16世紀のオデュッセイア

尾方佐羽

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第4章 フィガロは広場に行く2 ニコラス・コレーリャ

アダムの手 1518年 フィレンツェ

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〈ソッラ、ニコラス、ディエゴ、ミケランジェロ・ブォナローティ、ラファエロ・サンティ、マルガリータ・ルティ〉

 フィレンツェ、ソッラの父親ディエゴが営む鍛冶屋は最近さほど繁盛していないが、まだ暮らし向きに困るほどではない。

 フィレンツェ軍が編成された頃からカンブレー同盟戦争にかけては寝る間もないほど忙しい日もあったので、こちらの方が平常なのかもしれない。戦争はこの業種にとって特需なのだ。第二次世界大戦の頃には鍋やかんまで徴収した国まであるほどなのだから……特需なのである。

 フィレンツェは共和制をとっている国である。
 シニョリーア広場に建つヴェッキオ宮を「市庁舎」と呼ぶのは市という行政区分によるのではない。都市の住民が「市民」で、それによって構成・運営される庁舎という意味である。この頃のイタリア半島には、現在のような州・県・市というものはなく、小さい国家の集まりだった。
 ギリシア時代に「ポリス」という都市国家が形成されたが、その構成員が「市民」である。言葉の起源はそこである。

 「市民」や「国家」の考え方は今よりも柔軟にならざるを得ない。戦争で軍隊がひとつ襲いかかれば、そのようなものは瞬時に壊滅するからである。それはフェラーラやマントヴァのように、貴族が支配している国でも同様である。明日はないかもしれない、という危機感を持って政治を行うのである。

 フィレンツェは市民による共和制なので、議会には市民の代表が出る。とは言っても、貴族階級と富裕階級が前面に立つことになるのは避けられない。メディチ家は有名すぎるほど有名だ。しかし、15世紀のロレンツォ・デ・メディチのような卓越した人間は16世紀のはじめにはいない。教皇は出しているが、彼はメディチ家の嫌われている部分を存分に広げている。

 湯水のように金を使うことである。

 すでに神聖ローマ帝国ヴィッテンベルグ大学神学教授のマルティン・ルターが教皇の金の稼ぎ方(贖宥状の濫売)について、金の使い方について、批判する文書を発している。それは教皇庁まですでに届いていたのだが、さほど大事には捉えられていなかった。あくまでも神聖ローマ帝国領内の一案件として、大司教、選帝侯の段階で解決するだろうと考えられていたのである。
 フィレンツェでも、国政に復帰したメディチ家の専横に敏感に反応する一派はいた。それはまだはっきりとした形で、市民を動かす流れになっていない。

 鍛冶屋の話に戻ろう。

 この共和国にはアルテという職業別組合がある。その種のものではギルドが有名だが、同様の内容だ。大アルテと小アルテに分かれているが、業種単位なのは小アルテのほうだ。
 鍛冶屋もソッラの父ディエゴの店だけではない。何十軒もあるので鍛冶屋のアルテも当然ある。
 余談だが肉屋・魚屋、パン職人、靴職人、ホテル経営、ワイン販売、石工・建築家、布・仕立屋、大工、錠前屋など14の小アルテがフィレンツェにはあった。

 ディエゴは数年前に体調を崩してから、優秀な職人に店の切り盛りを任せるようになっていた。本当はソッラと職人を結婚させて跡を継いでもらいたかったのだが、ソッラはフェラーラからなかなか帰ってこない。そうこうするうちに、職人は他の娘と恋仲になり所帯を持ってしまった。ディエゴはソッラを愛していたし、いきなり大きくなって現れた孫にも愛情を感じている。しかし、店をどうするのか、というのは大きな問題だった。ソッラが嫁に出てくれるのがもっとも穏やかな解決方法なのだが、寡婦で子持ちである。そうそういい縁談は来ない。
 そもそも、ソッラは他の男に嫁ぐ気はないらしい。かつて、フィレンツェ軍の司令官だった男との間にできた子と、一生暮らしたいと思っている。

 ニコラスはいい子だ、とディエゴは感心している。
 絵の才能がある、という話はフェラーラにいる娘から手紙をもらって知っていた。鍛冶屋の跡取りには向かないようだ、と落胆はしたが、もともとずっと離れて暮らしていたので心に痛手はない。ディエゴが感心したのは、もの静かなのに誰にでも好かれる素直な性格と、働くことを厭わないことだった。

 孫は稀代の芸術家、ミケランジェロ・ブォナローティのもとで働いている。

 その芸術家は頑固で傲慢で、工房も持っていないし弟子も取らないと有名だ。工房はフィレンツェにたくさんあるから、そのうちのどこかに入るのだろうと思っていたが、どうしたらそんな偏屈な大物に目をつけてもらえるのだろうかとディエゴは不思議で仕方ない。ダヴィデ像をスケッチしていて声をかけられたというが、自分が同じことをしていてもそのような幸運は間違っても起こらないだろう。

 毎朝、鍛冶屋の職人たちが仕事を始めるよりはるかに早く、ニコラスはミケランジェロのアトリエに出かけていく。アトリエはギベッリーナ通りのミケランジェロの邸宅に隣接している。そこで掃除をしたり主人(ミケランジェロ)に命じられた仕事を片付けておく。主人はそんなに早く仕事場に来ないので、時間が空くとニコラスはそこらに置かれた試作品やデッサン画を写す。主人が来たら、また言われたことをして、空き時間があればまた写す。
 ラファエロが写しているときでさえ怒ったのに、この子どもにはそのような禁止事項がない。紙も筆記具も自由に与えられたし、わずかだが手伝ったことに対する給金も与えられていた。

 徒弟というよりは、奨学金をもらった学生のような待遇である。

「今日もだいぶ描いているな」とミケランジェロが仕事場に顔を出すなり、ニコラスに告げる。
「はい、今日もそちらにあるデッサンを写させていただいていました」とニコラスはにっこりして言う。その束は数年前まで取りかかっていたシスティーナ礼拝堂天井画の下絵デッサンだった。
「ああ、それか。アダムと創造主の手の部分だな」とミケランジェロがちらりと見て言う。
 ニコラスが写していたのは、天井画の中心部分にあたる、「アダムの誕生」の部分だった。
「はい、ぼくの父は手がとても美しかったと母がいつも言うので、どんな手だったのかなって思って描いてました」とニコラスが言う。
「ああ、おまえの親父さんはチェーザレ・ボルジアの腹心だったと言っていたな。戦う男の手だったんだろう……見ることができなかったのは残念なことだ」とミケランジェロがつぶやく。

 ミケランジェロは自身と同じ1475年に生まれたチェーザレ・ボルジアに対面したことがない。その父親の教皇アレクサンデル6世ならば遠巻きに見たことがある。ちょうど、「ピエタ像」を制作していた時のことである。

 もしかしたら、会っているのかもしれないが……とミケランジェロは思う。それならば、ここにいるニコラスの父親のことも見ていたはずだ。いずれにしても、制作にかかっていれば人には一切会わないから、きっと会っていないのだろうとミケランジェロは結論づける。

 ミケランジェロは一度、ニコラスの父に会う機会をなくしていた。ニコラスの父、ミケーレ・ダ・コレーリアがローマのカスタル・サンタンジェロの地下牢から出されたときのことだ。ミケーレを引き取ったニッコロ・マキアヴェッリは、フィレンツェからの旅費をミケランジェロに持ってきてもらうことにしていた。しかし、当時の教皇ユリウス2世との話が折り合わず、ローマに来るのをやめてしまったのだ。旅費が届かないマキアヴェッリとミケーレは数日ローマに足止めを食う羽目になった。

 しかし、ミケランジェロはそんなことをもう覚えていない。

 手を懸命に描いているニコラスにミケランジェロはつぶやくように言う。
「システィーナ礼拝堂の天井に絵を描いているとき、許可もなく写しているやつがいた」
「どなたですか? 枢機卿(すうきけい、すうききょう)さまですか」とニコラスが問う。

「いや、画家だよ。ラファエロ・サンティだ」とミケランジェロはぶっきらぼうに答える。

「あ、ぼくの母のお友だちが、ラファエロさんの恋人をしています。アイジン?って言われているようですけれど……母のところによく手紙が届きますよ」とニコラスが答える。

「本当か! 最近ラファエロはどこに行くにも同じ女性を連れているとフィレンツェまで噂が飛んでくるが……世の中は狭くて……人の口は下世話なものだ」とミケランジェロはあごひげを撫でながら言う。
 子どもにあまり言うべき話ではないと思っているらしい。それだけの良識は持ち合わせているのだ。

 下世話でないほうの話をしておこう。

 この頃、ローマのラファエロには新たな仕事の依頼が来ている。ジュリオ・デ・メディチ枢機卿がフランスのナルボンヌ大聖堂に飾るための絵である。この発注はセバスティアーノ・デル・ピオンポという画家にもなされていた。簡単に言うなら、「競作」ということである。ラファエロには「キリストの変容」、ピオンポには「ラザロの蘇生」がテーマとして依頼されている。どちらも、再生と奇跡にまつわる話である。

 ローマで活躍しているピオンポはミケランジェロが目をかけている数少ない画家だった。「ラザロの蘇生」にはじきにミケランジェロもデッサンを提供することになるだろう。単純に構図、下絵という意味ではラファエロとミケランジェロの競作といえるかもしれない。

 ニコラスはただ無心に絵を写している。
 それを見るミケランジェロはふっと、滅多に見せないような笑顔になる。

 表現する、ものを、かたちを創るということは本来このようなものなのだ。世の中の変化、金、義理、他を蹴落とそうとする名誉欲とは無縁のものであるべきなのだ。

 ミケランジェロは自分の仕事、サン・ロレンツォ聖堂のファサード案を描く作業に戻る。

 アトリエには心地よい沈黙の時間がやってくる。
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