皇太子の愛妾は城を出る

小鳥遊郁

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1巻

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   序章


 夢を見ていた。その夢は、いつもと違って真っ暗だった。暗闇は嫌いなのに、なぜかここは怖くない。
 わたしはカスリーン・ヴィッツレーベン、五歳。男爵家の娘だ。
 今夜はいつも通り自分の部屋で眠ったはずなのに、いつの間にかここにいた。だからきっと夢だと思うのだけど、今まで見てきた夢とはちょっぴり違う気がする。
 暗すぎて何もわからないから、勇気を振り絞って声を出してみた。

「ねえ、誰かいるの?」

 すると、暗闇の中に、座っている子供が浮かび上がってくる。
 子供と言っても、五歳のわたしよりずっと大きい。十歳くらいかな。とても可愛い顔の子だ。
 その子はわたしに気がついて、真ん丸の目で見つめてきた。

「君、誰?」

 その子は戸惑ったような顔でわたしを見つめている。突然声をかけたから驚いているみたい。

「わたしの名前はカスリーンって言うの。……これって、わたしの夢だよね?」
「夢? カスリーンは夢を見ていて、ここに来たの?」

 その子は不思議そうに聞いてきた。『ここに来た』とはどういう意味だろう。なんだか妙な言い方だ。気になったけれど、それよりも、わたしはその子の姿に目を奪われてしまう。
 その子の髪と瞳は、どちらも黒色。黒い髪も黒い目も、はじめて見た。
 わたしは黒髪の子に興味が湧いて、聞いてみる。

「ねえ、あなたはなんて名前なの?」

 その子は首を横に振るばかりで、名前を教えてくれない。

「名前がないと、呼ぶこともできなくて困るわ。教えてくれないのなら……わたしが名前をつけてあげる。わたしには弟がいてね。弟が生まれる前に、女の子だったときのために考えてた名前があったんだけど、男の子だったから使ってくれなかったのよ。メアリーっていうの。可愛くていい名前でしょ」

 黒髪の子は、わたしの言葉にビックリしたみたい。慌てたように、首をブンブンと横に振った。

「メアリーじゃダメなの?」
「私は女じゃないよ。男だ!」

 その言葉に、今度はわたしがビックリする。
 とても可愛らしい顔だから、女の子だとばかり思っていた。

「えっ、男の子だったの? ごめんなさい。でも男の子の名前は思いつかないわ。女の子の名前だったらたくさん知っているんだけど……どうしようかなぁ。リリーにクレアにマール……そうだ、マールなら男の子の名前でもよくないかしら」
「……ダリーだ。ダリーって呼んでくれていい」

 ダリーと名乗った少年は、とても不機嫌そうだ。
 その名前が本当の名前なのかはわからない。ともあれ、夢の中で会った彼のことを、わたしはダリーと呼ぶことになった。
 その日から、わたしの夢には時々、ダリーが現れた。彼が出てくる夢はどんな夢よりもずっと鮮明で、忘れることがない。
 ダリーに会えると、わたしはいつもたくさんおしゃべりをした。その一方で、ダリーはなぜかあまり自分のことを話したがらない。
 でも、彼が唯一話してくれたことがある。それは、ダリーにわたし以外の友達がいること。
 ある日、彼はぽつりとそう話したのだ。
 その話に、わたしは驚いた。彼はわたしの夢の中の人だから、わたし以外とは会えないと思い込んでいた。
 そして同時に、がっかりする。わたしは父様の言いつけであまり外に出られないせいで、友達がいない。わたしにとってダリーははじめての友達だったのに、彼の方は違ったようだ。

「一番の友達のことを親友って言うんだ。私には親友がいる」

 あまり自分のことを話したがらないダリーが、胸を張ってそう主張する。彼の言葉に、わたしは胸がモヤモヤした。
 それで、つい責めるような口調で聞いてしまう。

「でもその人はどこにいるの? ダリーはいつもひとりぼっちじゃない」
「そ、それは仕方がないんだ。ここへは、誰も来られないんだから。なんでか君は来ているけど、普通の人はここへ来られないんだよ」

 そう答えたダリーは、今にも泣きそうな顔だ。
 彼の言う『ここ』はわたしの夢だと思うのだけど、なんだか違和感がある。気になったものの、彼があんまり悲しげな顔をするから、それについて聞くことはできなかった。


 そしてダリーと出会って七年が経った頃。わたしはひどく落ち込んだことがあった。
 この国では、一定の魔力を持つ子供は、その制御を学ぶためにヴィライジ学院という学舎まなびやに通うことになっている。わたしも魔力を持っているから、通えると思っていたのに、父様が駄目だと言いだしたのだ。
 その頃、わたしにもスーザンという友達ができていて、彼女は学院に通うことになっていた。友達と一緒に学院に通えないなんて、とわたしが泣いたとき、ダリーは「私も魔力があるけれど通えない。カスリーンと一緒だよ」となぐさめてくれた。
 ダリーになぐさめてもらうと、モヤモヤがすっと消え去るから、不思議だ。その後、家庭教師に魔術を習いはじめたわたしに、ダリーはアドバイスをくれたりもした。
 彼と過ごす夢の時間が、わたしは大好きだった。


 けれど、思春期を過ぎたあたりから、ダリーの夢を見る回数が減っていった。久しぶりに会うと、そのたびに彼は成長していた。わたしも同じように成長しているけど、ダリーの背を越えることはできなかった。
 わたしははじめ、彼は夢の中だけの架空の存在なのだと思っていた。でもたくさんの物語を読んで、そういう存在は成長しないものじゃないかと疑問をいだくようになった。
 もしかしたら、ダリーは実在しているのかもしれない。そうであれば、姓があるはずだ。そう思って何度か聞いてみたが、ダリーはかたくなに教えてくれなかった。


 そして、わたしが十七歳になったある日。
 デビュタントで帝都の夜会に出席したときに、この帝国の皇太子であるユーリ・アルミナ・オムラーン殿下と出会った。彼は光り輝く金髪に、青色の瞳を持つ青年で、二十四歳だった。
 黒髪に黒い瞳のダリーとはまったく違うのに、なぜか似ていると思った。一瞬、ダリーの本来の姿がユーリ殿下なのかもしれない、と勘繰かんぐったほどだ。
 とはいえ、話してみると、ダリーとは別人だとすぐにわかった。
 それでもわたしは、ユーリ殿下にかれてしまう。彼もなぜかわたしを好ましく思ってくれたみたいで、会ったばかりなのにプロポーズをされた。
 浮かれてその場で承諾しょうだくの返事をしてしまったくらいに、ユーリ殿下は魅力的みりょくてきな人だ。
 もちろん、わたしはユーリ殿下のきさきにふさわしくないのではないか、という不安はあった。あまりにも身分が違いすぎるから、躊躇ちゅうちょしていたのだ。
 だから――プロポーズの数日後、殿下が「君をきさきにできなくなった。愛妾あいしょうとして城に来てほしい」と言ってきたとき、わたしは少しだけホッとした。
 この国の皇族男性は、婚姻関係を結んだ正妃と側妃、そして婚姻関係にない愛妾あいしょうを持つことが認められている。ユーリ殿下にはまだきさきがいない。身分の低いわたしを正妃にすることは難しい上に、正妃がいないのに側妃を持つのは外聞が悪く、できないのだろう。
 いずれ彼が正妃を持てば、側妃にしてもらえるかもしれない。今はまだきさきとして至らないわたしでも、そのときが来るまで愛妾あいしょうとして努力すればいい。
 そう思って、わたしは家族の反対を押し切り、愛妾あいしょうになることを承諾しょうだくしたのだった。


 愛妾あいしょうになると決めた日、ダリーが夢に出てきた。
 わたしが皇太子の愛妾あいしょうになると話すと、彼はびっくりした顔をする。そして何か言いたそうな目で見てきたけど、ダリーは結局、何も言ってくれなかった。
 最後にダリーに会ったのは、わたしが殿下の愛妾あいしょうとして城に行く前の日だ。

「ダリーはおめでとうって言ってくれないのね」

 わたしの言葉にダリーはうつむいた。

「言えないよ」
「そうだよね。きさきではないもの……言えないわよね」
「そういうことじゃなくて……いや、もういいんだ。私は結局、何もできないのだから。遠くから君の幸せを祈っているよ。殿下は優しい方だと聞いている。きっと幸せになれるよ」

 少しだけ寂しそうな顔で言うダリー。それがまるで最後の言葉のように感じられて、わたしは戸惑った。

「ダリー、なんだかもう会えないみたいな言い方しないで。これからも会えるでしょう?」

 ダリーは返事をしなかった。ただ微笑んでいただけだ。
 その日をさかいに、ダリーは夢に出てこなくなったのだった。


 ダリーに会えないまま、二年の月日が流れた。ダリーは、わたしが愛妾あいしょうになってから一度も夢の中に現れていない。
 それなのに今日、なぜかダリーが――出会った頃と同じ子供の姿のダリーが、夢の中に現れた。
 彼は二年前までと違って、大きなベッドに寝ている。それに、夢の中は暗闇ではなかった。とても豪華な部屋だ。ベッドも今まで見たことがないほど素敵なつくりをしている。
 ここはどこなの?
 ベッドに眠るダリーの顔が、病的なほど青白く見えるのは、気のせいだろうか。
 もしかして、ダリーは病気なの? 
 わたしに治せないかな。わたしは治癒ちゆ魔術が使えるようになっていた。
 この国では、皇族など高位の貴族になるほど強い魔力を持って生まれる。わたしは男爵令嬢だからそこまで力はないし、なにより制御が下手へただ。けれど、治癒ちゆ魔術は比較的得意だった。やってみる価値はある。
 彼に手を伸ばしてみると、すり抜けてしまう。何度試しても、彼に触れることはできなかった。わたしは諦めて、室内を歩いてみることにした。
 ここがどこかわかるかもしれないと思ったからだ。
 あまりにも立派なつくりの部屋だから、皇宮の中かもしれない。皇太子のユーリ殿下に聞いたら、この部屋についてわかるだろうか。
 そう思いながら窓の外をのぞくと、見渡す限り森が広がっていた。どうやらここは、帝都ですらないようだった。当然、皇宮ではないだろう。
 そこでふと気づいた。ダリーは黒髪だ。
 城に黒髪の少年がいるはずがない。昔、皇帝が魔女狩りを指示したせいで、この国では黒髪が敬遠されているのだ。魔女には、黒い髪の者が多かったという。そのため、魔女狩りでは、魔女だという確証が得られない者も、黒い髪であるだけで処刑されることが多くあった。以来この国には、黒い髪をした者は少なくなったらしい。
 もしかしたら、ダリーは他国の貴族なのかもしれない。
 わたしは何かヒントになるものはないか、必死に探す。なぜか、早く探さなければダリーが死んでしまうような気がしたから。
 ベッドの横にあるテーブルの上に、作りかけの刺繍ししゅうが無造作に置かれている。
 これってもしかして紋章? よく見えないけど、その刺繍ししゅうは貴族が家ごとに持つ紋章に似ている気がした。
 わたしはそれを見るために手を伸ばした。しかし、この身体では掴むことができない。
 そのとき、何かに服を引っ張られた。
 あっ、誰かが呼んでる……
 夢が覚めてしまうときの感覚に襲われる。目覚めたくないと必死で念じたけれど、無駄だ。
 だんだんダリーが見えなくなり、わたしは目を覚ましてしまったのだった。



   第一章


「カスリーン様、起きてください。アレクシス陛下がいらっしゃっています」

 侍女のバニーに揺さぶられて、わたしは目を覚ました。ダリーの姿はどこにもない。

「カスリーン様、急いでください。陛下をお待たせしています」

 バニーの声で我に返る。陛下というのは、ここオムラーン帝国の皇帝であるアレクシス・アルミナ・オムラーン陛下のことだろう。
 陛下がわたしに会いに来るなんて、はじめてのことだ。皇太子殿下――ユーリ殿下に何かあったのだろうか。
 慌てて起き上がり、服を着替える。バニーはお茶の用意をしなければと出て行ったので、髪も自分でかすしかなかった。
 身支度を整えている間にも、さっき見た夢のダリーのことが気にかかっていた。頭を切り替えないといけないのに、なかなかできない。
 これ以上陛下を待たせれば、ユーリ殿下の恥になってしまう。わたしは大きくかぶりを振って寝室を後にした。


「突然すまない。急に時間がいてね。ちょうど君と話したいことがあったから、来てしまったんだ」

 オムラーン陛下が待つ部屋に行き彼の向かいに座ると、彼は話しはじめた。
 陛下とお会いするのは二年ぶり。愛妾あいしょうとして紹介されて以来だ。陛下の訪れに驚いたのはわたしだけではないだろう。
 彼の訪問を受けたバニーは、とてつもなく驚いたはず。それに、バニーから話を聞いただろう侍女長も。
 わたしに与えられたこの家は、城を取り囲む壁の中にあるものの、皇帝陛下が住まう皇宮からは離れている。いわゆる下級貴族や商人が出入りする区域にあるのだ。皇帝陛下がこのようなところへわざわざおいでになることは、滅多めったにない。

「お気になさらないでください。わたしの方こそ、このような格好で申し訳ございません」

 陛下の御前ごぜんに出るには、ふさわしくない姿になってしまった。謁見えっけん用の上等なドレスなど持っていないし、わたし付きの侍女はバニー一人だけ。その彼女はお茶を用意するために出て行ってしまったのだから、仕方ないことだった。
 そのとき、バニーが慌てた様子で入ってくる。彼女がお茶をれて退室すると、陛下は口を開いた。

「あれの結婚が決まりそうだ」

〝あれ〟というのは、ユーリ殿下のことだろう。
 陛下の言葉に、わたしはビクッと震えた。いつかこの日が来ることはわかっていた。これは仕方のないことなのだ。
 ユーリ殿下がわたし以外の人と結婚すると思うと切ない。しかしわたしにできることは、彼の幸せを祝福することだけだ。
 それに、これで今の中途半端な立場から、前に進むことができるのではないか。ユーリ殿下の正妃が決まれば、わたしも愛妾あいしょうではなく側妃になれるかもしれない。
 わたしは田舎の男爵家の娘。正妃になれるような身分ではない。しかし、過去に男爵家から皇室に側妃として迎えられた人がいると聞いたことがある。
 側妃にしてもらえたら、公務にたずさわれたり、もっとそばで彼を支えたりできるだろう。

「わ、わかりました。おめでとうございます」
「うむ」

 陛下はわたしをジッと見ている。まるで何かを見極めようとしているような瞳で、冷たささえ感じる。
 けれど本来、陛下はとても優しい人だ。小さい頃にお会いしたことがあって、そのときは『高い高い』をしてもらったり、笑いかけてもらったりした。
 陛下はわたしを見つめたまま、言葉を続けた。

「正妃になるのはオズバーン家のカテリーナ嬢だ。十六と若いが、愛妾あいしょうがいても構わないと言っている。会うことはないと思うが、いさかいなど起こさぬようにな。何かあった場合、罰せられるのはそなたの方になる」

 わたしは陛下の言葉に首をかしげる。側妃になれば、正妃と会う機会もあるのではないだろうか? 
 そう尋ねようとしたとき、部屋のドアが開いた。

「父上」

 その声と共に現れたのは、ユーリ殿下だった。
 オムラーン陛下と皇后陛下の子供は、ユーリ殿下一人。オムラーン帝国の皇族は一夫多妻が認められているが、オムラーン陛下は皇后陛下を深く愛しており、彼女以外の妻をめとることを拒んだという。
 陛下とユーリ殿下は、一目で親子だとわかるほどよく似ている。太陽の光のように輝く金髪に、皇族特有のサファイアに似た濃い青色の瞳。ユーリ殿下の方がいくぶんか背が高く、日に焼けて健康的な肌をしている。騎士団をひきいて毎日のように訓練をしているためだろう。

「執務はどうした?」

 陛下はジロリと息子をにらんだ。

「休憩時間です。父上がこちらに来ていると聞いたので、私もいた方がいいと思い、まいりました。彼女には父上の相手は務まりません」

 わたしをかばってくれているようだけれど、それはわたしの教養のなさを気にしてのことらしい。

「それほど彼女が大切か?」
「カスリーンは私をいやしてくれる人です」

 ユーリ殿下は、きっぱりと言ってくれる。

「それは正妃の仕事だ」
「わかっています。でもまだ正妃は決まっていませんから」

 二人はよく似た顔でにらみ合っている。バチバチと火花の散る音が聞こえそうなくらいだ。

きさきめとることについてはカスリーンも了承したが、本当にこの話を進めていいんだな」

 ユーリ殿下は驚いたような顔でわたしをちらっと見ると、なぜか不機嫌な顔になって言った。

「皆が乗り気ですからね。カテリーナは可愛いし、構いませんよ」

 ユーリ殿下の言葉に、胸がチクリと痛む。
 正直、正妃と仲良くできる自信はない。でもそんなことを言える立場でないことも、理解している。

「正式に決まったら撤回することはできない。だが二人がそれでいいのなら、何も言うまい」

 陛下が何を言いたいのか、よくわからなかった。わたしの立場で『ユーリ殿下が正妃をめとるのは嫌だ』なんて言うことはできないのに。
 わたしにできるのは、二人を祝福すること。そして、これからもユーリ殿下を愛していくことだけだ。


 陛下が帰ると、ユーリ殿下はわたしの向かいに座り、きつい眼差まなざしを向けてきた。

「どういうことだ? そのような格好で陛下に会うとは。侍女に言って身なりを整えさせることもできないのか」

 わたし付きの侍女は一人しかいない。突然やってきた陛下をお迎えする用意と、わたしの支度の手伝いを同時にしてもらうなんて無理だ。無理難題を言うユーリ殿下に、ついムッとする。
 彼の言葉には答えず、わたしは話を変えた。

「結婚が決まったというのは、本当のことなのね?」

 わたしが尋ねると、ユーリ殿下はまた不機嫌な顔になる。もしかして、隠しておくつもりだったのだろうか。

「まだ正式に決まったわけではないが、このままいけば、数ヶ月後には婚約式があるだろう」

 ユーリ殿下の口から改めて聞かされると、やっぱり少し悲しい。でもこれで、わたしも側妃になれるかもしれない。

「君は彼女と直接会うことはないと思うが、万が一会うことがあっても、ただただ頭を下げていればいい」

 ただただ頭を下げる? それは、会話もするなということ?
 先ほど陛下も、同じようなことを話していた。側妃と正妃は、あまり会うことがないのだろうか。舞踏会には一緒に出席することもあると、前に聞いたのだけど……

「どうして会うことがないの? 舞踏会で会わないの?」
「舞踏会だって? 君は愛妾あいしょうなんだから、舞踏会には出ないだろう。今までだって一度も出席していないし、第一、ドレスだって持ってないのに」

 ユーリ殿下のあきれ果てた顔に、わたしの方が驚いてしまう。

「ドレスなら持っているわ。実家から持ってきたもの。わたしだってたまにはユーリと踊りたいわ」
愛妾あいしょうは、舞踏会には出られない。これは昔からの決まりごとだ。二年前にも説明しただろう」
「で、でも、側妃になれば出席することができるって、聞いたことがあるわ」

 わたしが思い切って言うと、ユーリ殿下は息を呑んだ。

「カスリーン、君が側妃になりたいだなんて、はじめて聞いた。どうしたんだ、誰かに入れ知恵でもされたのか?」

 ユーリ殿下のいぶかしげな表情に、わたしは絶句した。なぜ彼は、そんな目でわたしを見るのだろう。
 側妃になった男爵家の女性がいると聞いたのは、わたしが愛妾あいしょうになるずっと前のことだった。ユーリ殿下と会うよりも前のこと。誰に聞いたかも、もう忘れてしまった。

「……じゃあわたしは、ずっと愛妾あいしょうのままなの?」

 小さな声で尋ねると、ユーリ殿下は何かを考えるように目をつぶった。わたしはその間、ユーリ殿下を見つめることしかできない。
 しばらくしてゆっくりと目を開けたユーリ殿下は、冷たい瞳でわたしを見据みすえた。

「君を愛妾あいしょうにしてから、私は一度でも、君をきさきにしたいと言ったことがあるかい?」

 わたしを見る目と同じくらい冷たい、ユーリ殿下の言葉。気づけば、涙があふれていた。
 確かにユーリ殿下は、わたしが愛妾あいしょうになってから一度だって、そういう話をしたことはなかった。
 彼がくれた言葉は『たまらなく君が欲しい』『ずっとそばにいて』『君のそばにいると、何もかも忘れられる』というような、抽象的なものばかりだ。
 なぜ気づくことができなかったのだろう。それらが、わたしをベッドに誘うためだけの、愛情のない台詞せりふだったということに。

「カスリーン?」

 冷たい声で名前を呼ばれて、我に返る。

「ユーリは……言ってないわ。わたしが勝手に思い込んでいただけ」
「そうだろう。この際だ、はっきり言おう。君には私の隣に立てるだけの教養も魔力もない。しかもこの二年間、君はなんの努力もしてこなかったじゃないか。私の隣に立つ気なら、もっと自分を磨く努力をしていたはずだ」

 頭を何かで殴られたような衝撃を受けた。
 確かにこの二年間、わたしはこの部屋でユーリ殿下を待つだけの日々を過ごしてきた。でもそれは、ユーリ殿下がそれを望んでいると思っていたから。それに、侍女長に何度か勉強をしたいと頼んだことがあるけれど、『愛妾あいしょうには必要ありません』と断られたのだ。
 愛妾あいしょうという立場で過ごした二年という月日で、わたしは彼の言うことになんでも従うようになっていた。はじめの頃は意見したこともあったが、まったく耳を貸してもらえないため、諦めてしまったのだ。
 でも今は、大人しくうなずいているだけで済ますわけにはいかない。わたしの二年間の振る舞いについては、誤解されたままでもいい。そんなことより、どうしても確認しなければならないことがある。

「でも、子供ができたらどうするの? 愛妾あいしょうの子供はどうなるの?」

 ユーリ殿下はわたしとの未来をちゃんと考えてくれていると思っていた。もちろん、わたしとの子供のことも。だからこれまで耐えてきたのだ。

「子供だって? 愛妾あいしょうとの間に子供は作らない。君は知っていると思っていた」

 ユーリ殿下の言葉に、自分の顔から血の気が引いていくのがわかった。
 わたしはユーリ殿下をまるでわかっていなかったんだわ。わたしと子供を作る気すらなかった。わたしを愛妾あいしょうにしただけで、それ以上の未来は何も考えていないだなんて、ひどすぎる。
 わたしがひたいに手を当てると、彼は顔をのぞき込んできて言う。

「今日はいったいどうしたんだい? 陛下に何か言われたのか?」
「あなたの結婚が決まったと言われたわ」
「それで側妃になりたいなんて言い出したのか。心配しなくても、結婚しても君のことはこれまで通り大切にするよ。私は君と別れる気なんてない。君は私にとって、とても大事な人なんだ」

 わたしの様子に気づいたのか、ユーリ殿下が急に優しくなる。でも、今さらどんな優しい言葉をかけられても、もう心には響かない。
 涙がとめどなく流れていくが、ぬぐう気力もなく、彼に返事もできない。

「ああ、もう行かなければ」

 わたしの返事を待たず、ユーリ殿下は立ち上がる。

「本当はもっと一緒にいたいが仕方がない。君が陛下にいじめられていないか気になって、仕事を抜けてきたんだ。今日はもう来られないが、また明日の夜に来るよ。そのときにこの話の続きをしよう」

 ユーリ殿下はわたしの涙を指でそっとぬぐうと、まぶたにキスをして部屋から出て行った。
 さんざん無慈悲な言葉を投げつけておいて、急に優しくされても信じられるわけがない。
 一人きりの部屋で、わたしはユーリ殿下との関係の終わりを感じた。
 このまま一生、上辺だけの言葉と身体のつながりだけで、彼の愛妾あいしょうとして生きていくなんてお断りだ。
 寝室に入り、枕を抱えて泣く。この二年、数え切れないほどの涙を流した。
 でも今流している涙は、それとは違う。これはお別れの涙だ。
 ユーリ殿下との二年間を思って流すこの涙が、きっと彼を忘れさせてくれるだろう。


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