称号は神を土下座させた男。

春志乃

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本編 2

第八.五話 泉の畔にて

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「良い、お天気ねえ」

 雪乃は、白い兎の耳を揺らしながら晴れ渡った青く澄んだ空を見上げる。

「地球に居た頃と空の色は変わらないのね」

 人間よりずっと敏感な聴覚は、森の中の魔物たちの小さな息遣いや草の葉が揺れる密かな小さな音まで拾い上げて雪乃に伝える。
 神の力を借りて、雪乃たちはティーンクトゥス神が見守るアーテル王国へと転生した。
 海斗は瞳の色が青から、緑の混じる青に変わって魔力を宿して転生したが瞳の色以外に外見的な変化はない。けれど、雪乃と園田は獣人族に双子の真智と真咲はそれでなくとも十一歳とまだ幼かったのに三つも若返って転生した。故につい最近まで馴染んでいた大きさより双子はいくらか小さく、少しだけ感情の使い方が幼くなった。
 園田は「真尋様の犬になりたいのです」という願いを真顔で臆面もなく言ってのけ、「分かります!」と頷いてしまったティーンクトゥスが彼を犬の獣人族にしてくれた。赤茶の髪と同じふさふさの毛で覆われた先っぽが少し垂れた三角の耳とモップのようにふさふさの長い尻尾とちょっと鋭い犬歯を貰った彼は、正直、以前とあんまり変わらないような気がするのは雪乃だけが感じていることではないだろう。元から彼の大好きなご主人様の前に居る時は皆、ぶんぶんとはち切れんばかりに左右に振れる尻尾が見えると話していたのだ。
 そして雪乃は「真尋さんの子どもが産める体にして欲しい」と頼んだところ、悩みに悩んだティーンクトゥスが獣人族という提案をしてくれた。
 雪乃のポンコツな体は、ティーンクトゥスが新たな体を作り替えるにあたっても普通の人と同じような健康体には出来ないと申し訳なさそうに言われた。
 真尋と雪乃の体と魂は、一路や海斗、双子や園田、その他大勢の人々と違い元々の造りが全くの別なのだという。
 二人の体と魂は、日本の名のある神々が丹精込めて作ったものだから異界の神であるティーンクトゥスは、その本質を変えることが出来ないそうだ。真尋と雪乃がアーテル王国で何度も転生を繰り返せば、多少の修正、例えば雪乃の体を病気知らずの健康体にするといったことも出来るが、それには十回くらいの輪廻転生が必要なので実質、今世では無理な話だった。ならば、その神々に頼めばどうにかなるのか、と海斗が問えば、向こうの神々もあと五回くらいの輪廻転生で徐々に健康体にしようと思っていたというか、魂を作り変えるというのは難しく繊細で、安全を考慮すると創作主であってもそれしか出来ないのだという。結局、神と人では生きる時間の長さが異なるので、感覚が全く違うのだ。
 だが、心優しくちょっとおバカだが泣き虫で優しいあの神様は、真尋と雪乃の体と魂を作った神々に頼み込んで、雪乃を比較的体が丈夫な獣人族に生まれ変わらせてくれたのだ。向こうの神々も雪乃の体の弱さには思うところあったらしく、可愛い獣人族ならと許可をくれたそうだ。何で可愛い獣人族なのかというと雪乃の顔形を作った神が「ごついのだけは絶対に駄目だ。加えるなら可愛いとか綺麗だけにしてくれ」と譲らなかったそうだ。神様とは遠い存在だったと思っていたが、何となく人に近い感覚も多少は持っている存在なのかも知れないと雪乃は感じた。ちょっとだけ一路に対して海斗が言いそうだなと思ったのは内緒である。

「でも、私の可愛い娘と同じなら大歓迎ね」

 泉に映る自分の姿を覗き込み、耳を撫でて雪乃は小さく笑う。雪乃の瞳は、日本人の一般的なこげ茶から、銀色に紫の混じる色へと変化していた
ともすれば兎の耳より瞳の色のほうが慣れないかもしれない。
 雪乃に提示された選択肢は、兎の他に猫や鼠、リスに犬といった可愛い動物だったのだが、ティーンクトゥスが真尋はこちらの世界で息子を一人、娘を一人養子に迎えたと聞き、更に娘が兎の獣人族だと聞いて雪乃は兎を選んだ。息子は有鱗族で蜥蜴さんらしいが、雪乃は爬虫類も好きなので大歓迎だ。
 獣人族は竜人族を除いた他のどの種族よりも体が丈夫で、雪乃のひ弱な魂を入れて、尚且つティーンクトゥスの加護を与えて貰っても風邪を引きやすく、疲れやすいが一人、頑張って二人くらいなら子供を産んでも大丈夫になるらしい。実際の獣人族は、二、三十人産んでも平気だそうだがそこまで産む人は現実問題お金もかかって大変なのであんまりいない。

「ミアちゃんとサヴィラくん、どんな子なのかしら。でも私と真尋さんの子なんだから可愛いに決まってるわよね」

 想像するだけで早く会ってみたくて仕方がない。受け入れてもらうには時間がかかるかも知れないが、それでも家族になれたらと思う。

「真尋さんのことだからお嫁さんにもお婿さんにも出さないって言い張ってそうねぇ。自分は私をお嫁にもらったくせに」

 変な所で大人げないというか心の狭い人なのでその辺は心配だ。ふぅ、とため息を零してから顔を上げる。

「さて、ご飯の仕度をしないとね」

 時間帯はもうすぐ昼食の時間になろうとしている。
 海斗は周囲の確認に、園田は双子と一緒に木の実や茸を探しに行ってくれている。
 ここへ来るにあたって、過保護なティーンクトゥスは高価な魔石や莫大な資産を指輪型のアイテムボックスに入れて持たせようとしてくれたが雪乃は丁重に断り、使い慣れた調理道具と真尋が恋しがっているであろう日本の昔ながらの調味料と米、昆布、鰹節、海苔などをその魔石や財産と同じだけの値段分入れて貰った。

「お鍋でもお米は炊けるけど、真尋さんに言ったら炊飯器とか作ってくれるかしらねぇ」

 笊の上に必要な分だけお米を出して澄んだ泉の水で研ぐ。テントの中の水道の水で炊くより、この泉の水で炊く方が何倍も美味しいのだ。それをティーンクトゥスに頼んで持って来た土鍋に移して水加減を調整して昆布を一枚入れて、蓋をする。水を含ませている間に、今朝、その辺で集めた野草でお味噌汁を作る算段をつける。もう一品欲しいが何分、食材がない。庭に落とされる予定だったのでアイテムボックスの中には食材がなかった。
 イギリスに帰省する度に狩りをしていた海斗にウサギやキジみたいな鳥を狩って来てほしいとは頼んであるが、こればかりは運次第だ。ちなみに捌くのは勿論、雪乃だ。昔は怖かったが、命を頂くという行為は人間の営みだと教えらえて以降、可哀想という気持ちは消えないが捌くことは平気になった。
 雪乃はかまわないが、育ち盛りの双子にはちゃんとしたものを食べさせてあげたい。何かないかしら、と土鍋を抱えたまま辺りを見回した時、バキバキッガサガサンッと大きな音がして、すぐ近くの森の中に何かが落ちた。小鳥たちが一斉に空へ逃げ出し、どこに隠れていたのか角のあるウサギ数匹、一目散に逃げて行った。一瞬、ウサギに対して「食材だわ!」と思った雪乃も彼らが必死に逃げ出す様に我に返り慌てて「ドラゴンに襲われても平気」だというティーンクトゥス製のテントの中に逃げ込んだ。土鍋を抱えたまま様子を窺うが獣が飛び出してくる様子はなく、森は再びシンと静まり返った。
 ふと、バサバサと羽ばたくような音が聞こえて、顔を上げると大きな鳥のようなものが西の方へと飛んでいく。随分高いところを飛んでいるようで姿ははっきりと分からず、太陽の光が眩しすぎて黒い影にしか見えないので多分、鳥としか言えない。

「流石にあれは捕まえても私じゃ捌けそうにないわねぇ」

 これだけの距離があって大きいと感じるのだから、かなりの大きさに違いない鳥に雪乃は嘆息する。

「でも……何が落ちたのかしら」

 音がした方へ顔を向けるが、やはりそこは異様なほど静かだ。
 白い長い耳をぴんと立てて音を収集するが、先ほどまでそこにあった小さな魔物たちの息遣いが一切聞こえなくなっている。

「女は度胸ね」

 少しだけ悩んだあとうふふっとい悪戯な笑いを零して雪乃は、土鍋をテントの中のキッチンへと置いて、テントから出る。雪乃はティーンクトゥスが用意してくれたライラック色のチュニックを着ている。裾を引きずるほど長いので細い革ひもを使い腰で調整し踝丈にしていた。一応、ロザリオが腰にぶら下がっていることを確認し、ティーンクトゥスがくれた魔法を使いやすくしてくれるというロッドをアイテムボックスから出す。ミスリル製のそれは雪乃の身長と同じくらいあって、上へと延びる蔦植物の彫刻が施されている。ロッドの天辺には大きな透明の魔石が薔薇のような加工をされ、葉っぱの台座に収まっている。とても軽いが海斗や園田には持ち上げられなかった雪乃専用のロッドだ。多分、本当は重いのだろうから、魔獣とかいうものが現れて、いざとなったらこれで殴れば行ける気がする。という周りが聞いたら全力で止めそうな作戦の下、雪乃は森へと入った。



 少し進んだだけで、目的の場所に辿り着いてしまった。もう少し冒険がしたかったが、双子や園田たちに心配を掛けたいわけではない雪乃は素直にそこで足を止めた。
 枝が何本も折れて、直径五メートルほどの範囲で地面が凹んで抉れている。まるで隕石でも堕ちたかのような光景だ。焦げ臭さなどはなく、火の手は上がりそうにないが折れた太い枝やなぎ倒された草花に落下物はよほどの勢いと威力だったことが見て取れた。
 その中心に何か大きな石のようなものが落ちていた。辺りの音を探るが風が生み出す音しか聞こえない。

「何かしら」

 雪乃は踝まである裾を細い革のベルトに挟んで、足元に気を付けながら斜面を下りそこへ近づいていく。
 半分、土を被っていて全容が見えず、雪乃は呪文を唱えてそれを隠していた土を払った。
 そこにあったのは、乳白色の地に淡い桜色と溶かし込んだ銀色で美しい花の紋様が浮かぶ大きな石だった。ロッドでつついてみたがピクともしない。雪乃は、傍に膝をついて鑑定というスキルを発動する。

「《鑑定》」

『???の卵』

 ふわっと現れた半透明のパネルにそんな文字が並ぶ。
 どうやらこれは石ではなく何かの卵のようだ。何の卵かはどういう訳か分からない。恋愛小説は好きだったがファンタジーやゲームになじみのない雪乃はスキルだとか魔法の持つ意味は今一つよく分からず、便利な物という認識しかない。鑑定もスマホに聞けば答えが返って来るという機能と同じだと思っている節があるので「???」の部分は神様であるティーンクトゥスが知らないものなのだろうと結論付ける。自分のスキルレベルが低く解析が出来ないという発想が彼女にはない。

「ティーンさんが知らないから分からないのね」

 のんびりと呟いて雪乃は卵に触れてみる。最初は指先でつついて、反応を確かめるが何の変化もない。次にそっと指で触れ、ゆっくりと手の日平を当てた。表面の感触は鶏の卵にそっくりだ。

「あら……冷たいわ」

 卵は氷のようにひんやりとしていて、親鳥に温められていた様子はない。

「もしかして、あの鳥さんがどこからか盗んで来て捨てたのかしら。カッコウのもっと悪い奴バージョンかもしれないわ」

 雪乃が出した結論は、カッコウみたいな托卵という習性を持つあの大きな鳥が自分の卵を育てさせるために他の鳥の巣に自分の卵を置いて来て、邪魔でしかない元々そこにあった卵は割ってしまおうと持ち出して落としたというものだ。

「可哀想に……食べて供養してあげましょう。貴重なたんぱく源の確保だわ」

 ここに誰か一人でもいればツッコミを入れて止めてくれたかもしれないが、生憎と雪乃一人きりだった。こういう部分が真尋が彼女を表する時の「ちょっと抜けている」という部分なのかもしれない。
 持ち上げようとしたが重くてびくともしなかったので、雪乃はロッドを振って呪文を唱えてそれを風の魔法で持ち上げた。

「本当に大きな卵」
 
 雪乃の両腕で抱えるほどに大きな卵は、雪乃の頭より大きそうだ。これは食べ甲斐があるとテントに帰ろうと踵を返す。
 目の前をふよふよと浮かぶ卵を見ながら雪乃は悩む。

「生卵のままはだめよね。海外だと殺菌出来ていないから危ないって真尋さんも言っていたし、オムレツを作りたいけどそもそも簡単に割れそうにもないし……そうだわ、しっかり火を通して硬めのゆで卵にして食べましょう。茹でて固くなれば石で殴りつけても中身が零れないものね」

 調理方法が決まったあと、今度はどれくらい茹でればいいのかしらと悩みながら雪乃はテントに戻る。雪乃は、鶏や烏骨鶏、ウズラの卵は調理したことがあるが、これほど大きい卵は初めてだ。
 うんうんと悩みながらテントに戻り、雪乃は一番重要な部分を見落としていたことに気付く。

「大変、お鍋がないわ」

 この卵が入る大きくて深い鍋がない。唯一ある深型の鍋は味噌汁を作る予定で既にだし汁の用意がしてあるし、土鍋にはこれから炊くお米が入っている。他にあるのは小さな鍋やフライパンばかりで、この卵が入るようなものはない。味噌汁を後回しにしたとしても、その鍋にこの卵は入りそうにない。

「そうだわ、私、魔女になったんだもの、魔法でどうにかすればいいのよ」

 雪乃は軽やかにぽんと手を打って卵を連れてそのまま外へと出る。

「《ウォーターボール》」

 目の前に水の球を作り出して浮かべ、中に卵を収める。そして、加温の魔法を掛ければボールの中の水が徐々に沸騰して小さな気泡がぐつぐつと卵の表面を撫でるように昇っていく。湯気も出ているしどうやら成功したようだ。

「殻も厚いみたいだし、大きさからしてもかなり茹でなきゃだめよねぇ。あ、お米を炊かなきゃ、皆がお腹を空かせて帰って来ちゃうわ」

 雪乃は卵が大丈夫そうだということを確認し、テントの中へと戻る。
 その時、一度も振り返らなかった雪乃は、卵の表面に刻まれた花のような紋様が桜色を溶かしたような銀色から夜明けを思わせる紫を纏った銀色へと変化したことにも、卵がぶるぶるっと左右に身震いしたことにも気付かなかった。







 昼食を食べ終わると一休みした海斗と園田は、今度は二人連れだって再び森の中へと行ってしまった。今度は、調査では無く食料調達に行ってくれたのだ。ウサギの巣穴がたくさんあるところを見つけたと言っていたので、ウサギを捕まえて来てくれると期待している。
 双子は、リンゴや山ブドウと思われる果実を園田とたくさん採って来てくれたのだが、疲れてしまったのかリビングのふかふかの絨毯の上で並んでお昼寝を始めてしまった。雪乃は、ソファに腰掛けて二人のあどけない寝顔を眺める。
 兄である以上に父親として彼らの中に存在していた真尋を喪い、真智と真咲は文字通り泣き暮らしていた。
 あんなにも無邪気な笑顔で元気で暇さえあればお友達と外を飛び回って遊んでいたのに、にこりとも笑えなくなって、いつも不安そうに雪乃に張り付いていた。まるで雪乃までどこへも行かないようにと縋るその小さな手に、雪乃は傍にいて「大丈夫よ」と声を掛けることしか出来なかった。
 大好きだった学校へも行けなくなってしまい、ご飯も食べてくれなくて、夜泣きをしたり、夜中に真尋を探し回ったり、あれもこれもいやだいやだとまるで赤ちゃんに戻ってしまったかのようだった。
 それに兄のように慕っていた園田が、心から敬愛する主を喪いにこりともしなくなってしまったことも双子を不安にさせていたのだと思う。
 だが、双子がそうなってしまった直接の原因は、真尋の死でも園田でもない。
 真尋の葬儀が済んで暫くの間、あの多忙を極めていた真尋たちの両親も仕事を休んで家にいた。
 真尋の両親は、大切な我が子を突然失い、身を切られるような哀しみに襲われて憔悴し、哀しむことにさえも疲れ切っていた。
 真尋と一路の命を奪ったトラックを運転していたのは、三十代の男性だった。その男性は心筋梗塞を起こしていて真尋たちを撥ねた時には、既にこと切れていたと後の調べで分かった。彼は、天涯孤独でその上、個人営業のトラックであったため会社にもどこの組織にも属しておらず訴えようにも訴える場所がなく、怒りの矛先を向けるところがなかった。
 雪乃とて最愛の夫と大事な友人を奪われたのだ。憐れには思えど同情は出来ず、憎しみや怒りの感情の方が大きかったが、それでも雪乃には真智と真咲がいて、園田がいた。彼らは真尋が遺した大切な家族だ。特に真智と真咲は弟でもあるが、子どもを望めない真尋と雪乃にとっては我が子にも似た存在だった。だから雪乃は、憎しみより怒りより双子と園田と共に悲しんで、彼らをどう守るべきが、どう癒すべきかに頭を悩ませた。
 だが、真尋の両親は怒り、憎しみによって哀しみを昇華させようとした。
 真尋の死は、父親の所為でも母親の所為でも、まして双子や雪乃、園田の所為ではない。
 けれど、二人はこれまでのお互いへの不満を爆発させた。特に母の真奈美まなみは夫の真琴まことに対して、息子の誕生日を忘れていたことから穿り返して八つ当たり気味に泣きわめく日々を送っていて、真琴もしばらくは自分が悪かったと宥めて彼女を抱き締めていたのだが、哀しみを抱えるのは二人とも同じで遂に爆発し、真尋の葬儀から二週間後、二人はリビングで大喧嘩を始めたのだ。
 あの時、雪乃は両親の喧嘩に怯える双子を宥めるために共に二階にいたのだが、ガラスの割れるような甲高い音に驚いて、慌ててリビングへ降りると血だらけの園田と彼に庇われたのか真琴が床に座り込んでいて、園田の足元に粉々に砕けたワインの瓶が転がっていた。どうやら彼女が投げた瓶があたって、園田は額を切ってしまったようだった。

『充さんっ!』

 慌てて駆け寄ろうとした雪乃に園田は「危ないですっ!」と叫んで雪乃に来ないように告げ、自分が雪乃たちの元にやって来た。雪乃に張り付いていた双子が園田に抱き着いて「みーくん」「死んじゃダメ」と血だらけの彼に再び泣き始めた。園田は、大丈夫ですよ、と告げて雪乃が当てたハンカチを受け取り、傷口を抑える。
 救急車を呼ぼうと雪乃がスマホを取り出した時、再び真奈美の金切り声が響いた。

『真尋はどこなのよ!? 私の、私の真尋を連れて来てよ!! あなた、何でも叶えてくれるって私に言ったじゃないっ!!』

 スリッパをはいていなかった彼女の足が破片を踏んで血だらけになり、雪乃は「お義母様!」と声を上げたが、真奈美は慌てて立ち上がった夫に詰め寄ることに夢中で雪乃の声も、その痛みも分からなくなっていたようだった。

『真奈美、落ち着け、足が……っ』

『真尋はどこなの!! ねえ、真尋を……真尋を早く連れて来てよっ!!』

 悲痛な叫びが涙と共に彼女の口から悲鳴のように零れた。
 双子にとって実の父も母も遠い存在だった。幼いころから傍にほとんどおらず、一年の内、共に過ごす日々は一か月足らずだった。だからその叫びが双子の中で、真尋を喪い彼らも同じように悲しんでいるということを気付かせたのだ。もしかしたら、この時、双子は初めて共有する哀しみが同じという事実に父と母も血の繋がった自分の家族だと認識したのかもしれない。

『お母さん……っ』

『泣かないで、お母さん!』

 あまりに哀切な母の姿に真智と真咲が駆け寄ろうとした時、彼女は伸ばされた小さな手を振りはらった。
 今思えば、あの時、彼女は最愛の息子を失って壊れてしまっていたのだと思う。だけど、それでも彼女は真尋だけではなく真智と真咲にとっても母親だったのだ。

『私が探しているのは、真尋なのっ!!』

 真奈美はあの時、心身の疲労と精神的な錯乱で真智と真咲を認識できていなかった。真琴や雪乃や園田には、大人にはそれが分かった。
 だが、まだ十一歳で憔悴しきった双子には、それを理解することは出来なかった。
 双子の心が大きくひび割れ砕け散った音を雪乃は、あの時、確かに聞いた。
 真智と真咲は、狂ったように泣き叫んだ。
 その泣き声に漸く我を取り戻した真奈美が手を伸ばしたがその手は振り払われて、真琴が伸ばした手もそれは同様で、双子が受け入れたのは雪乃だけだった。双子は雪乃に縋りついて、いいや、しがみ付いて声の限り泣いて泣いて泣き尽くした。その晩は、泣き過ぎて熱を出すほど泣いて、そして、心を閉ざしてしまったのだ。
 あの後、真奈美は双子に弁解しようとしたが双子はそれを頑なに拒んだ。それによってまた精神的に不安定になった妻を案じて、真琴は彼女を連れて静養地にある別宅へと移った。
 今こそ双子と一緒にいてあげるべきだと止めた雪乃に、真琴は「俺には無理だ」と告げて逃げるように出て行ってしまった。
 真尋との仲も随分と冷え切っていたが、彼は結局、自分の子に妻以上の興味がないのだ。彼は確かに妻である真奈美を愛しているが、逆を言えば彼女以外に興味がないのだと雪乃は、うすうす気づいていたが気付かないふりをしていた事実を認めざるを得なかった。
 それから精神的に不安定になった双子と共に過ごす日々が終わりを告げたのは、あの雨の日、突然現れたティーンクトゥスだった。それからも色々とあったのだが、ティーンクトゥスが示してくれた希望に双子も園田も少しずつ表情が戻って来てくれた。

「……でも、真尋さんに何て言ったらいいのかしら」

 雪乃は、ソファから降りて双子の傍に腰を下ろした。毛布を掛け直し、額に掛かる前髪を払う。
 真尋はいつも「父や母さんにもっと真智や真咲がどれほど愛しく尊い存在か気付いて欲しい」と零していた。でも、真尋の両親はそれに気付かなかったばかりが、自分の手でそれを壊してしまったのだ。

「んぅ、おに、ちゃ」

 真咲が顔をくしゃりと悲し気に歪め、魘されるように囁いた。
 それに気付いて、雪乃はそっと真咲の頬を撫でた。すると長い睫毛が揺れて、銀に水色を溶かした綺麗な瞳が雪乃を見つけて、涙に潤む。いらっしゃいっと微笑んで手を伸ばせば、真咲は小さくしゃくりあげながら雪乃に抱き着いて来る。真咲を膝に抱えて、雪乃は背後のソファに寄り掛かりとんとんとあやすようにその背を撫でる。細い腕が背中に回されてぎゅうとしがみつかれて少し苦しい。

「……雪ちゃん」

「なぁに、咲ちゃん」

「……お兄ちゃん、まだ僕のこと、ちゃんと好きかなぁ」

 背中をとんとんと撫でる手が一瞬止まりそうになるのを何とか耐える。
 雪乃は真尋と同じ真っ直ぐでサラサラの黒髪に頬を寄せる。

「咲ちゃん、私も真尋さんもね、貴方たちを好きなんて言葉じゃ表せないの。大好きでも足りないわ。真尋さんも、私も、咲ちゃんとちぃちゃんを愛してるのよ。可愛くて食べちゃいたいくらいだもの」

 雪乃はふふっと笑って、顔を上げた真咲のほっぺにキスを落とす。真咲ははにかんだように笑って、雪乃の肩にぐりぐりと頭を押し付けて甘えて来る。
 
「お兄ちゃんに会ったらね、抱っこしてもらう」

「あら、多分、離してくれないわよ? どうしましょう?」

 おどけたように言う雪乃に真咲はふるふると首を横に振った。

「でもティーンさんが、お兄ちゃんには僕より小さい娘がいるって言ってたもん……僕、お兄ちゃんみたいな格好いいお兄ちゃんになりたいから」

 あらあらと雪乃は微笑む。どうやら真咲は真尋の娘を妹として認識しているようだ。一応、関係上は姪になるのだが、感覚的には妹のほうが近いのだろう。それに前々から妹が欲しいと二人は言っていたので、彼らなりに楽しみにしているのかもしれない。ただ子どもの心は大人よりずっと繊細で複雑なので楽観視ばかりも出来ないが。

「ふふっ、どうかしらねぇ。真尋さんってああ見えてちょっとおバカなところがあるからちぃちゃんも咲ちゃんもミアちゃんもサヴィラくんもみーんな抱き締めて離さないかもしれないわ」

「……でも僕は、弟で、お兄ちゃんの子どもじゃない」

 あら、いきなりの剛速球だわと雪乃は苦笑を零しつつ、少し体を揺らしながら真咲を抱き締める。

「大丈夫よ、咲ちゃん。真尋さんはね、本当に本当に貴方たちを愛しているのよ。だからきっと自分の膝に乗せた咲ちゃんの膝にミアちゃんを乗せて、一緒に抱き締めてくれるわ。真尋さんはどちらかだけを可愛がるような人じゃないもの。全部が愛おしくて仕方がない人なの」

「……ほんと?」

「もちろんよ。私が嘘吐いたことある?」

「ない」

 真咲がぶんぶんと首を横に振れば、黒い髪がさらさら揺れる。

「だから真尋さんに会えたら、うんと我が儘を言うといいわ。デレデレしながら叶えてくれるから、今から考えておくといいかもしれないわね」

「うん」

 真咲が嬉しそうに頷いて笑ってくれる。その笑顔につられるように雪乃も笑みを零した。
 それから暫く真咲とお話をしていると、真智が起きた。咲ばっかりずるい、と雪乃に抱き着いて来る真智も抱き締めて、雪乃は身を任せていたが、ふと、卵の存在を思い出した。茹でたのをすっかり忘れていた。夕食の時に驚かせようと思って、彼らが帰ってくる前に泉の中に隠したのだ。
 どのみち双子に夕食の支度を手伝って貰えば隠すのは無理なので、先に見せてあげようと雪乃は二人に離れるように言って立ち上がる。

「私ね、皆が留守の時に良いもの見つけたよ。今から様子を見に行きましょう」

「いいもの?」

 きょとんと見上げる二人の可愛さに笑みを零しながら雪乃は頷く。

「ええ、いいものよ。行きましょ」

 雪乃は双子の手を引き、テントの外へと出る。
 泉の水面は太陽の光にきらきらと輝いていて、穏やかに風が吹き抜ける。
 双子の手を放し、雪乃はロッドを構えて呪文を唱え、泉に隠しておいた卵を引き上げた。あの卵に魔法を使う時は、このロッドがないとどうにもうまくいかないことに泉に隠す時に教えられた。

「あ! 卵だ! 美味しそう!!」

「雪ちゃん、でもなんか絵が描いてあるよ?」

 真智と真咲のそれぞれの反応に「そうねぇ」とのんびりと頷き、「熱いから触っちゃダメよ」と釘を刺してから卵を引き寄せる。
 風の魔法を駆使して沈めておいたので、泉が沸騰することもなく、卵を包むそれが温くなっていることもなく、まだぐらぐらと煮えていた。

「綺麗な卵だねぇ」

「でしょう? でも悪い鳥さんがどこかの巣から攫って来ちゃったみたいで冷たくなっちゃっていたの。だから食べて供養をしようと思って」

「雪ちゃん、卵のてっぺん割れてるよ?」

 真咲が指差した先、卵のてっぺんに確かに拾った時にはなかったはずの亀裂が入っている。

「あらやだ、お魚でもぶつかったのかしら? 中身が出なくて良かったわ」

「雪ちゃん、違うよ! なんか産まれるんじゃない?」

「そうだよ、だってほら動いてるもん!」

 まあ、と驚きながら雪乃は水の玉と加温を辞めて、卵を取り出す。双子の顔の高さで宙に浮く卵はひとりでに元気よく揺れている。
 双子は爛々と目を輝かせて卵を見つめている。
 そこではたと雪乃は、卵の表面に刻まれた紋様の色が変わっていることに気が付いた。まるで雪乃の瞳の色のように紫を溶かした銀色になっている。過熱したから色が変わったのかしら、と雪乃が首を傾げると同時に、ビキビキビキッと一際大きな亀裂が入った。
 はっと息を飲んだ雪乃たちの目の前で、それは誕生したのだった。



――――――――――
ここまで読んで下さりありがとうございました!!
いつも閲覧、感想、お気に入り登録をありがとうございます!!

雪ちゃんって……流石はあの真尋さんのお嫁さんですよね、色んな意味で( ˘ω˘ )
雪ちゃんたちがこっちに来た理由は、こんな感じでゆっくりお話しさせてくださいませ。

次のお話も楽しんで頂ければ幸いです♪
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