男性用にする。トイレも俺たちは二階と一階、女性は三階を専用にしてくれ」
 
「分かった。食事はどうする?」

「食事は各自でどうにかしてくれ、キッチンはダイニングの隣にあるし、食材もある程度用意してある」

「君の五月蠅い舌には合わんかも知れんが、それでもよければ私が作るぞ? こうみえて料理は得意だ。実は今日も勝手に食材を拝借して一応作ってある」

「……変な薬は入れていないだろうな?」

「流石の私もこの馬車の中では入れんよ。追い出されては困るからな」

 ナルキーサスはケラケラと笑いながら言った。
 それからナルキーサス手製の食事をとり、双子とナルキーサスは三階へと上がって行った。彼女の料理は内心、どぎまぎしながら食べたが普通に美味しかった。本当に変な薬などは入っていないようだったので、一路たちの賛成も得て正式に食事係も頼んだ。
 男だけになったリビングで、真尋は漸く吸えると煙草を咥えて火を点けた。

「真尋くん、本気でキース様を連れて行くの?」

「お前は俺があれこれ言ったところでキースが帰ると思うのか?」

「……思わないけど」

「だろう? 幸い、彼女は優秀な魔導師だ。多少、人間性に難はあるが、能力的には居てくれた方が助かる。それに帰ったところでレベリオ殿の傷が増えて、閣下の胃痛が加速するだけだ。キースも責任ある立場で彼女が一番それを分かっている。それを放り出しても飛び出してきてしまった理由があるんだろう。詳しいことは知らないが、彼女の言葉を信じれば二十年分の鬱憤が今回、何かのきっかけで爆発してしまったんだろう。今はまだ爆発と共に燃え上がった炎は鎮火していないようだし、一度、距離を置いて頭を冷やした方がいい。彼女もレベリオ殿もな」

 真尋の言葉には誰も反論は出来無いようで、彼らは苦笑を曖昧に浮かべて誤魔化した。

「さて、それで俺たちの部屋割だが、主寝室を俺と一路で使う。あとは一人一部屋好きな部屋を使え。ダブルベッドで一緒に寝たいというなら主寝室を譲ってやる」

「いえ、各個人で使わせて頂きます」

 リックがきっぱりと言い切り、エドワードとアゼルが安堵したように息を吐きだした。

「守護魔法をかけてあるから魔獣も人間もこの馬車には近づけん。まあ外にはロボがいるから、そもそも魔獣は近寄って来ないと思うが……だから見張りはいらんからさっさと寝ろ」

「分かりました。では、失礼いたします」

 リックが素直に頷き、エドワードとアゼルも「失礼します」と頭を下げるとリビングを出て行く。真尋は、ぱたんとドアの閉まる音を聞きながら紫煙を吐き出す。

「……キース様、大丈夫かな」

 一路がぽつりと呟いた。真尋はソファに身を鎮め、足を組みなおす。

「彼女は、神父という職業を馬鹿にすることも、俺たちの神様を侮辱することもないが……彼女は、欠片も神やその存在を信じていない。あれだけの奇跡を目の前にして尚、その存在を信じることが出来ないんだ。それは現実主義者という言葉で片付けてしまうには、酷く頑なで、物悲しい」

 ふーっと吐き出した紫煙が儚く消えていくのをぼんやりと目で追う。
 一路は何も言わなくて、真尋の言葉の先を待っているようだった。

「キースは、どちらかと言えば柔軟な考えを持つ人だ。老若男女、貧富問わず受け入れてくれるし、そこに隔たりを設けない。その彼女が唯一、受け入れることが出来ないのが、祈りだとか奇跡だとか、そういう理論で説明できない不確かなものだ」

 短くなった煙草に見切りをつけて、灰皿に押し付けた。
 ノアの治療をしてくれた時、初めてゆっくりと言葉を交わした際の彼女の言葉を思い出す。

『治癒術師は、奇跡なんてものに縋ってはならないんだよ。願うことすら愚かだ』

 酷く乾いて棘すら孕んだような声音だったこともはっきりと覚えている。
 もしかしたら、リックが暗闇に囚われ騎士としての自分に失望し打ちのめされたように、ナルキーサスも彼女の過去において、治癒術師である自分に失望し、打ちのめされたことがあるのかもしれない。

「でも、レベリオさんと喧嘩してる時、キース様、すごく辛そうな顔をする時があって、レベリオさんも酷く傷ついたような顔をするんだよ。本当にお互いに気付かせないような、ほんの一瞬に」

 一路が悲し気に告げる。
 相変わらず、自分のことには鈍いくせにそういうことには人一倍敏感だなと苦笑しながら立ち上がる。ソファに座ったままの一路が顔を上げて、真尋を見上げる。

「行って帰って来るまで、一か月以上はあるんだ。時間が解決してくれることも、きっとある」

「そういうもんかな」

「そういうもんだ。それよりさっさと俺たちも部屋に行くぞ。荷ほどきをしなければな」

「真尋くんはしなくていいよ。部屋が散らかってしょうがないから。それよりレベリオさんにでもウィルフレッドさんにでもいいから、キース様がここにいるって手紙を書いて」

「俺だって荷ほどきくらい出来るはずだ」

「六歳の娘に面倒見て貰ってる君が?」

「……分かった」

 一路の冷たい眼差しに真尋は素直に頷いたのだった。










「……あれは、あの大人げねえ親馬鹿は発狂しないか? 大丈夫か?」

「え? あー……うん、大丈夫、じゃない? 小鳥は町出ちゃうと使えないって昨日嘆いてたし、……多分」

 サヴィラは歯切れ悪く答えながら、様子を見に来てくれたレイが心配する先を振り返る。ベッドの上では、ミアがジョンに抱き締められるようにして眠っている。ミアの背にくっつくようにリースもいるが、父がこの光景を見たら大人げなくジョンをひっぺがす姿が想像に容易かった。
 父たちを見送った後、少ししょんぼりしていたミアだったが、ネネたちが遊びに来てくれたおかげで日中は元気に飛び回っていた。だが夕食を終え、ミアはティナと風呂を済ませてから、なんだか寂しくなってしまったようですんすんと鼻を啜り始めたそうだ。丁度、サヴィラは忙しいジョシュアと身重のプリシラに代わってリースを風呂に入れていたので、ジョンが側に居てくれて、それでそのまま父のベッドで二人は眠ってしまい、兄を探してくっついてきたリースもマヒロにミアを任されたという使命を思い出して、ミアにくっついて眠ってしまったのだ。

「お前、マヒロの味方じゃないのか?」

「俺としてはミアの婿は、ジョンがいいと思ってるから別に」

 レイの黄色の眼差しが驚いたように瞬いた。

「だって最優良候補だと思うよ。本人が婿に来るって言ってるし、身元もはっきりしてるし、ジョシュアの息子だけあって魔法と剣も筋が良いし、何より本当に、誠実で優しくて良い子だしね。ミアもジョンのことは憎からず想っているみたいだし……父様の一番の懸念は、レオンみたいな絶対に嫁を貰うことしか出来ない男だから。そうなってくるとレオンがどれだけ良い子だろうがなんだろうが、父様にとっては関係ないんだと思う」

「お前の父親、なんつーか本当に……あれだな」

「イチロが、母様のことに関しても父様はピオンの額より狭い心を持ってたって言ってたからどうにもならないよ」

「あー……あのロケットの嫁さんの絵、俺には絶対に見せてくれねえし、ジョシュにも見せてくれなかったって言ってた」

「リックとエディも強請って強請って、イチロが後押ししてくれて漸く五秒だって言ってた」

 相当だな、と呆れたようにレイが苦笑を零した。

「かなりの美女なんだろ?」

「うん。流石は父様のお嫁さんって感じ。でも、優しそうな人だよ」

「お前がそう言うなら、そうなんだろうな」

 そう言ってレイが微笑んで、大きな手がぽんぽんとサヴィラの頭を撫でた。
 マヒロと親子の縁を結んでから、こうして大人に撫でられることが増えた。なんだかそれは嫌ではないけれど、むず痒くて、照れくさい。サヴィラはその気持ちを誤魔化すようにレイを見上げて口を開く。

「レイは今夜は家にいるの?」

「おう。間違いなく大丈夫だろうが、一応な。でも、領主夫人がいるってだけで家にいてこれが貰えるんだから、いい仕事だぜ?」

 にやりと笑ったレイが親指と人差し指でわっかを作って見せながら言った。どうやら護衛報酬が発生しているようだ。とはいえAランクのレイを護衛に使うとなれば当たり前の話だ。少なくない額が動いているのだろうことは想像に難くない。

「ジョシュは?」

「ジョシュは騎士団に行ってる。俺は一階のサロンに今夜は一晩中いるから何かあったら呼べよ」

「うん、分かった」

 サヴィラが頷くとレイは「おやすみ」と告げて去っていく。その背が暗闇に見えなくなるのを見送り、ドアを閉めてベッドの上へと戻る。リースの隣に座り、ミアたちの寝顔を眺める。そっと手を伸ばしてミアの白い頬を指先でくすぐるように撫でた。

「大丈夫だからな、ミア」

 ミアが僅かにたじろいで息を止める。けれど、ミアはふにゃと寝顔を緩めるとラビちゃんを抱き直してジョンに身を寄せて、再び柔らかな寝息を零す。ほっと息を吐きだして、サヴィラもリースの隣に寝ころんだ。人族と獣人族である子どもたちは、サヴィラの冷たい体温に熱を分け与えて尚、温かい。そのぬくもりはとても心地よい。
 まだ貧民街に居た頃、サヴィラはこうして誰かと一緒に眠ることがどうしても出来なかった。ネネやルイスたちでさえ、一緒に眠ることが出来ずにいつも一人、おんぼろのかび臭いベッドで眠っていた。それはとても浅い眠りで、悪夢に魘されて飛び起きることも多々あった。あそこでも、そして、生まれ育った家でも安心して眠るということは一度も出来なかった。
 浅い眠りの世界で見ていた夢は、いつも生家の自室から始まる。カーテンが閉め切られて薄暗い部屋にいつもサヴィラは独りでいて、廊下へと続くドアを見つめていた。その時、心を支配していたのは紛れもない恐怖という感情で、そのドアが開いて無表情の実父が現れるのだ。そして、怒鳴りつけられて、只管にお前は駄目だと無能だと否定され、殴られる。夢の中なのに酷い痛みを伴っていたのは、体がその痛みを記憶していたからなのだろうか。跳ねるように飛び起きて、痛むわき腹や頬を押さえて、膝を抱えて夜を明かした回数は数知れなかった。
 けれど今は、そんなことはない。朝寝坊してしまうこともあるほど深く眠り、夢を見ても何だか他愛もないようなもので覚えていないことの方が多かった。そういう風になれたのはマヒロと親子になってからだ。マヒロの傍は驚くほど安心する。怖いものも哀しいものもない。
 養父となってくれたマヒロは、サヴィラを否定したことは一度だってない。いつだって誰に対しても「自慢の息子」と言ってくれる。あまりにも臆面もなく本当に誰にでもどこででも言って回るのでちょっと気恥ずかしいくらいだ。
 マヒロは家事と整理整頓こそ出来ないが、それ以外は完璧な人だ。だからそんなマヒロが自慢と言ってくれることがサヴィラにとって何よりの誇りだ。だから、父が不在なのは正直、サヴィラとて寂しいがミアを任せてもらえたこと、留守を任せられたことのほうがサヴィラにとって重要なことだった。大好きで尊敬する父に頼られているという事実が嬉しい。

「……父様、ちゃんと寝られてるかな」

 窓の外へ視線を向ける。薄らと雲が出ているが、今夜も二つの月は眩く輝いている。
 多分、幾ら優秀な馬たちとは言えども流石に今日中にはグラウには着いていないだろうから、野営しているのだろう。とはいえ、家を持ち歩くという無茶苦茶な発想の下に家を馬車の中にぶち込んだ父なので、寝心地はそんなに悪くないはずだ。

「おやすみ、父様」

 サヴィラは月に囁くように告げて、リースを腕の中に抱え込んでぬくもりを確保する。リースは起きる気配もなく、すやすやと眠っていて、そのぬくもりと穏やかな寝息に誘われて、サヴィラもゆっくりと目を閉じたのだった。








「……ナルキーサス様が、いない?」

 さて寝るかとプリシラとベッドに入ろうとした時、いきなり呼び出されて駆けつけて見れば、疲れ切ったウィルフレッドと苛立ちを隠しきれていないレベリオに迎えられた。
 団長室のデスクは相変わらず書類が山積みになっていて、片隅に置かれた灰皿からは吸い殻の山が今にも崩れそうな有様だった。見るからに忙しいというのが伝わってくる光景を見ながら、レベリオが苦々しく顔を顰め、口を開く。

「神父様をお見送りした後、少々、仕事をこなして昼食前に一度、屋敷に様子を見に行った時には部屋は空っぽでした。窓が割られていたので、逃走経路はあそこだと思うのですが……やはり私如きの魔力では彼女の逃走は防げなかったようです」

「それでナルキーサス様はどこに?」

「魔導院を始め、彼女が行きそうな場所は探したのですが、どこにも姿はなく、おそらく神父様について行ったものと思われます」

 何となく予想できた展開にジョシュアは苦笑を零す。
 屋敷のダイニングを滅茶苦茶にした切っ掛けがマヒロたちの旅に同行したいというナルキーサスの一言だったのだから、そう考えるのが普通だ。

「それで、俺を呼び出した理由は? まさか追いかけて連れ戻して来いとでも言うんですか?」

 勘弁してくださいよ、と割と本気を込めて言えば、ウィルフレッドが緩く首を横に振った。

「いや、今の状態でお前をそんな遠い所へやるわけにはいかないし、そもそもキースがお前の説得に応じて帰って来るとも思わない」

「だろうな」

 思わず飛び出た言葉にウィルフレッドは苦笑を零した。レベリオはバツの悪そうな顔をしている。
 ジョシュアとウィルフレッドは二つ違いと年も近く、領主家の人間とは言え三男であった彼は上二人に比べると比較的自由に行動していたので、彼の幼馴染でもあるアルトゥロも含め十代の頃から交流があった。
 だがレベリオは、現領主でもあるジークフリートの友人だったために交流がほとんどなかった。ジークフリートは次男であるため、このクラージュ騎士団の団長となるべく勉強も兼ねて王都の王家お抱えの騎士団に出向していたからだ。ジョシュアがレベリオと交流を持つようになったのは、彼がこの町にやって来てからでそれ以前のことは良く知らない。この町に戻って来た時には、レベリオとナルキーサスは既に夫婦だったが、彼女は王都の王立魔導院で働いていたので、仕事の片を付けるのに時間がかかり二年程遅れてブランレトゥにやって来てくれたのだ。
 当時、ナルキーサスは特効薬がなく致死率が異常に高い感染症の特効薬を生み出した有名人で、王都から遠く離れたこの地の人間でさえ彼女の名前を知っていて、その功績を讃えていたほどで、その素晴らしい魔導師様が来て下さると町は沸いたものだった。
 まあ実際来て見たらかなりの変人だった訳だが、エルフは変人が多いし、根は優しい人なのでブランレトゥの町民たちからの信頼も厚く、特に一部の女性からは熱狂的な支持を得ている。

「なら何で俺を呼んだんだ?」

 ジョシュアの問いにウィルフレッドがレベリオを振り返る。彼の視線から顔を背けたレベリオは、それでも懐に手を伸ばし、そこから一枚の紙切れを取り出して書類の山の頂上にそっと広げた。それを覗き込んで、ジョシュアは目を丸くする。
 それは記入済みの離縁届だった。ナルキーサスの分がきっちりと記入されている。

「これは、また……」

 何と言っていいか分からずにジョシュアはそれとレベリオを交互に見る。

「……神父様はおりませんし、他に相談できる方が思い浮かばず……」

 いつもの彼らしくなくもごもごとレベリオが喋る。

「以前から、その……というかこのブランレトゥに来た直後から、離縁して欲しいと言われていたんです」

 顔を俯けたままの彼からはその声でしか感情を察せないが、何だか随分としょぼくれているのだけは分かる。
 ブランレトゥに来た直後と言えば、既に十数年が経過している。

「ブランレトゥへは半分、騙すような形で来てもらい……余計に関係が悪化してしまいまして……でも、もう十数年夫婦として全く機能していなかったのは事実で、やっぱり……離縁するしかないんでしょうか」

 ずーんと落ち込んでしまったレベリオにジョシュアはなんと声を掛けて良いか思い悩む。
 これまでプリシラと離縁騒ぎになるほどの喧嘩などしたこともないし、そもそもジョシュアの周りの夫婦は両親も含め類は友を呼ぶではないが、離縁という言葉とは無関係なほど仲の良い夫婦ばかりだ。それにジョシュアは平民でお貴族様の夫婦事情は更に分からない上、そんな二十年近くもの長い間、夫婦関係が拗れているとは知らなかったのだ。何と言っていいか、さっぱりと分からない。
 重い沈黙が団長室に立ち込めた時だった。コンコンと窓を叩く音が聞こえて三人分の視線がそちらに向けられる。レベリオが何かに気付いて窓辺に駆け寄り、窓を開ければ大きな鷲が一羽、ふわりと部屋に入って来てジョシュアが咄嗟に差し出した腕に降り立った。

『真尋だ。伝言を頼んだ。こいつは魔力を込めて送り返してくれ』

 鷲はそう告げると手紙の括りつけられていた足をレベリオに向かって差し出した。やはりマヒロからの遣いだ。最近、遠距離で使える伝言魔道具を作っていたからこれもそのうちの一つなのだろう。これだけの立派な鉤爪を持っているが全く痛くないのだ。
レベリオが、失礼します、と律儀に声を掛けて鷲の足から結んであったそれを解いて広げ、目を通す。読み進めていく内に、ううっと呻いて頭を抱えると読み終わった手紙をウィルフレッドに渡した。

「……ちょっとお水を頂いてきます」

 もはや幽霊のような顔でそう告げるとレベリオは、ふらふらと部屋を出て行った。
 手紙を読み終えたウィルフレッドが、はぁとため息を零してそれを寄越したので、鷲を肩に移動させてから手紙を受け取り目を通す。

『レベリオ・コシュマール子爵殿へ

 ナルキーサス夫人は隠蔽スキルを用いて、馬車に乗車していました。
 グラウで形ばかりの説得を試みても無駄と判断しましたので、グラウに到着後、一度だけ帰るかどうかの意思確認はしますが、間違いなく帰らないと思いますので、このまま同行してもらいたく思います。
 幸い、ナルキーサス夫人のお父上を双子も存じているようで、旅の不安と緊張も彼女のお蔭で解れたようです。
 
 これは一妻帯者からのお節介な助言ですが、某家出夫妻同様、お二人も些か人間の特権である会話というものを使いこなせていないように感じました。
 私は妻が赤ん坊のころから一緒におりましたので、言葉はなくともお互い何を考えているかは分かりましたが、それでも会話は必要不可欠な物でした。
 私たちが敬愛するティーンクトゥス神であっても、心の奥底を覗くことは言葉を用いた会話無しには成立しません。
 そもそも言わなくとも理解してくれるだろうというのは、傲慢というほかありません。私は夫人の話しか聞いていませんし、言葉を隠す彼女にも問題はありますが、それでも頭ごなしに彼女の男装やその生き方を否定し続けた言葉は、褒められたものではありません。
 どんな理由があって彼女が男装しているのかなど私は知りもしませんし、興味もありません。
 ただ、以前、王都に居た頃も彼女は男装のようなことはしていましたが、今ほど完璧では無かったと孤児院のトマスが教えてくれました。あの頃は、長い髪を丁寧に結えていたとも。
この国の女性としては明らかに異質な短い髪は、貴方への強い意思表示なのではないかとも思っております。
 一か月という猶予をナルキーサス夫人は、意図的に貴方に与えていますが、この一か月の間に貴方が夫人が求める答えに辿り着けないのならば、離縁は免れないだろうと私は思っております。
 離縁したくないのならば、答えを探して下さい。
 そうでないのなら、そして、もし彼女を心から愛しているのならば離縁という斧で形だけの夫婦という錆びた鎖を断ち切るのもまた、愛情の一つです。

 返事を頂けるならば、この鷲にでも持たせてください。
 明朝、開門を待ってグラウの門を潜る予定です。
 私の愛しい子供たちをどうぞよろしくお願い致します。

                     マヒロ』

 マヒロにしては大分、優しい言葉で書いてくれたんだなぁ、とジョシュアは感心する。
 要約すれば「話し合え、馬鹿野郎。出来ないなら、さっさと別れてやれ」ということで間違いないだろう。基本、なにはどうあれマヒロは女性の味方だ。それにマヒロとナルキーサスはどこか似ている部分があるので、ジョシュアたちよりも彼女が言葉に出来なかったものが分かっているのかも知れない。

「政治的な話をすれば、」

 徐にウィルフレッドが口を開く。

「ナルキーサスは、アルゲンテウス領にとってお前やレイと同じく重要な人物であり、一つの戦力だ。だからレベリオと離縁されるのは非常に困る。彼女は、元々貴族ではないから平民になるとその気になればどこへ行こうと自由になってしまうからな。だが、」

 そこで言葉を切ってウィルフレッドが顔を上げた。

「友人としては、幸せになって欲しいと心から願っているんだ」

「ウィルは知ってるのか? 二人がここまで拗れた訳」

「ああ。多分、その切欠は知ってるが、俺がおいそれと話せることじゃないんだ。レベリオもキースもそのことには絶対に触れないからな。だからあいつが話し出すまで、待ってやってくれ」

「それは構わないが、俺よりマヒロのほうがこういうことは適任なんだがなぁ」

「そうは言ってもいないんだから仕方ないだろう? こうも身近で拗れていると結婚というものに自信がなくなる」

 呻くように言って、ウィルフレッドが煙草を取り出して火を点ける。ジョシュアはくすくすと笑いながら肩の上の鷲を撫でる。鷲は大人しくしていて、物珍し気に部屋の中を見ている。

「まあまあ、俺とシラを見習うんだな。結婚はいいぞ。奥さん可愛いし、子どもも可愛い」

「お前たちはなぁ……あ、そういえばシラが懐妊したんだってな、おめでとう。遅くなっちゃったな」

「ありがとう。ははっ、大丈夫さ、忙しいのは知ってるから」

 そう返せば、ウィルフレッドは嫌そうに聳え立つ書類の山を見て紫煙と共にため息を零した。

「お陰様で書類漬けだ……だが、キースに聞いたがつわりが酷いんだろう?」

「ああ。上二人の時はほとんどなかったんだが、今回は酷くてな。とはいっても快方に向かってるし、寝込む日も減ったんだ。ソニアやクレアも大丈夫って言ってたし……まあ、心配なものは心配なんだがな。代わってやりたいが、こればっかりはどうしてやることができないのがもどかしい」

「そうか。すまないな、大事な時期に騒動を持ち込んで」

「いいさ、と軽くは言えないが、事情が事情だから気にするな。それにシラもアマーリア様とは仲良くなれたようで楽しそうだしな」

「そう言ってくれると胃に有難い。今日呼び出したのはレベリオのこともあるが、アマーリア義姉上のことでも話があってな」

「何か分かったのか?」

 ウィルフレッドが立ち上がり、こちらにやって来る。ソファの方へと促されて、そちらに足を向ける。

「リヨンズ派の残党の可能性が否めない。騎士団の膿は出し切ったが、まだ別の場所に残っていたらしい」

「……これ以上の厄介事は、勘弁してくれよ?」

 ジョシュアは、顔を顰めながらため息交じりにそう返したのだった。

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