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第9章 手折られぬひとつの花 カトリーヌ・ド・メディシス
アレッサンドロが暗殺される 1537年 フィレンツェ
しおりを挟む〈マリア・サルヴィアーティ、アレッサンドロ・メディチ、ジューリア、ジュリオ、ロレンツィーノ・メディチ〉
カテリーナがフィレンツェからの一勢を迎えて、フランス王宮の寵姫と廷臣の小さな派閥争いを、泰然と眺めるだけの体力を付けようとしていた頃、フィレンツェのマリア・サルヴィアーティはアレッサンドロの子を養育するのに専念していた。
アレッサンドロの邸宅『ヴィッラ・ペトレイア』は高台にあり、昔は城塞として使われていた建物があった。フィレンツェの中心地からは少し離れているが、主は歩いて移動するわけではないので問題はなかった。そこに至る道筋や門のところには、神聖ローマ皇帝から派遣された兵が常時警備にあたっていた。アレッサンドロは1536年の1月に、皇帝の庶子であるマルガリータと晴れて結婚した。
そのせいか、警備の兵はさらに増えた。優雅で活気のあるフィレンツェの町は、どことなく武骨になっていた。市民も籠城しているかのような為政者によい感情を持てなかった。
「ジューリアは泣いたりしていない。偉いわ」
小さな寝台で眠っているジューリアという赤ん坊の顔を見て、マリアはにっこりと笑う。
アレッサンドロの子は女の子だ。
実はジューリアの前にも一人男の子が生まれていたが他の者に世話されて暮らしている。
しかし、アレッサンドロの子だとうことは公然の秘密だ。それならば養子に出すという手もあるが、そうはしなかった。やはり子は可愛いということだろうか。
メディチ家の例だけを見ると、それは珍しいことでもないようだ。メディチ家の庶子といえば、ジュリアーノ・メディチ(前教皇クレメンス7世)もアレッサンドロもイッポーリトもそうである。アレッサンドロとイッポーリトの場合は正嫡の子がカトリーヌだけだったという理由もあるのだが、きちんと引き立てられてきたのはこれまでに述べた通りである。アレッサンドロは公爵になったし、イッポーリトは枢機卿になった。一族の誰かが彼らを見捨てることなく育ててきたということである。すべてがそうではないが、このような一族の結束はメディチ家のひとつの伝統かもしれない。
マリア・サルヴィアーティもまた、メディチ家の人だった。そして、沈着冷静に見える黒衣姿のうちに溢れるほどの愛を持っていた。
さて、ここでもうひとり、メディチ家の人間が登場する。
傍流の出であるロレンツィーノ・メディチである。彼はメディチの覇者になる可能性をわずかも持ってはいなかったが文才に秀でていた。大衆劇作家であり、マキアヴェッリほどではないが政治に関する著作もあったといわれている。傍流であるがゆえに、ある程度自由に執筆もできたのだろう。
彼は多くのフィレンツェ市民と同じように、アレッサンドロの専横に不満を持っていた。ただ、アレッサンドロにもの申すことができるほど近しい関係ではなかった。市民の側に立つことがないアレッサンドロを諌めることはできなかったのである。それを知って、ロレンツィーノを利用しようという人間が現れる。その人間はおそろしい計画に彼を引っ張り出したのだ。
1537年の年明け早々、アレッサンドロは招かれてほんの少しの供を率いて、ロレンツィーノの邸宅に出かけていった。
ロレンツィーノの妹、ラウダミアとの逢瀬を叶えるためである。ラウダミアは未亡人だったがまだ若く、たいへん美しいという評判だった。ただ、ペトレイアの城では奥方のマルガリータがいるので、大っぴらに呼ぶわけにはいかない。そこで、ロレンツィーノの邸宅で会わないかと持ちかけたのだ。
もちろん、ラウダミアはいない。
寝台の中には別の人間がいる。
そして、部屋に入ってきたアレッサンドロは寝台の方へすすんでいく。美女を手中にする期待に胸を踊らせて。
寝台の中から彼を招く人影が現れる。
彼は相手を抱擁しようとする。
アレッサンドロの意識はそこで途絶えた。
そして二度と、戻ることはなかった。
1537年1月5日、アレッサンドロは殺害され、遺体は道端に投げ捨てられた。側に付いていたわずかな従者は夜ぐっすり眠っていたために、異変に気づくのが遅れた。邸宅に誰もいないことに気づいて外に出たところで、変わり果てた主の姿を見つけたのだ。すぐさま従者はペトレイアへ馬で駆け戻り、主の悲報を伝えた。
アレッサンドロの死は、すぐにフィレンツェじゅうに知れ渡った。表向きは皆喪に服していたが、残念ながら、専制君主がいなくなったことを喜んでいる人が大半だった。手を下したロレンツィーノを賞賛する者すらいたほどだ。
ロレンツィーノはどこへ逃げたのか、というのも彼らの口の端に上った。どう考えても衝動的なものではない。ロレンツィーノの邸宅があっという間にもぬけの殻になったことからも綿密に計画された殺人であることが明らかだ。「ロレンツィーノ一人の犯行ではないだろう」というのがもっぱらの推測で、協力者あるいは指示した者が誰かということが話題の中心となった。
もちろん市民にとっては、世襲となったフィレンツェの公爵位を誰が継ぐことになるかが最も大きな関心事だった。アレッサンドロと妻マルガリータの間に、まだ子どもはいない。庶子のジュリオとジューリアはまだ、言葉も話せない赤ん坊だ。クレメンス7世のような、後見役ができる大物もいない。アレッサンドロ、イッポーリト以外にメディチ家の当主として養育された男子はいなかった。ふたりともすでに世を去った。女子ならばカトリーヌがいるが、夫と別れてフランスから帰ってくるのは到底無理なことだ。
ペトレイアは大騒ぎになっている。
司祭がマルガリータのところにやってくるが、彼女は何をどうしたらいいのかさっぱり分からない様子だ。それはそうだろう。異国から嫁いでまだ1年しか経っていないし、言葉も心許ない。
マリアはたまらずに表に立った。司祭と話をし葬儀の段取りを整え、メディチの後継について一族に諮る旨の書状をしたためる。フランスのカトリーヌにも手紙を書いて使者に託した。ロレンツィーノの追跡について、市民の警察とも話をした。じきにローマの教皇パウルス3世からの使者も来るだろう……。
この場では大ロレンツォの孫である彼女こそ、大メディチ家の正統に最も近い、指導するのにふさわしい人物だった。
誰もがマリアの指示に従って動いていた。それはまったく的確なものだった。
果ての知れない務めに忙殺されながら、マリア自身も邸宅内を慌ただしく移動している。すると、子ども部屋から赤ん坊の泣く声がけたたましく響いてきた。
マリアはすぐに声のする部屋に入っていく。このところ赤ん坊の顔すらまともに見ていなかったことを思いだし、彼女は胸を衝かれるような気持ちになる。すぐに抱き上げて背中を軽く叩いてやると、赤ん坊は安心したように泣き止んだ。
側にいた乳母が泣きそうな声で言う。
「マリアさま、ありがとうございます。突然火がついたように泣き出して、お乳も受け付けなくて困っていたのです」
マリアはふっと表情を和らげた。
「この子も、父親が亡くなったことがわかるのでしょう。私も見に来てあげられなくて、悪かったわ」
彼女は赤ん坊のぬくもりを感じながら、ざわざわしている邸宅の様子を見る。
この子もジュリオも、これからどうなるのだろう。
マリアがもっとも心にかけていたのは、そのことだった。
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