明治維新奇譚 紙切り与一

きもん

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第六章

羅刹と与一、見える  ーらせつとよいち、まみえるー

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 後の世、日本で初めて新婚旅行なるものを行ったのが、坂本龍馬とその伴侶お龍であったとの定説が根付くのであれば、それは何とも皮肉な話である。
 なぜなら、その旅でお龍と同道したのは龍馬本人ではなく、替え玉だったからだ。
 慶応二年一月二十三日、薩長同盟に至る会談を斡旋の直後、宿泊していた京都伏見の旅館寺田屋にて、伏見奉行の捕り方に襲撃された龍馬が、その際に負った怪我を療養をするため、薩摩逗留を兼ねた旅に入籍間もないお龍と同伴したというのが表向きに語られている龍馬新婚旅行の動勢である。
 しかし、実際に坂本龍馬の負った傷は殊の外深く、完治には最新の西洋医学、特に外科的治療が必要だった上に、その後も幕府側の複数勢力から暗殺対象として狙われているとの噂が絶えなかった。
 龍馬は、深手を負ったその不自由な身体で、身を隠さなければならなかったのだ。
 その窮地に手を差し伸べたのが勝海舟である。
 既に昵懇じっこんであったグラバーに照会し、上海租界への渡航と、そこで英国の最新医療を受けるべく取り計らったのだ。
 その時期、勝は、諸侯と幕府の共同体勢を唱った公議政体論を幕府に危険視され、軍艦奉行を罷免されていた時期だった。とはいえ、依然として幕府側の要人である事に変わりなく、討幕勢力の坂本に助力するというのは全くの背反行為であり、事実が表面化すれば、彼の社会的な地位が瓦解するのは必定だった。
 にもかかわらず、替え玉を用意するまでの労力を費やし坂本を救ったのは、この頃より、勝の心内に『戮』の構想があったからだ。既に彼の目には、幕府の崩壊は避けられぬ情勢であり、その後の日本を見据えていた。そして、その備えに際して、秘匿、非合法にせざるを得ない実働組織が必要だと考え、その創立に必要な人材として坂本龍馬を渇望したのである。
 ところで、この一連の件における最大の被害者であり、ある意味、功労者でもあったのは他でもない、龍馬夫人であるお龍その人であろう。
 薩摩への道程の途中、大阪から鹿児島・天保山へ向かう薩摩藩船『三邦丸』の人目に付かない船倉で、龍馬本人の口から全てを聞かされたお龍は、何も問い返さず、即座に替え玉の手を引き、たった一言「龍馬さん、海が見たいです」と言って船倉を出ていったまま、その替え玉が慶応三年十一月十五日、京都近江屋井口新助邸にて暗殺されるまで、夫婦として添い遂げたという。
 その後、坂本龍馬とお龍こと楢崎龍が、互いの生涯が終えるまでに逢うことがあったのかどうかは、余人の知る処ではない。

 坂本が、お龍と別れ、日ノ本羅刹を名乗り上海租界に渡航して二年目が過ぎようとした頃、勝を仲介した。彼の元に日本から一人の青年が送られてきた。 
 当時の上海は中国で最も賑わっている港湾都市である。港には欧米諸国の商船や軍艦が数千艇碇泊し、市街には欧米の商館が軒を連ね、通りにはあらゆる人種が溢れており、木を隠すなら森の中、同じ東洋人である日本人が隠れ住むには造作もない場所だった。
 桟橋の喧噪の中、羅刹は青年と対峙した。
「名は?」と羅刹。
「与一」と与一。
 羅刹は、事前に知らされていた与一の名前を問うた。身分証などに意味の無い時代である。簡略な本人確認であった。  
「なんじゃ、つまらなそうな顔しちゅうの」
 羅刹は、しげしげと与一の顔を眺めながら言った。
 与一は驚いた。皆目見当も付かない出自、訳あり鍛冶屋の養子に、元が忍者という高座芸人の弟子。挙げ句の果ては、見知らぬ異国の血に送られと、大概な己の人生、自分の性根は大層荒んでいるだろうと自覚はして生きてきた。
だから、何時いかなる時も初対面の相手には笑顔で接する。いつからか身に付いた処世術である。
 今も、一分の隙もない笑顔を湛えている筈だ。地笑顔とまで云われた無敵の笑顔である。
 それを一刀両断に「つまらなそう」とは…与一は、思わず自らの顔を触ってしまった。
「何をやっとるんじゃ、行くぞ」
 羅刹は、与一を置いたまま、ずんずんと市街地へと歩き始めた。
 慌てて後を追う与一。
 羅刹が根城にしているのはイギリス租界である。上海の中心部ともいえる共同租界の西区に位置していた。
 地元民の貧民窟を通るのが港からの近道である。多少危険ではあるが、人目を避けている必要のある羅刹は、自ずとその道筋を選択することになった。 
 羅刹と与一が会話もなく連れだって歩いていると、それまでの喧噪が途切れた人気のない路地へと差し掛かった。
 空かさず、数人の男達が前方に立ちはだかる。そのうち何人かはナイフを手にしていた。
 乱れた容貌、手に持った凶器。国は違っても判る、追剥の類である。
「おおー、丁度ええ」
 追剥連中を前にして、羅刹は奇妙な事を口走った。
 与一は、羅刹の意図が分からず、事の成り行きを眺めていた。
 追剥の一人が、理解不能の外国後を喋りながら近づいてくる。何となく言っている事は想像できるが、羅刹が同じような口調の言語で言い返している。
 相手が激高した。
 空かさず、着ていた外套を跳ね上げる羅刹。外套の内側には、日本刀を帯刀していた。素早く抜いて斬りつける。
 追剥の一人は、胸から血飛沫の噴水を上げながら倒れた。 
  その時気付いたのだが、西洋服を着ている羅刹は、その上に膝丈まである外套を羽織っていたのだが、その内側で更にマントを羽織り、左腕を隠していた。
 仲間を殺られた残りの追剥達は、怒りを顕わに詰め寄ってくる。
 五人。既に全員が手に刃物を構えていた。
 流石に多勢に無勢だな。と、与一は、まだ他人事の意識が抜けない中、懐の神斬りを確かめていた。その質感を感じる事で、義父気楽亭おもちゃから教わった紙切り芸事以外の技、武器として使う術を思い出していた。
 その瞬間、銃声が響く。
 一発、二発、三発、四発、五発。
 火縄銃しか知らない与一には、聞いたことのない破裂音が短い間隔で鳴り響いた。
 羅刹に振り返ると、外套の胸の辺りに黒こげの穴が開いて、煙が立ち上っている。
 不敵な笑みを浮かべる羅刹の足下に五つ、死体が転がっていた。
 よく見ると、羅刹は凧糸の様な紐を口にくわえていた。外套が肩からバサッと落ち、羅刹の全身が顕わになる。
 口にくわえた紐は、左肩、左肘を伝って左手首に伸びている。そして、手首から先には拳にあたる部分が無かった。拳の替わりに短銃が取り付けられてた。それも西洋で普及し始めたばかり、与一も噂でしか聞いたことのない回転弾倉式の最新型である。紐の端は、その引き金に巻き付いていた。
 つまり羅刹は、口で紐を引き、引き金と操作してピストルを連射したのだった。
「ひえー。連発すると腕が思いのほか痛いぜよ。手首にくっつけたばっかりで、五連発は無謀じゃったかのぉ」そう言いながら、羅刹は、左腕? 左銃座? を軽く振った。銃口からの煙が掻き消される。
 与一は、先の「おおー、丁度ええ」という羅刹の言を理解した。
 ちまちまと言葉では説明したのでは伝わりづらい部分を、百聞は一見に如かず、で理解させたのだ。
 もちろん、ハッタリを咬ます意図もあっただろうが、何より、自分がを受け入れる人間だと知らしめることで、人為ひととなりの大半は示せると思ったのだろう。
 何とも血生臭い自己紹介である。
 兎に角、面倒くさい性格であることは判った。 
 与一は深く溜息を吐いた。
「行くかの」
 羅刹は、何事も無かったように闊歩し始めた。その背中に黙ってついて行く与一。
 これは、与一が岩倉使節団の護衛として欧州に旅立つ二年前、そして、その後に帰国して戮士となる五年前の出来事だった。
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